サンタヤーナの警句

宗像紫雲

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サンタヤーナの警句(第三十九話)

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                三十九

 ボツ原稿書き直しの慌ただしさに紛れて隆三への嫌疑は沙汰止みとなった。

 リライト作業に際して彼は、ジャック・リュエフの論文からお気に入りのフレーズを2つ引用した。

「対外経済の均衡は行政的な手段によってはもたらされないが、金本位制の下におけるように、購買力の国際間の移動により総需要の調整が図られるような制度にある場合に限り、対外決済の均衡は可能である」

「返済不能の借金は返済を要求されない、という前例があったためしはないであろう。(中略)いつの日か、世界のどこかで、政治不安ないし社会不安、武力紛争、経済不況、銀行破産、ユーロダラー市場の混乱というような、予期せざる事件が起きてきて、ドル残高保有者が争って手持ち資産を他の通貨へ交換しようとする動きが起こることも十分にありうることである」

 書き直しと言っても骨子は元のままなので、以前より難解な文章になった気がする。なのに今度は誰も注文を付ける者はいなかった。こうして「何を言っているのかさっぱり分からない」はずの隆三の記事は、週刊雑誌に掲載された。

 すると件の経済評論家が「隆三の記事の方が正論だ」と言い出した。世間の風は気まぐれだ。井坂の記事と隆三の記事のどこがどう違って、隆三のどこがより優れているかという検証もないまま“インフルエンサー”の一言に付き従って、我も我もと隆三の文章を敷衍ふえんした。
 今度は隆三の許へ取材や原稿執筆、番組への出演依頼が押し寄せた。当の本人はと言えば……。日頃も持ち馴れないものを突然かつがされたような気がして、尻込みしたまま春日の許へ逃げ込んだ。

 西新橋のおんぼろビルは、今日も生きさらばえたといった体でぽつねんと建っていた。そして今日もアポイントを取って行ったはずなのに先客が居座っていた。ただ前回と違って受付嬢は、慌てて隆三を戸口で押しとどめ、申し訳なさそうに「30分後に出直してほしい」と懇望してきた。ほんの僅かの間だけ、間仕切りの向こう側の様子が漏れてきた。どうも込み入った話をしているようで、男の声で「先生、どうか見捨てないでください」と哀願しているように聞こえた。
 そんな客を招き入れる春日の素性がいよいよ気になったが、立ち入る訳にもいかないから言われた通り時間を潰すことにした。

 とぼとぼと駅前まで戻ってみると、パンデミックの痕跡は徐々に街の中から姿を消しつつあった。ハンバーガー屋の店先でコーヒーを買って、上の階へと上って行った。スマホと格闘するサラリーマンの姿に交じって、真面目な商談をしているグループもポツポツあった。何の商談だか知らないが、100円そこそこのコーヒーでもてなすような相手なのだろうかと老婆心ながら気遣った。
 いったんは戦線離脱した隆三だが、ボツ原稿の復活とともに戦線へ復帰した。今日も鞄の中からハードカバーの本を取り出した。背表紙には「国際通貨制度」の文字が刻印されていた。表題が示す通り随分とお堅い内容なだけに、集中力が途切れると頭に入ってこない。何度も何度も同じところを繰り返し行きつ戻りつしたが、全然身にならなかった。
 約束の時間まであと5分になった。そろそろ店を出ようと腰を浮かせたところで携帯電話のサイレントモードが震えた。
「もしもし」
「羽柴さん……?」
 それは消え入りそうな井坂の声だった。
「あっ、井坂さん? 大出世じゃないか。ご活躍だね、どう? 元気?」
「……」
 邪気のない隆三の話しかけに言葉を詰まらせたように、井坂は黙りこくった。
「もしもし--。どう? 聞こえてる? 電波、悪いかな……」
「羽柴さん……、オレ……、怖いよ……」
 電波は悪くなかった。携帯の向こうから井坂の震えた声がかすかに聞こえた。
「井坂さん? 大丈夫? いま、どこにいるの?」
 心配する旧友の問いかけに答えず、井坂は電話を切った。
「何だったんだろう……」 
 後ろ髪を引かれる思いはあったものの、約束の時間が来たので例の朽ち果てたビルへと向かった。
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