サンタヤーナの警句

宗像紫雲

文字の大きさ
38 / 46

サンタヤーナの警句(第三十八話)

しおりを挟む
                三十八

 それから数日--。
 普段通りの繰り返しが続いた。9月の消費者物価指数は総合で前月と同じく対前年比3・0%、コアコアCPIは0・2ポイント上昇の1・8%。円安はさらに進んで1ドル150円を超えた。テレビの画面でアナウンサーが悲壮な声を張り上げていたが、すでに戦線を離脱した隆三の耳には、もはや遠くで聞こえる海鳴りほどにしか響かなかった。

 そして迎えた、ある朝のことだった--。
 バシーン!
 大きな音がして隆三は後ろから誰かに何かで頭を殴りつけられた。慌てて振り向くと、そこには鬼の形相をした木戸編集長が立っていた。
「テメェっ、はかりやがったなぁっ!!」
 吐き出すような怒鳴り声に、フロア中の目が集まった。
「なっ、何ですかっ? いきなりっ……」
 何のことやら身に覚えがないからそう言うのが精いっぱいだった。ただ防衛本能だけは作動して、追撃を逃れようと身体をのけ反らせた。
「とぼけてんじゃねぇよっ! これ見てみろっ!」
 木戸は一方的にそういうと、隆三を殴った新聞を机に叩きつけた。折りたたまれた新聞を開いてみると、紙面の左肩に「ドル高と成果の行方」という白抜き4段見出しの解説記事が載っていた。隆三は通常の囲みよりも大ぶりなその記事のつくりに先ず興味をひかれたが、それより驚きだったのは記事の末尾に記された記者の署名であった。
「井坂忠雄」--。

「井坂って……お前……、アイツか……?」
 木戸は少し声のトーンを下げて詰問調で詰め寄った。井坂が会社ここに勤めていたのを知っているのは、今では隆三と木戸を始めとした役員連中しかいない。記事にはお蔵入りした隆三の記事に使った「グローバル・インバランス」の棒グラフが埋め込まれていた。しかもサブ見出しには、「迫られる国際通貨制度改革」と書かれていた。実際目を通すと、本文の内容も隆三がいた話とそっくりだった。成る程--、自分の記事をボツにされた隆三が腹いせに同期の井坂へネタを垂れ込んだと木戸が踏んでも無理はない。
「お前、まだそんな奴とつるんでんのか……。何だこれはっ? オレへの当てつけかっ!? えっ、どうなんだよ!」
 木戸の声は次第に凄みを増した。明らかに「ただじゃぁおかねぇぞ」と言っているのが分かった。
「いやっ、木戸さん--。誤解です、誤解……」
 隆三は必死に濡れ衣を晴らそうとしたが、怒りに狂った人間には何を言っても無駄だ。木戸は問答無用に「査問会議もんだぞっ」と言い捨て、その場を去った。

 その日のうちに、本当に査問会議が開かれた。
「先ず事情を説明してもらおうか」--。
 議長役の社長が議事を開いた。日頃から厄介者と見做していた隆三が“やらかした”とあって、革張りの椅子の中から敵意に満ちた視線が浴びせかけられた。
「あの……、取材のプロセスを説明させてください」
 隆三は蚊の鳴く声でおずおずと、自分に掛けられた嫌疑を晴らす経緯を申し立てた。
「今回の取材に着手するにあたって、元同僚の井坂忠雄に相談したのは事実です」--。
「ほれ見ろっ! よそのメディアにネタをバラすとは何事かっ! 恥を知れっ!」
 急先鋒の木戸が声を荒げ、議長がそれを制して先を促した。

「ただそれは、特集の構成をどう描こうか悩んでいたからで、下調べをしていくうちにどうしても為替の問題にぶち当たったんです。それで彼が金融紙の記者をやっているのは知っていたから、意見を求めたまでです」
 往生際の悪いやつだ--。木戸の目はそう訴えていたが、ほかの役員達はただ風を読もうと努めているのが分かった。
「井坂君からは、為替をはじめ色々なアドバイスをもらいました。その後、為替の動向や見通しを取材していくのですが、最後に取材した銀行系シンクタンクのアナリストからある人物を紹介されたんです」
「ある人物では分からないではないか」
 そこまで黙って聞いていた常務が突っ込んだ。
「それが……、春日哲也というコンサルタント会社の代表なのですが、どういう素性の人物かを聞きそびれたままでして……」
「君は何だ、そんな素性の怪しい人間の話を基に記事を書いたというのかね」--?
 むしろそっちの方が問題だという空気が方々から立ち上った。

「情報源の素性を裏取りしなかった点でお叱りいただくのは仕方ありません。ただですね……、私の記事はその春日という人物の話や彼から借りた書籍から学んだことを基に書いたという事実はご理解ください。そして私はそこへ2度足を運んだのですが、その2回ともばったりそこで井坂君と鉢合わせしたんです……」
 この発言で会議室の風向きが少し変わった。
「つまりですね、問題となった今回の記事はいずれも同じネタ元から出た情報だったということなんです。ですから出来上がりが似たものになるのも無理はありません」
「……」
 しばし沈黙が漂った。役員たちは風を求めてさまよった。
「あとで沙汰を下すから、今日はもう帰っていい」
 議長が散会の宣言をした。
 それで無罪放免となった訳ではない。木戸は相変わらず彼を白眼視し続け、周囲との間にも見えない壁ができたようだった。まったく針のむしろというやつだろう。それでも何とか首だけはつながったという淡い期待だけが彼を支えた。

 ところが世の中とは実に不思議なもので、ブームはつむじ風とともにやってきた。
 高名な経済評論家がSNS上で井坂の記事をべた褒めしたのがきっかけとなり、ユーチューブの討論番組に呼ばれたり、雑誌の取材を受けたり大手新聞のコラムに登場したり、はたまた地上波キー局の深夜討論に出演したりと、井坂忠雄はみるみるうちに「時の人」へと押し立てられていった。
 そうなると慌てたのが役員陣だった。お蔵入りしたあの記事を引っ張り出せの、二番煎じとならないよう書き直せだの、月刊誌では間に合わないから週刊の媒体へ掲載するだのと、あれよあれよという間に話が決まって行った。
 あれだけ隆三へ罵詈雑言を浴びせかけた木戸にいたっては、そんなこと何もなかったかのように当然のごとく指示を下した。

「次週号に間に合うよう原稿をまとめろ!」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

まなの秘密日記

到冠
大衆娯楽
胸の大きな〇学生の一日を描いた物語です。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

処理中です...