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サンタヤーナの警句(第四十話)
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四十
先客はすでに去った後だった。春日は以前と変わらぬ好々爺の笑みで隆三を迎えた。
「記事、拝読しました。大変よくまとまっていて、感心しましたよ」
「すべて春日さんのお陰です。ありがとうございました」
他人から褒められることに慣れていない隆三だけに、春日の賛辞は耳にくすぐったく響いた。その反応が不自然なほどの照れ笑いとなった。
「しかし金本位制への復帰を主張したリュエフの言葉を引用したのは興味深い。どの様な思い入れがあるのですか?」
「そうですね。ちょっと古風で文学的かも知れませんが、やはり国際(経常)収支の“不均衡”を放置したままそれでいいって理屈がどうもね……」
「しかしグローバル化の進んだ経済にあっても、それぞれの国によって経済事情や景気のサイクルは異なるからモノやカネの入り繰りに差が出るのは致し方ない。そうした側面までひっくるめてひと口にグローバル・インバランスと言って非難するのはいかがなものでしょうかね」
元々グローバル・インバランスを問題視したのは春日の方である。そして恒常的赤字国のアメリカが黒字国を敵対視するのが問題だと--。だが隆三もその後、自分なりに勉強もしたから春日の翻意をとくに驚きもしなかったし、それに対する自分自身の意見を述べることもできた。
「おっしゃる通り、昔のような経常取引の何倍もの資本取引が複雑に絡む今の世の中で、ある種の構造的な不均衡が残るのは致し方ないでしょう。しかしここ数年のアメリカの経常赤字の拡大は、明らかに中央銀行による量的緩和の資金が金融や不動産価格を押し上げバブルを形成した果てに起こった、“過剰消費”の表れです。いわゆる『リーマン・ショック』につながった住宅バブルと同じだと思いますよ」
隆三がそう反論すると、春日はまるで昇段試験か何かに合格した愛弟子に対するように、満足そうに頷いた。
「うん、それでいい。ひと言でグローバル・インバランスと言っても正当化できるものとできないものがある。羽柴さんのご指摘の通り、足下の不均衡は明らかに“悪い”方の不均衡です。同じ経済現象でもどのような環境の下に置かれるかによって、意味合いがまったく異なってきます」
「私見ですが、健全な経済成長と信用の膨張は区別すべきだと思いますし、とくに中央銀行が引き起こしたバブルは、いずれ通貨制度を巻き込んだ大惨事として降りかかってくると信じています。リュエフの言葉を借りるなら、まさに『起こるべきことは必ず起こる』ですね」--。
2人の会話はあたかも雑誌の対談のような雰囲気を醸した。それこそ“意気投合”した者どうしが共鳴し合って話は盛り上がった。そして勢い“ドル高”はどこまで続くか--という話になった。
「ある程度のドル高が輸入コストを引き下げるからアメリカにとって望ましいと言ったのは過去のことで、ドル高で海外から流入してくる資金はインフレ要因になるし、何よりマネーの“質”が問題です。金利に釣られたホットマネーなど、決して招きたくはないはずです」
隆三はあくまでドル高を、潜在的な混乱要因と見做している。
「先だってサマーズ元財務長官が、『日本で起こることは現在自身が注視している金融関連の重大な展開のひとつだ』と述べて、日銀が緩和策の軌道を変えた時点で困難が発生する可能性がある旨を示しましたね。羽柴さんはこれをどう解釈しますか?」
「日本の超低金利を背景に、円で資金を調達し金利の高い通貨で運用する“円キャリートレード”が加速していると聞きます。参考指標と言われる外国銀行在日支店の本支店勘定の資産額も、今年の5月からの4カ月連続で1千億円を超え、円安をけん引しているとの見方があります。毎日何十兆円ものやり取りがある為替市場で1千億円なんて大河の一滴ですが、市場参加者が川の流れを意識し始めた段階である程度の塊が動き出すと、みんながそれへ追随して雪だるま式にとてつもなく膨れ上がる。それを称して“ブーム”と言うのですよね。世界的な“ドル高”から敢て“円安”を切り出すとするならば、その辺に問題があるのではないでしょうか」
「報道によれば、『ミセス・ワタナベ』と呼ばれる個人のFXトレーダーの存在も無視できない。いずれにしてもどこかのタイミングで大規模な“巻き返し”が起こる懸念材料と言えるでしょう」
話が進むにつれて、隆三の声には以前なら決して聞かれなかった“張り”が出てきた。そして話す姿や立ち居振る舞いに自信がみなぎって来た。彼はいま、自分が“見られる”立場に立つことを意識して、心の準備を整えようとしているようだった。
「こうして春日さんとお話していると、頭の中のもやもやが徐々に解消して整理されていくような気がします。これからも何かとご指導たまわりますよう、お願いいたします」
「お役に立てるのなら、いつでもお越しください」
見るからに紳士然とした春日哲也は自ら隆三を見送りに立ち、「近いうちにどうですか?」--と杯をクイとやる仕草をして見せた。
「お嫌いじゃないでしょう?」
「ええ、まあ」
「あなたに紹介したい人物がいます」
それだけ言うと、「この誘いは断れないぞ」--という圧力を目に込めた。
翌朝、ネットのニュース欄を眺めていた隆三は、井坂忠雄の死を告げる知らせを見て仰天した。検視の結果、死因は薬物を過剰摂取したことによる心臓発作だったという。警察へ匿名の通報があって、捜査員が踏み込んだ時には部屋の中で倒れていたという。現場からは覚せい剤と複数の注射針が見つかったとも報じられた。
「羽柴さん……、オレ……、怖いよ……」
友が最後に残した言葉が耳に残った。
先客はすでに去った後だった。春日は以前と変わらぬ好々爺の笑みで隆三を迎えた。
「記事、拝読しました。大変よくまとまっていて、感心しましたよ」
「すべて春日さんのお陰です。ありがとうございました」
他人から褒められることに慣れていない隆三だけに、春日の賛辞は耳にくすぐったく響いた。その反応が不自然なほどの照れ笑いとなった。
「しかし金本位制への復帰を主張したリュエフの言葉を引用したのは興味深い。どの様な思い入れがあるのですか?」
「そうですね。ちょっと古風で文学的かも知れませんが、やはり国際(経常)収支の“不均衡”を放置したままそれでいいって理屈がどうもね……」
「しかしグローバル化の進んだ経済にあっても、それぞれの国によって経済事情や景気のサイクルは異なるからモノやカネの入り繰りに差が出るのは致し方ない。そうした側面までひっくるめてひと口にグローバル・インバランスと言って非難するのはいかがなものでしょうかね」
元々グローバル・インバランスを問題視したのは春日の方である。そして恒常的赤字国のアメリカが黒字国を敵対視するのが問題だと--。だが隆三もその後、自分なりに勉強もしたから春日の翻意をとくに驚きもしなかったし、それに対する自分自身の意見を述べることもできた。
「おっしゃる通り、昔のような経常取引の何倍もの資本取引が複雑に絡む今の世の中で、ある種の構造的な不均衡が残るのは致し方ないでしょう。しかしここ数年のアメリカの経常赤字の拡大は、明らかに中央銀行による量的緩和の資金が金融や不動産価格を押し上げバブルを形成した果てに起こった、“過剰消費”の表れです。いわゆる『リーマン・ショック』につながった住宅バブルと同じだと思いますよ」
隆三がそう反論すると、春日はまるで昇段試験か何かに合格した愛弟子に対するように、満足そうに頷いた。
「うん、それでいい。ひと言でグローバル・インバランスと言っても正当化できるものとできないものがある。羽柴さんのご指摘の通り、足下の不均衡は明らかに“悪い”方の不均衡です。同じ経済現象でもどのような環境の下に置かれるかによって、意味合いがまったく異なってきます」
「私見ですが、健全な経済成長と信用の膨張は区別すべきだと思いますし、とくに中央銀行が引き起こしたバブルは、いずれ通貨制度を巻き込んだ大惨事として降りかかってくると信じています。リュエフの言葉を借りるなら、まさに『起こるべきことは必ず起こる』ですね」--。
2人の会話はあたかも雑誌の対談のような雰囲気を醸した。それこそ“意気投合”した者どうしが共鳴し合って話は盛り上がった。そして勢い“ドル高”はどこまで続くか--という話になった。
「ある程度のドル高が輸入コストを引き下げるからアメリカにとって望ましいと言ったのは過去のことで、ドル高で海外から流入してくる資金はインフレ要因になるし、何よりマネーの“質”が問題です。金利に釣られたホットマネーなど、決して招きたくはないはずです」
隆三はあくまでドル高を、潜在的な混乱要因と見做している。
「先だってサマーズ元財務長官が、『日本で起こることは現在自身が注視している金融関連の重大な展開のひとつだ』と述べて、日銀が緩和策の軌道を変えた時点で困難が発生する可能性がある旨を示しましたね。羽柴さんはこれをどう解釈しますか?」
「日本の超低金利を背景に、円で資金を調達し金利の高い通貨で運用する“円キャリートレード”が加速していると聞きます。参考指標と言われる外国銀行在日支店の本支店勘定の資産額も、今年の5月からの4カ月連続で1千億円を超え、円安をけん引しているとの見方があります。毎日何十兆円ものやり取りがある為替市場で1千億円なんて大河の一滴ですが、市場参加者が川の流れを意識し始めた段階である程度の塊が動き出すと、みんながそれへ追随して雪だるま式にとてつもなく膨れ上がる。それを称して“ブーム”と言うのですよね。世界的な“ドル高”から敢て“円安”を切り出すとするならば、その辺に問題があるのではないでしょうか」
「報道によれば、『ミセス・ワタナベ』と呼ばれる個人のFXトレーダーの存在も無視できない。いずれにしてもどこかのタイミングで大規模な“巻き返し”が起こる懸念材料と言えるでしょう」
話が進むにつれて、隆三の声には以前なら決して聞かれなかった“張り”が出てきた。そして話す姿や立ち居振る舞いに自信がみなぎって来た。彼はいま、自分が“見られる”立場に立つことを意識して、心の準備を整えようとしているようだった。
「こうして春日さんとお話していると、頭の中のもやもやが徐々に解消して整理されていくような気がします。これからも何かとご指導たまわりますよう、お願いいたします」
「お役に立てるのなら、いつでもお越しください」
見るからに紳士然とした春日哲也は自ら隆三を見送りに立ち、「近いうちにどうですか?」--と杯をクイとやる仕草をして見せた。
「お嫌いじゃないでしょう?」
「ええ、まあ」
「あなたに紹介したい人物がいます」
それだけ言うと、「この誘いは断れないぞ」--という圧力を目に込めた。
翌朝、ネットのニュース欄を眺めていた隆三は、井坂忠雄の死を告げる知らせを見て仰天した。検視の結果、死因は薬物を過剰摂取したことによる心臓発作だったという。警察へ匿名の通報があって、捜査員が踏み込んだ時には部屋の中で倒れていたという。現場からは覚せい剤と複数の注射針が見つかったとも報じられた。
「羽柴さん……、オレ……、怖いよ……」
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