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サンタヤーナの警句(第三十六話)
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三十六
脱稿したときは精も魂も尽き果てた--。
こういうシチェーションで使われる常套句である。だが現実はそう甘くない。鉾田ななみをはじめとしてほかの編集部員がいろんな仕事を掛け持ちでやっているのに、隆三独りがこの原稿に掛かりっきりなど許される訳もない。
懸案の原稿が書き終わったので、それまで放ったらかしにしていた仕事を急いで片づけた。
大げさな表現はともかくとして、老体に鞭打って徹夜仕事したあとはやはり疲れた。早めに帰宅したら妻に「何で?」といぶかしがられた。自分で風呂を洗って夕食の前に入浴を済ませた。
風呂から上がって身体を横たえたが、ひと眠りしたいときほど眠れないのがもどかしい。そのうち「ご飯できたよ」と声がかかって食卓についた。
「迫りくるインフレと止まらない円安……。わたしたちの暮らしをどのように変えていくのでしょうか」--。
テレビからナレーターの声がして、心拍数を引き上げる効果音が続いた。毎度おなじみの解説者がひな壇の芸能人と掛け合いをする番組がはじまったのだ。
「なに? これ……。つまんない」
リモコンを手にした妻がつぶやくと、親指ひとつで番組を瞬殺した。インフレ、円安、わたしたちの暮らし……。ついさっきまで自分もその世界の当事者だった。原稿を上げたところで“オフ”になった。そして今は“部外者”として遠くから眺めている。世間の関心なんて、所詮こんなものなのかな……。
翌日出社すると、気のせいかみんながよそよそしかった。とくに副編集長の種村が、極力隆三と目を合わせないようにしているのが伝わってきた。歳を取ると僻みっぽくなるというが、それは単なる被害妄想なのかも知れなかった。そう自分に言い聞かせて平然を装った。
「オイっ、隆三」
昼近くになってポンと肩をたたかれた。定年まじかの彼を呼び捨てにする人物は一人しかいない。編集長の木戸康夫だ。
「どうだ? メシ、行かねえか?」
どういう風の吹き回しだろう? もう何年も一緒にメシなど食ったこともないのに……。
「はぁ、行きますか」
いかにも不自然な誘いに乗って、いそいそ尻尾を振りながら付いていった。
「へいっ、いらっしゃい!」
「オヤジって、いつもの2つ--」
威勢のいい声が飛んだ--。
なぁ~んて世界がある訳ない。木戸が入ったのは小洒落た中華の店だった。
「ビールでも飲むか」
「ああ、いいっすね」
昭和世代のオヤジが二人、昼間っからアルコールに手を染めた。
「特集、ごくろうだったな」
ニラレバ炒めを法張りながら、木戸が隆三をねぎらった。何かある--。駆け出しの小僧でもあるまいし、原稿一本書いたくらいで一々ご褒美にあずかっていたのでは、会社がもたないのは分かり切っている。
「何か、ありました?」
「……」
木戸はちょっと気まずい顔をして、残りの皿をたいらげた。ほどなくして隆三も広東麵の椀を空にした。ラーメンのスープを飲み干すか否か、この年になると議論が分かれる。基本的に彼は全部飲み干す派に属した。
先に食べ終わった木戸が今度はコーヒーに誘ってきた。何か言いにくい話があるときは、だいたいこの手順を踏むと相場が決まっている。歳のせいかパンデミックのせいなのか、隆三はこのまだるっこい空気に堪えられなくなっていた。
「何かあったんでしょ? みんな朝から変ですよ……。いっそのことはっきり言ってください」
「あのな、種村がお前の原稿に頭抱えてるんだよ」
木戸は意外とあっさり言った。
「なんだ、そんな話ならその場で言ってくれればいいのに……」
「種村は優しいんだよ。分かってやれ、気い遣ってるんだよ」
木戸は怒っているのか困っているのか分からない口調で後輩をたしなめた。
「それで、どこが変だったんですか?」
「まあ、俺も読ませてもらったのだが……」
木戸は「だが」のところにアクセントを入れ、ちょっと勿体ぶってみせた。
「書き出しはまあまあ良かったよ。原油価格の話も面白かった。その後の為替の話の途中でさ……。何とかネグレクトとか言い出したところから、おかしくなった。その後なんかまるで何言ってんだか分かんねえ……。みんな、お前がイッちゃったんじゃないかって、気が触れたんじゃないかって、気味悪がってるんだよ」
「……」
「お前……、大丈夫か?」
木戸の言葉の最後のところが隣のテーブルへ聞こえたらしく、メガネの男が盗み見してきた。
「そうっすかねぇ……」
「そうっすかねって、お前……」
木戸はあきれ顔で身を反らした。ランチタイムに重なった店の中は気ぜわしかった。喧噪というほどでもない雑音が却って隆三の気持ちを紛らしてくれた。
「まあ、編集長がそうおっしゃるのなら、自分は構いませんが、どうします?穴、開いちゃいますよね……」
若い頃の隆三ならば机を叩いて反論しただろう……。自説を通しただろう。それがすっかり牙の抜けた物わかりの良さを見せたものだから、木戸も拍子抜けしたようで、「まあそこは飾り写真を入れれば何とかなる。だいたいお前、文字が多すぎるんだよ。いまどき誰が読むと思ってるんだ」
編集長自らが自己を否定するようなもの言いで、結局「サンタヤーナの警句」の下りはお蔵入りとなった。
脱稿したときは精も魂も尽き果てた--。
こういうシチェーションで使われる常套句である。だが現実はそう甘くない。鉾田ななみをはじめとしてほかの編集部員がいろんな仕事を掛け持ちでやっているのに、隆三独りがこの原稿に掛かりっきりなど許される訳もない。
懸案の原稿が書き終わったので、それまで放ったらかしにしていた仕事を急いで片づけた。
大げさな表現はともかくとして、老体に鞭打って徹夜仕事したあとはやはり疲れた。早めに帰宅したら妻に「何で?」といぶかしがられた。自分で風呂を洗って夕食の前に入浴を済ませた。
風呂から上がって身体を横たえたが、ひと眠りしたいときほど眠れないのがもどかしい。そのうち「ご飯できたよ」と声がかかって食卓についた。
「迫りくるインフレと止まらない円安……。わたしたちの暮らしをどのように変えていくのでしょうか」--。
テレビからナレーターの声がして、心拍数を引き上げる効果音が続いた。毎度おなじみの解説者がひな壇の芸能人と掛け合いをする番組がはじまったのだ。
「なに? これ……。つまんない」
リモコンを手にした妻がつぶやくと、親指ひとつで番組を瞬殺した。インフレ、円安、わたしたちの暮らし……。ついさっきまで自分もその世界の当事者だった。原稿を上げたところで“オフ”になった。そして今は“部外者”として遠くから眺めている。世間の関心なんて、所詮こんなものなのかな……。
翌日出社すると、気のせいかみんながよそよそしかった。とくに副編集長の種村が、極力隆三と目を合わせないようにしているのが伝わってきた。歳を取ると僻みっぽくなるというが、それは単なる被害妄想なのかも知れなかった。そう自分に言い聞かせて平然を装った。
「オイっ、隆三」
昼近くになってポンと肩をたたかれた。定年まじかの彼を呼び捨てにする人物は一人しかいない。編集長の木戸康夫だ。
「どうだ? メシ、行かねえか?」
どういう風の吹き回しだろう? もう何年も一緒にメシなど食ったこともないのに……。
「はぁ、行きますか」
いかにも不自然な誘いに乗って、いそいそ尻尾を振りながら付いていった。
「へいっ、いらっしゃい!」
「オヤジって、いつもの2つ--」
威勢のいい声が飛んだ--。
なぁ~んて世界がある訳ない。木戸が入ったのは小洒落た中華の店だった。
「ビールでも飲むか」
「ああ、いいっすね」
昭和世代のオヤジが二人、昼間っからアルコールに手を染めた。
「特集、ごくろうだったな」
ニラレバ炒めを法張りながら、木戸が隆三をねぎらった。何かある--。駆け出しの小僧でもあるまいし、原稿一本書いたくらいで一々ご褒美にあずかっていたのでは、会社がもたないのは分かり切っている。
「何か、ありました?」
「……」
木戸はちょっと気まずい顔をして、残りの皿をたいらげた。ほどなくして隆三も広東麵の椀を空にした。ラーメンのスープを飲み干すか否か、この年になると議論が分かれる。基本的に彼は全部飲み干す派に属した。
先に食べ終わった木戸が今度はコーヒーに誘ってきた。何か言いにくい話があるときは、だいたいこの手順を踏むと相場が決まっている。歳のせいかパンデミックのせいなのか、隆三はこのまだるっこい空気に堪えられなくなっていた。
「何かあったんでしょ? みんな朝から変ですよ……。いっそのことはっきり言ってください」
「あのな、種村がお前の原稿に頭抱えてるんだよ」
木戸は意外とあっさり言った。
「なんだ、そんな話ならその場で言ってくれればいいのに……」
「種村は優しいんだよ。分かってやれ、気い遣ってるんだよ」
木戸は怒っているのか困っているのか分からない口調で後輩をたしなめた。
「それで、どこが変だったんですか?」
「まあ、俺も読ませてもらったのだが……」
木戸は「だが」のところにアクセントを入れ、ちょっと勿体ぶってみせた。
「書き出しはまあまあ良かったよ。原油価格の話も面白かった。その後の為替の話の途中でさ……。何とかネグレクトとか言い出したところから、おかしくなった。その後なんかまるで何言ってんだか分かんねえ……。みんな、お前がイッちゃったんじゃないかって、気が触れたんじゃないかって、気味悪がってるんだよ」
「……」
「お前……、大丈夫か?」
木戸の言葉の最後のところが隣のテーブルへ聞こえたらしく、メガネの男が盗み見してきた。
「そうっすかねぇ……」
「そうっすかねって、お前……」
木戸はあきれ顔で身を反らした。ランチタイムに重なった店の中は気ぜわしかった。喧噪というほどでもない雑音が却って隆三の気持ちを紛らしてくれた。
「まあ、編集長がそうおっしゃるのなら、自分は構いませんが、どうします?穴、開いちゃいますよね……」
若い頃の隆三ならば机を叩いて反論しただろう……。自説を通しただろう。それがすっかり牙の抜けた物わかりの良さを見せたものだから、木戸も拍子抜けしたようで、「まあそこは飾り写真を入れれば何とかなる。だいたいお前、文字が多すぎるんだよ。いまどき誰が読むと思ってるんだ」
編集長自らが自己を否定するようなもの言いで、結局「サンタヤーナの警句」の下りはお蔵入りとなった。
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