サンタヤーナの警句

宗像紫雲

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サンタヤーナの警句(第三十三話)

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                 三十三

「『大恐慌』の発生によって各国が再び金本位制から離脱すると、通貨への信任は一気に失われ、世界の貿易は大混乱に陥ります。1930年代にイギリスやフランスなどが植民地など同じ通貨圏の中で関税同盟を結ぶ傍ら、域外諸国へは関税引上げや貿易協定などによる障壁を設けた『ブロック経済』へと走ったのも、ひとえに通貨の混乱から退避するという切実な事情からでした。こうして各国がとった閉鎖的な保護貿易政策が、その後の世界大戦とどの程度の因果関係を持つかは疑問の余地がありますが……」
「あの……」
「通貨の混乱が……」
「あの……、そろそろ……」
 いつまでも終わりの見えない長話に、とうとう隆三はしびれを切らした。時計の針は9時を回っていた。すでに3時間が経っている。スタートが遅かったせいなのか、ただ自分の忍耐力が足りないのか、井坂や高橋もこのペースで付き合ってきたのか……? 様々なことが脳裏をかすめたが、少なくとも今日はこれで終わりにしたかった。
 すると春日は平然とした顔で時計を眺め、「ああ、もうこんな時間ですか」と言っただけで一向に話を打ち切る気配を見せなかった。

「あの、時間も時間ですので、そろそろ……」
 隆三は頃合いを見て辞去しようと努めたが、春日はなかなか彼を放してくれなかった。(これはまずい)。このままズルズルと朝まで付き合わされたのではたまらない。いよいよ防衛本能が働いた。
「あの……、本日はありがとうございました。大変奥深いお話だけに短時間ではとても消化できません。じっくりと調べたいので何か参考書のようなものをお借りできませんでしょうか?」
 本人には咄嗟の出まかせのつもりだったが、老人の耳には“向学心”の表れに響いたようだ。
「そうですな……、では、この本をお持ちなさい。それに、これとこれ……」
 趣味のあった人と出会った喜びを噛みしめるように、書棚や引き出しから数冊の本とファイルを取り出した。
「あなたの記事にお役に立つなら、別に急ぎませんから……」
 満足げに返却期限は設けない言うと、半ばねじ込むようにそれらの本を押し付けた。

「お忙しいところ大変申し訳ございませんでした」
 忙しい人間がこんなに長話をするはずがないと腹の中では思いながらも、お追従ついしょうを口にして立ち上がりかけた隆三を、押しとどめるように春日は言葉を継いだ。
「それらの本を実際に読まれるかどうかは分かりませんが、これだけは覚えておいてください」
 無神経で独りよがりと見くびっていた相手からこの種の言葉が飛び出すと、心底ギョッとするものだ。果たして本当に心の底を見透かされたのか否かは、なお判然としないが……。
「先ほど羽柴さんは、現在の国際通貨体制を『変動相場制』と呼ばれました。いまでは為替市場における通貨間の交換レートが時々刻々と変化するこの制度を当たり前として受け入れていますね……。しかし、第二次大戦後の世界の通貨秩序を定めた各国代表たちは、誰一人としてこのような制度を望みませんでした」
 基軸通貨制が元々は“一時的な便法”だったとか変動相場制は誰にも望まれていなかったとか、今日の常識と異なる“過去”に対しては少なからず食指が動いた。隆三は浮かしかけた腰をまた下ろした。

「『大恐慌』の発生とともに世界の通貨秩序が乱れると、各国は自国の輸出を有利にするため相次いで通貨安誘導を行いました。ある国が為替をダンピングすると、その対抗上他国もダンピングする。そのチキンゲームは決して誰も豊かにしなかったから、『近隣窮乏化政策』と呼ばれたのです。第二次大戦後のブレトン・ウッズ体制を築いた人々はこのような苦い経験を繰り返したくなかったから、貿易においては為替が安定していることが最も重要と考えたのです」
「ブレトン・ウッズ体制と言えば、金との兌換(交換)は米ドルのみを通じて行うという『ドル基軸通貨体制』の大本となった協定ではないのですか?」
「それは間違いではありませんが、この時もやはり、本来のゴールは金本位への回帰であって、その過程として金為替本位制(基軸通貨制)を採用したに過ぎません。それより各国にとって重要だったのは通貨の安定を図ることでしたから、『中央銀行が保証する固定レートの上下1%の反動幅で直物取引をする』という固定相場に重点が置かれたことを記憶しておいてください」
「はぁ、それは知りませんでした……」
「ところがその後、当時の人々が予想だにしなかった時代の波が、制度を歪めます。それは戦前を遥かに超える規模の短期資金の自由移動とアメリカの経常赤字の膨張、世界的なインフレの興進と工業国相互間における経済政策の齟齬などでした。その先は、お貸しした本を読んでください」
 まるで「キャッチ・アンド・リリース」のようであった・
 
 隆三は再度丁重に謝意を述べ、雑居ビルを後にした。エレベーター前の蛍光灯は心なしか入ってきた時よりうすぼんやりと見えた。暗がりに沈んだ古ぼけたビルとは対照的に、数十メートル先には飲み屋の店先からあふれ出した照明のあかりや喧噪が賑やかに通りを照らす別世界が広がっていた。
 もう誰も残っていないだろうと思いつつ、取り敢えず会社へ連絡を入れてみた。予想通り誰も出なかった。今から戻ったところでどうということもないからこのまま直帰することにして、飲み屋街を素通りして駅へと向かった。
「……」
 気のせいだろうか……。暗がりの中から誰かに見られているような錯覚を覚えた。きっと春日の長話に疲れて五感が麻痺したのだろう。気を取り直して電車へ飛び込んだ。かつてほどではないとは言え、山手線の内回りはそこそこ混んでいた。仕事帰りのサラリーマンやバイト帰りの学生、ほろ酔い加減の老若男女……。車内には、ほのかにアルコールの匂いが漂っていた。

 席が空いていれば座って居眠りでもしたのだろうが、やっと吊革につかまれる程度の混み具合だったから、何の気もなくぼんやり夜景に浮かんだ自分の顔を睨めた。そこに映った男の顔はもはや脂ぎった中年のものでなく、衰えばかりが目立つ枯れてしぼんだ姿だった。「歳には勝てない」--。口ではそう言っておきながら、心のどこかでまだ若い自分を期待していた隆三は、電車の窓に映った現実に打ちのめされそうになった。それで慌てて、網棚に置いた鞄の中から借りてきた本を取り出した。
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