サンタヤーナの警句

宗像紫雲

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サンタヤーナの警句(第四十一話)

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                四十一

「アメリカの実質金利が頭打ちとなってきたので、足下の“円安”圧力はいったん弱まると見ていいのではないでしょうか。それより“ドル高”の行方に着目すべきだと思いますよ。史上空前規模まで膨らんだアメリカの経常収支の赤字と合わせ、どこまで“持続可能”かが問題で、誰がトランプのババを引くかを巡って世界中ピリピリしていますからね」




 地上波の討論番組に呼ばれた隆三は、ドル円レートとアメリカの実質金利を重ね合わせたグラフや国際決済銀行(BIS)が公表する「実質実効ドル指数」の動きを示したパネルを手に「ドルの危機」を警戒する論陣を張った。それは数日前まで井坂が占めていたポジションをそのまま引き継いだ立場だった。
 日本のバブル絶頂期に放送開始したこの長寿番組は、司会者が同じ問題を何度も蒸し返す堂々巡りに時間を費やし、出演者の発言がいよいよ佳境かきょうを迎えるところで話をさえったりして結局結論を見ないまま終わるというのが恒例になっている。視聴者側もそれを百も承知で議論を通じて何かを学び取りたいというよりも、ただ“討論”という名の“バトル”を楽しむことに心血を注いでいる。
 
「そうは言ってもアメリカ経済は依然、強いからねぇ。それは先ほどあなた自身が示したドルの『実質実効ドル指数』に如実に表れているではないですか。そのグラフはいわゆる通貨の“実力”を示すものです。片や日本円の方はと言えば、この通り」--。



 そう言って「円の弱さ」を主張する論者は、「どうだ、ぐうの音も出まい」と言わんばかりに日銀が公表する円の「実質実効為替レート指数」を差し示した。スタジオの中には隆三が下手を打った空気が流れ、“ドル危機派”に気まずいムード広がった。
 これに対して隆三は、淡々とした口調で反駁を試みた。
「実質実効指数が通貨の“実力”を示すとされるのは、名目為替レートに貿易数量やインフレを加味して調整するからです。とくに日本円の場合は長年にわたるデフレが指数を押し下げてきたのが一番の要因で、それをもって日本の実力が落ちたと語るのは当たらないと思うのですが」--。
「ドルについてはどうですか?」
 確かにこの反論では物足りない。ドルの指数は低金利で低インフレだった2015年頃から上がり続けているではないか。すかざす司会者が隆三の“痛いところ”を衝いてきた。

「おっしゃる通り、私はドルの強さに対する答えを持ち合わせていません。むしろ金利差以外の何がここまでドルを引き上げたのか、それを教わりたいくらいなんです。ですからこの歴史的な水準の“ドル高”が、果たして持続可能なのかどうかが心配なんです」
「だからそれこそがアメリカ経済の強さだと言っているではないか」
 “円安派”とはすなわち“強いアメリカ派”である。いわば「ビナイン・ネグレクト」の代弁者と言ってもいいだろう。金融市場に広がっている不安は、新興国の外貨準備不足であったり、イギリスの新政権が打ち出した減税策によって需給が乱れた英国債市場であったり、日銀の緩和政策の行方であったりと、すべて米国の外で起こった事象がひきおこしたものだと見るのが彼らの特性だ。アメリカで消費者物価指数(CPI)の対前年比が上昇し続け、これを鎮めるためにFRBが強硬な利上げを繰り返しているのは「健全なファンダメンタルズ」で、そこから発した余波はすべて“受ける側”が責任を持って対処するべきものだとするのが彼らの主張なのである。

「名目金利を遥かに上回るインフレが続いています。昨年の今ごろ……、もっと前でもいいのですが、ドルを買って保有している方は手持ちのドルの価値、つまり“購買力”という意味ですが、それがマイナスになっていることに気づくはずですよ」
 隆三のカウンターパンチは有効だった。スタジオに波紋が広がった。
「『期待インフレ率』があまりに低い水準で推移し続けてきたがために、市場全体が錯誤を起こしているように思われます。先ほどお示ししたグラフに出てくるアメリカの実質金利は本来、マイナスなはずなんです。もし来年3月以降もこうした状態が続くとすれば、もっと多くの人たちが実感としてドルの減価を意識しはじめると思いますが、いかがでしょうか?」
「そんなの滅茶苦茶な話だ。経済学を知らないから適当なことを言っているんだ!」
 盲点を突かれただけに相手方は却って感情をむき出しに隆三を罵った。

「つまりドルは不安定だから基軸通貨を人民元か何かに切り替えさせるべきだなんて言うんじゃなかろうね?」
 円安論者は機先を制するように議論の矛先を先取りした。
「良いご指摘です。しかし残念ながらわたしは、ドルだろうとポンドや人民元だろうと、特定国の『国民通貨』を“基軸通貨”とする限り、結局は同じ矛盾を繰り返すだけだと思っています。過剰な消費によって累積した対外赤字を、“基軸通貨”だからという理由で是正もせずに放ったらかしにできること自体に欠陥があると申しているのです」
「理屈の上ではそうかも知らんが、国際間の取引に使われるのはやはりドルだし、それはこれからも変わらないと思うがね……」
「腹水は盆に返りませんが、ニクソンショックを経て為替が固定相場制から変動相場制へと移行していった際、経常収支の不均衡は変動相場制の市場メカニズムによって自動調整されると喧伝けんでんされたはずです。ところが実際はどうでしょう? 調整どころか不均衡は益々拡大し続けています。ドルという国民通貨を国際間の取り引きに使うシステム自体に欠陥があって、さらに変動相場制という不安定な通貨の交換制度が重なったのがいまの通貨体制な訳ですから、これを是正もせず放っておけば通貨のゆがみはますます酷くなり、いずれ崩壊の淵へと我々を押しやらんとも限りません」
「まさか……、ドル体制をひっくり返そうというのじゃなかろうね……」
 相手は信じられないという顔で大きくかぶりを振った。

 翌日の晩、隆三は春日に連れられ数寄屋囲いのある日本家屋の暖簾をくぐった。
「これがドラマや小説に出てくる料亭というやつか……」
 馴れない空気に押し流されるまま、板張りの床を曲がって中庭に面した部屋へ通されると、今夜のホストが待っていた。そしてどういう訳かそのホストは、ホストなのに上座を占め、客を待たずに秘書らしい黒服の男にしゃくをさせつつ先にやっていた。
「先生、お待たせしました」
 春日は今まで見せたことのないほどの慇懃いんぎんさでホストへ挨拶し、目下を手招きする仕草で隆三を紹介した。言われるままに座敷へ上がった隆三は、まるで“上様”へ拝謁はいえつする侍のようにかしこまった挨拶をした。やっと頭を上げて見たその顔にはどこか見覚えがあった。

「権田省吾先生だ」
 顔を見て分からないか--という難詰口調で春日が耳元へささやいた。それは霞が関の官僚出身で、いずれ財務大臣の椅子が約束されているとの噂もある与党の有力者だった。
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