41 / 46
サンタヤーナの警句(第四十一話)
しおりを挟む
四十一
「アメリカの実質金利が頭打ちとなってきたので、足下の“円安”圧力はいったん弱まると見ていいのではないでしょうか。それより“ドル高”の行方に着目すべきだと思いますよ。史上空前規模まで膨らんだアメリカの経常収支の赤字と合わせ、どこまで“持続可能”かが問題で、誰がトランプのババを引くかを巡って世界中ピリピリしていますからね」
地上波の討論番組に呼ばれた隆三は、ドル円レートとアメリカの実質金利を重ね合わせたグラフや国際決済銀行(BIS)が公表する「実質実効ドル指数」の動きを示したパネルを手に「ドルの危機」を警戒する論陣を張った。それは数日前まで井坂が占めていたポジションをそのまま引き継いだ立場だった。
日本のバブル絶頂期に放送開始したこの長寿番組は、司会者が同じ問題を何度も蒸し返す堂々巡りに時間を費やし、出演者の発言がいよいよ佳境を迎えるところで話を遮ったりして結局結論を見ないまま終わるというのが恒例になっている。視聴者側もそれを百も承知で議論を通じて何かを学び取りたいというよりも、ただ“討論”という名の“バトル”を楽しむことに心血を注いでいる。
「そうは言ってもアメリカ経済は依然、強いからねぇ。それは先ほどあなた自身が示したドルの『実質実効ドル指数』に如実に表れているではないですか。そのグラフはいわゆる通貨の“実力”を示すものです。片や日本円の方はと言えば、この通り」--。
そう言って「円の弱さ」を主張する論者は、「どうだ、ぐうの音も出まい」と言わんばかりに日銀が公表する円の「実質実効為替レート指数」を差し示した。スタジオの中には隆三が下手を打った空気が流れ、“ドル危機派”に気まずいムード広がった。
これに対して隆三は、淡々とした口調で反駁を試みた。
「実質実効指数が通貨の“実力”を示すとされるのは、名目為替レートに貿易数量やインフレを加味して調整するからです。とくに日本円の場合は長年にわたるデフレが指数を押し下げてきたのが一番の要因で、それをもって日本の実力が落ちたと語るのは当たらないと思うのですが」--。
「ドルについてはどうですか?」
確かにこの反論では物足りない。ドルの指数は低金利で低インフレだった2015年頃から上がり続けているではないか。すかざす司会者が隆三の“痛いところ”を衝いてきた。
「おっしゃる通り、私はドルの強さに対する答えを持ち合わせていません。むしろ金利差以外の何がここまでドルを引き上げたのか、それを教わりたいくらいなんです。ですからこの歴史的な水準の“ドル高”が、果たして持続可能なのかどうかが心配なんです」
「だからそれこそがアメリカ経済の強さだと言っているではないか」
“円安派”とはすなわち“強いアメリカ派”である。いわば「ビナイン・ネグレクト」の代弁者と言ってもいいだろう。金融市場に広がっている不安は、新興国の外貨準備不足であったり、イギリスの新政権が打ち出した減税策によって需給が乱れた英国債市場であったり、日銀の緩和政策の行方であったりと、すべて米国の外で起こった事象がひきおこしたものだと見るのが彼らの特性だ。アメリカで消費者物価指数(CPI)の対前年比が上昇し続け、これを鎮めるためにFRBが強硬な利上げを繰り返しているのは「健全なファンダメンタルズ」で、そこから発した余波はすべて“受ける側”が責任を持って対処するべきものだとするのが彼らの主張なのである。
「名目金利を遥かに上回るインフレが続いています。昨年の今ごろ……、もっと前でもいいのですが、ドルを買って保有している方は手持ちのドルの価値、つまり“購買力”という意味ですが、それがマイナスになっていることに気づくはずですよ」
隆三のカウンターパンチは有効だった。スタジオに波紋が広がった。
「『期待インフレ率』があまりに低い水準で推移し続けてきたがために、市場全体が錯誤を起こしているように思われます。先ほどお示ししたグラフに出てくるアメリカの実質金利は本来、マイナスなはずなんです。もし来年3月以降もこうした状態が続くとすれば、もっと多くの人たちが実感としてドルの減価を意識しはじめると思いますが、いかがでしょうか?」
「そんなの滅茶苦茶な話だ。経済学を知らないから適当なことを言っているんだ!」
盲点を突かれただけに相手方は却って感情をむき出しに隆三を罵った。
「つまりドルは不安定だから基軸通貨を人民元か何かに切り替えさせるべきだなんて言うんじゃなかろうね?」
円安論者は機先を制するように議論の矛先を先取りした。
「良いご指摘です。しかし残念ながらわたしは、ドルだろうとポンドや人民元だろうと、特定国の『国民通貨』を“基軸通貨”とする限り、結局は同じ矛盾を繰り返すだけだと思っています。過剰な消費によって累積した対外赤字を、“基軸通貨”だからという理由で是正もせずに放ったらかしにできること自体に欠陥があると申しているのです」
「理屈の上ではそうかも知らんが、国際間の取引に使われるのはやはりドルだし、それはこれからも変わらないと思うがね……」
「腹水は盆に返りませんが、ニクソンショックを経て為替が固定相場制から変動相場制へと移行していった際、経常収支の不均衡は変動相場制の市場メカニズムによって自動調整されると喧伝されたはずです。ところが実際はどうでしょう? 調整どころか不均衡は益々拡大し続けています。ドルという国民通貨を国際間の取り引きに使うシステム自体に欠陥があって、さらに変動相場制という不安定な通貨の交換制度が重なったのがいまの通貨体制な訳ですから、これを是正もせず放っておけば通貨の歪みはますます酷くなり、いずれ崩壊の淵へと我々を押しやらんとも限りません」
「まさか……、ドル体制をひっくり返そうというのじゃなかろうね……」
相手は信じられないという顔で大きく頭を振った。
翌日の晩、隆三は春日に連れられ数寄屋囲いのある日本家屋の暖簾をくぐった。
「これがドラマや小説に出てくる料亭というやつか……」
馴れない空気に押し流されるまま、板張りの床を曲がって中庭に面した部屋へ通されると、今夜のホストが待っていた。そしてどういう訳かそのホストは、ホストなのに上座を占め、客を待たずに秘書らしい黒服の男に酌をさせつつ先にやっていた。
「先生、お待たせしました」
春日は今まで見せたことのないほどの慇懃さでホストへ挨拶し、目下を手招きする仕草で隆三を紹介した。言われるままに座敷へ上がった隆三は、まるで“上様”へ拝謁する侍のようにかしこまった挨拶をした。やっと頭を上げて見たその顔にはどこか見覚えがあった。
「権田省吾先生だ」
顔を見て分からないか--という難詰口調で春日が耳元へ囁いた。それは霞が関の官僚出身で、いずれ財務大臣の椅子が約束されているとの噂もある与党の有力者だった。
「アメリカの実質金利が頭打ちとなってきたので、足下の“円安”圧力はいったん弱まると見ていいのではないでしょうか。それより“ドル高”の行方に着目すべきだと思いますよ。史上空前規模まで膨らんだアメリカの経常収支の赤字と合わせ、どこまで“持続可能”かが問題で、誰がトランプのババを引くかを巡って世界中ピリピリしていますからね」
地上波の討論番組に呼ばれた隆三は、ドル円レートとアメリカの実質金利を重ね合わせたグラフや国際決済銀行(BIS)が公表する「実質実効ドル指数」の動きを示したパネルを手に「ドルの危機」を警戒する論陣を張った。それは数日前まで井坂が占めていたポジションをそのまま引き継いだ立場だった。
日本のバブル絶頂期に放送開始したこの長寿番組は、司会者が同じ問題を何度も蒸し返す堂々巡りに時間を費やし、出演者の発言がいよいよ佳境を迎えるところで話を遮ったりして結局結論を見ないまま終わるというのが恒例になっている。視聴者側もそれを百も承知で議論を通じて何かを学び取りたいというよりも、ただ“討論”という名の“バトル”を楽しむことに心血を注いでいる。
「そうは言ってもアメリカ経済は依然、強いからねぇ。それは先ほどあなた自身が示したドルの『実質実効ドル指数』に如実に表れているではないですか。そのグラフはいわゆる通貨の“実力”を示すものです。片や日本円の方はと言えば、この通り」--。
そう言って「円の弱さ」を主張する論者は、「どうだ、ぐうの音も出まい」と言わんばかりに日銀が公表する円の「実質実効為替レート指数」を差し示した。スタジオの中には隆三が下手を打った空気が流れ、“ドル危機派”に気まずいムード広がった。
これに対して隆三は、淡々とした口調で反駁を試みた。
「実質実効指数が通貨の“実力”を示すとされるのは、名目為替レートに貿易数量やインフレを加味して調整するからです。とくに日本円の場合は長年にわたるデフレが指数を押し下げてきたのが一番の要因で、それをもって日本の実力が落ちたと語るのは当たらないと思うのですが」--。
「ドルについてはどうですか?」
確かにこの反論では物足りない。ドルの指数は低金利で低インフレだった2015年頃から上がり続けているではないか。すかざす司会者が隆三の“痛いところ”を衝いてきた。
「おっしゃる通り、私はドルの強さに対する答えを持ち合わせていません。むしろ金利差以外の何がここまでドルを引き上げたのか、それを教わりたいくらいなんです。ですからこの歴史的な水準の“ドル高”が、果たして持続可能なのかどうかが心配なんです」
「だからそれこそがアメリカ経済の強さだと言っているではないか」
“円安派”とはすなわち“強いアメリカ派”である。いわば「ビナイン・ネグレクト」の代弁者と言ってもいいだろう。金融市場に広がっている不安は、新興国の外貨準備不足であったり、イギリスの新政権が打ち出した減税策によって需給が乱れた英国債市場であったり、日銀の緩和政策の行方であったりと、すべて米国の外で起こった事象がひきおこしたものだと見るのが彼らの特性だ。アメリカで消費者物価指数(CPI)の対前年比が上昇し続け、これを鎮めるためにFRBが強硬な利上げを繰り返しているのは「健全なファンダメンタルズ」で、そこから発した余波はすべて“受ける側”が責任を持って対処するべきものだとするのが彼らの主張なのである。
「名目金利を遥かに上回るインフレが続いています。昨年の今ごろ……、もっと前でもいいのですが、ドルを買って保有している方は手持ちのドルの価値、つまり“購買力”という意味ですが、それがマイナスになっていることに気づくはずですよ」
隆三のカウンターパンチは有効だった。スタジオに波紋が広がった。
「『期待インフレ率』があまりに低い水準で推移し続けてきたがために、市場全体が錯誤を起こしているように思われます。先ほどお示ししたグラフに出てくるアメリカの実質金利は本来、マイナスなはずなんです。もし来年3月以降もこうした状態が続くとすれば、もっと多くの人たちが実感としてドルの減価を意識しはじめると思いますが、いかがでしょうか?」
「そんなの滅茶苦茶な話だ。経済学を知らないから適当なことを言っているんだ!」
盲点を突かれただけに相手方は却って感情をむき出しに隆三を罵った。
「つまりドルは不安定だから基軸通貨を人民元か何かに切り替えさせるべきだなんて言うんじゃなかろうね?」
円安論者は機先を制するように議論の矛先を先取りした。
「良いご指摘です。しかし残念ながらわたしは、ドルだろうとポンドや人民元だろうと、特定国の『国民通貨』を“基軸通貨”とする限り、結局は同じ矛盾を繰り返すだけだと思っています。過剰な消費によって累積した対外赤字を、“基軸通貨”だからという理由で是正もせずに放ったらかしにできること自体に欠陥があると申しているのです」
「理屈の上ではそうかも知らんが、国際間の取引に使われるのはやはりドルだし、それはこれからも変わらないと思うがね……」
「腹水は盆に返りませんが、ニクソンショックを経て為替が固定相場制から変動相場制へと移行していった際、経常収支の不均衡は変動相場制の市場メカニズムによって自動調整されると喧伝されたはずです。ところが実際はどうでしょう? 調整どころか不均衡は益々拡大し続けています。ドルという国民通貨を国際間の取り引きに使うシステム自体に欠陥があって、さらに変動相場制という不安定な通貨の交換制度が重なったのがいまの通貨体制な訳ですから、これを是正もせず放っておけば通貨の歪みはますます酷くなり、いずれ崩壊の淵へと我々を押しやらんとも限りません」
「まさか……、ドル体制をひっくり返そうというのじゃなかろうね……」
相手は信じられないという顔で大きく頭を振った。
翌日の晩、隆三は春日に連れられ数寄屋囲いのある日本家屋の暖簾をくぐった。
「これがドラマや小説に出てくる料亭というやつか……」
馴れない空気に押し流されるまま、板張りの床を曲がって中庭に面した部屋へ通されると、今夜のホストが待っていた。そしてどういう訳かそのホストは、ホストなのに上座を占め、客を待たずに秘書らしい黒服の男に酌をさせつつ先にやっていた。
「先生、お待たせしました」
春日は今まで見せたことのないほどの慇懃さでホストへ挨拶し、目下を手招きする仕草で隆三を紹介した。言われるままに座敷へ上がった隆三は、まるで“上様”へ拝謁する侍のようにかしこまった挨拶をした。やっと頭を上げて見たその顔にはどこか見覚えがあった。
「権田省吾先生だ」
顔を見て分からないか--という難詰口調で春日が耳元へ囁いた。それは霞が関の官僚出身で、いずれ財務大臣の椅子が約束されているとの噂もある与党の有力者だった。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる


