君に咲く花

有箱

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「――――ここ、傷つけて良い?」

 承諾を待つ、男の瞳は空ろだった。どこまでも暗く濁った瞳に、光の色は見えない。

 部屋は明かり一つなく、視覚を助けるのは月明かりのみだ。

 男の向かい、首元に指を添えられたまま、青年はじっと男の瞳を見詰める。そして、浅く頷いた。      

 男の左手には、真新しい刃の光るカッターナイフが握られている。それがゆっくりと、喉元に近付く。

 青年は目を逸らすこと無く、刃の行き先を死角に入るまで見続けていた。

 僅かに揺れる、青年の色素のない髪が、淡い光に映えた。





 人々が活動を始める午前九時頃、青年が薄く目を開く。長く、髪同様色のない睫が揺れる。

 いつもの温もりに横を見ると、隣には黒髪の男が眠っていた。まだ、目覚める気配は無い。

 秋の朝は少し冷える。青年は、近くにあったシーツをそっと男にかけた。

 立ち上がり、感覚の残る首元に触れる。指先に鮮血が付いた。

 だが、気にすること無く、そのままシャワールームへと足を向けた。





 それから一時間後、ようやく男が目覚めた。目を開き、第一に見た血痕にしばらく見惚れる。

「お早うシン。よく眠れた?」

 音も気配も無く現れた青年の声に、男――シンはゆっくり振り向いた。

「……お早うカノン。お陰さまで……」
「良かった」

 カノンは起き上がったシンを見つめ、柔らかく微笑む。

「飯作るから、ちょっと待っててくれ」

 食事の用意はシンの役目だ。カノンは洗濯や皿洗いなどを担当している。

 同棲し始めて二年が経った。出会いは病院で、元々は各々一人暮らしをしていたが、切っ掛けがあり今に至る。

「待ってる」

 シンは、露なままの傷を横目に見つつ、通りすぎキッチンへと向かった。



◇ 

 シンの料理は素晴らしいの一言に尽きる。詳しくは知らないが、家事全般の教養があるそうだ。

「ごちそうさま、美味しかった」

 シンが途中であるのに対し、カノンの皿は空になっていた。

「どうも」

 決して、食べるのが早い訳ではない。小食なカノンに合わせ、元々の量を少なくしているから、自然とこうなるだけだ。

 カノンは日課を実行する為、ゆっくりと腰を上げる。だが、ふら付き、机に手を付いた。

「……大丈夫か?」
「大丈夫、いつものことだよ」

 カノンの白い肌は、病的なまでに色が無い。その為、重ねてきた幾多の傷がよく目立つ。

「……そうか」

 カノンの不調の原因は明白だ。しかしシンは、それに対しての謝罪を口にはしない。一度だけしたことはあるが、それっきりだ。

 シンは食事しながら、多種の薬を服用するカノンの横顔を見ていた。

「……シン、薬もう無くなるから買って来て」

 カノンの手元には薬箱がある。飲んでいる物は市販薬なのだ。

「分かった、今日は買出しに行ってくる。欲しいものはあるか」
「……えっと、思いつかない」
「分かった」

 買い物も、シンの役目である。

 二人に職は無い。それは、出会った頃から同じだ。ただ、それぞれに蓄えを持っており、金には大して困っていなかった。





 食事を終えると、シンは食材を確認し、買い物へと出かけていった。軽い足取りで玄関を潜るのを、カノンは逆の表情で見ていた。

 部屋には、あらゆる箇所に血跡が残っている。それはリビングも寝室も、物置部屋も全部屋にある。ソファの上の乾いた血痕なんかは、まるで模様のようだ。

 カノンはゆっくり腰掛けると、小さく溜め息を吐いた。
 今朝替えたばかりの白いシャツには、もう血が滲んでいる。昨日の切り傷から溢れたものだ。

 傷を拭うと、もう血は付いて来なかった。





 数時間後、シンが帰宅する音が耳に届いた。
 ソファで眠っていたカノンだったが、音を聞きつけ目を開く。

 バタバタと忙しい足音が近付き、リビングの扉が開け放たれた。シンは膨れたレジ袋を床へと置く。

 立ち止まる事無く、そのまま抱きついてきた。その力は強い。
 シンは震えていた。呼吸も速く浅い。

「……やっぱり駄目だった?」

 問い掛けから少し間を置き、シンは小さな声を落とす。

「……怖い」

 カノンは、震える肩を抱いた。届く範囲のみだが、優しく背を摩る。

「シン、良いよ。頑張ったね」

 シンは許しを得ると、カノンの首筋に噛み付く。カノンは声を我慢する代わりに、吐息を漏らした。

 小さな傷から血が流れる。シンは流れる血を、じっと見詰めていた。

 ―――震えが消える。
 腕が解かれ、導かれるまま二人でソファに腰掛けた。

「触って良い?」
「良いよ」

 触れられるがまま、静かに目を閉じる。

 生傷に痛みはあるが、表情を歪めるほどの痛みではなかった。シンの触れ方も柔らかく、刺激は浅かった。

「買い物、いつも任せてごめんね」
「……ううん」





 カノンは、とても体が弱い。長距離を歩く体力が無いほどで、必然的に家で過ごすのが基本となった。

 対照的にシンは、心がとても弱い。感情は薄いがトラウマには敏感で、すぐに自傷へと走りたがる。その為、体中が痣や鋭い傷で塗れている。

 シンは、指についた血を舐め取る。その味に、心が落ち着いてゆくのを感じながら。
 そのまま、首についた血も舐めた。

「落ち着いた?」
「…あぁ」

 血は特効薬だ。シンの精神不安を、和らげる薬。

 それは他人の物でも自分の物でも有効であるらしく、知り合う前シンは、血が流れ出すほどの、甚だしい自傷行為を繰り返していた。

 その時は¨自傷行為¨こそが、自慰行為であると考えていたのだが、そうではないと知ってからは、カノンが代わりに受け持つようになった。

 カノンは、自傷行為を見るのが好きではない。極端な話、嫌いの域にまで達する。

 見ていると痛々しく、心まで抉られる気持ちになるため、自分が傷つく方がましだと考えてしまうのだ。

 勿論、昔の経験が、意識に基づいている。





 二人はまだ、互いに互いの過去を知らない。けれど詮索する気も無ければ打ち明ける気も無く、この先も一生知る事は無いだろう。




「カノン、大丈夫?」
「うん?大丈夫だよ、平気平気」

 夜は、元々置いてあったシングルベッドに、二人して横になる。昨夜のように、成り行きによって稀に場所が違う事もあるが、基本夜は寝室へ行く。

 吐息がかかる位、顔を近づけて見合う。

 シンの手前、二人の間にあるカノンの左手からは、血が溢れ出していた。とは言え、浅い傷がある程度だ。
 膨れて引力に負けた血が、シーツの上に落ちて滲んでゆく。

 シーツは洗濯されて、白くは無いが明るい色をしている。過去に付いた血は、無理には落とされずそのままだ。まるで模様みたいになり、くすんでいる。
 その上に、新たな模様が描かれてゆく。

 シンは、夜も苦手だ。その為、寝る前にも薬を魅せる。

「おやすみ、シン」
「おやすみ、カノン」

 カノンが先に目を閉じたのを見届けて、シンは血を軽く舐めてから、瞼を閉じた。
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