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最終話

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 一歩ずつ確かに。時間をかけて丁寧に踏み締める。躓いて転ばないように――理由としてはもちろんあるが、それだけじゃない。

「風、気持ちがいいね。少し冷たいけど」

 木の葉をあやす風が、左から右へと流れていく。

「うん! 私このくらい好きだなぁ~」
「僕も」
「良い音するし!」

 僕が持っている、全ての感覚を外の世界へと出向かせる。音、匂い、感触、温度――数多の変化を二人して味わう。
 素のままの季節を浴びていると、第一に言い得ぬ解放感にくるまれた。続いて、身体中に温かさが充填されていく。

 僕が――僕たちが失ったものは大きい。大きすぎる。きっといつまでだって、記憶や痛みが消えることはない。
 けれど、失った部分が僕の全てを構成していた訳じゃない。こんなにも多くのものが残っている。道を進む度、柔らかな刺激が教えてくれた。

「今日は温かいものでも食べようか」
「良いねー、何作る?」
「うどんとか?」
「私、半熟玉子乗せたーい!」

 たった数メートル、五分もあれば歩けてしまうような道を、ゆっくり、ゆっくりと進んで行く。いつも以上に上を向くために。晴れ晴れと俯くために。幸せな時間を手繰り寄せるように。
 この時間を知らずにいたら、僕はまだ喪失と戦えずにいただろう。

 明日の空は何色だろうか。どんな香りが包んでくれるだろうか。どんな地面を作っているだろう。
 運ばれてくる変化に期待しながらも、今この時の感覚を身に収めた。

「お、変わった!」
「ん? 何が?」

 樹木の色に近付いた空から、自然と視線を下げる。因みに、空の色は既に共有済みだ。

「足元! 見てる?」
「今見た。小さい実みたいなやつが転がってるね。感触、どんな感じなの?」

 尋ねると、やっぱり夏夜は大きく足を上下する。何度か味わった後、満足げに表現した。
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