君に咲く花

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 シンは、蛇口から流れる水を見詰めていた。
 水はシンクに落ち、先に床に張っていた血を薄め、洗い流していく。

 頭がぼんやりとするからか、いつも以上に活力が漲らない。急な絶望感に駆られて、現実から逃げ出したくなってしまう。

 不意に、ポケットに入れておいた携帯電話がバイブレーターを鳴らした。
 目の前のシンクを見ると、血はすっかり溶かされ、透明な水のみが流れていた。

 蛇口の水を止め、近くにかけてあるタオルで手の水気を拭き取ってから、携帯を手に取る。
 着信先は、エルだった。

 最近では、エルから掛けて来る事は珍しくなったが、以前は何度かあった為、疑問もなく繋げる。

「…エルさん、どうかした?」
≪…突然電話すみません、シンくんに聞きたい事があって…≫
「…何?」

 深刻そうな雰囲気の中、エルが羅列する文章内容に、シンは思わず目を見張っていた。



 カノンは、朦朧としてきた意識の中に、容赦なく入り込んできた物音に驚き目を開く。
 眠気も飛ぶほどの音に困惑しつつも、唯事ではないとの勘が働き直ぐにベッドを乗り越える。

 急に動いた事で一瞬地面が揺れたが、直ぐに感覚を取り戻して物音の方へと走った。

「シン!シン!どうしたの!シン!」

 カノンはリビングの扉を開けて、早々に目に飛び込んできた光景に驚愕するしかなかった。

 シンは倒れていて、強く目を瞑り過呼吸を起こしている。袖ごと掻き切られた腕からは赤い鮮血が滲み出していて、包丁は少し先に転がっている。
 更に遠くには、画面の暗くなった携帯電話が落ちていた。

「……して…赦して…叩か、ないで…」
「えっ?」
「…ごめ…ん、なさい…もう、逃げ、ない…から…お願い…怒ら、ないで…」

 口元に耳を近づけ済ませると、呼吸音に混じり違和感のある謝罪や懇願が聞こえて来た。
 体は激しく震えていて、途轍もなく苦しげだ。

 今まで聞いたどんな台詞よりも感情のある台詞に、その内容にカノンはうろたえる。

「……シン?だ、大丈夫だよ…誰も怒ってないよ…?どうしたの?シン…?」

 速い呼吸に、嗚咽も混じり出す。
 カノンは血が溢れ出しているのに改めて気付き、近くに落ちていたタオルで傷口を押さえつけた。

「…シン、僕の声聞こえてる?」
「…………カ、ノン…?」

 カノンは微かに、だが確かにあった反応に小さく安堵した。
 だが、直後に零れる謝罪に、また惑う。

「…ごめん、なさ…もう、言わない…です…」

 どうやらシンは今、意識が混濁しているようだ。
 内容はよく知らないが、恐らく過去と今が混ざってしまっている。

 カノンは咄嗟に思いついた解決策を実施するべく、タオルを確りと腕に押し付けながらも、思いっきり唇を噛んだ。
 痛みに顔を歪めながらも、舌先で感じた血の味に、強張ってしまっていた表情を緩める。

 少しだけ自分の血を口内に含み、唾液と混ぜてから、そっとシンの口を塞いだ。
 切れた唇をぴったりとくっ付け、口の中に血の味を移した。



「…シン、聞こえる?」

 シンはカノンの声に気付き、薄く目を見開いた。
 終わった筈の悪夢が追い掛け回してきて、めちゃくちゃに記憶を掻き回す。

「…カノン…カノン…俺…」

 口の中に、よく知った味が広がっている。慣れた風味により現実世界に引き戻された物の、苦しさがまだ抜けない。

「大丈夫、大丈夫だよ。ほら、これ見て」

 促されるまま上の空でカノンを見ると、右手に包丁が握られていた。そして包丁は、左腕に向かうと一瞬で血液を散らした。
 ぼたぼたと落ちてゆく血が、一瞬で意識を持ってゆく。

「シン大丈夫、僕はここにいるよ、何も怖くないよ、大丈夫」

 シンは、黒く染まった心が血で埋め尽くされてゆく感覚を知った。それは漂白されるように、苦しさを拭っていった。



 その数分後、リビングにはエルもいた。
 カノンの傷も、シンの傷も、すっかり処置されていて白い包帯に覆われている。

「…大丈夫ですか?」
「……うん、ありがとう」

 微笑み、シンを見詰めるカノンの息遣いは、浅く不安定だ。
 対照的に、横で目を閉じて眠るシンは、落ち着いていて安らかな顔をしている。

「…カノンくん、病院に行きませんか」
「…うん、行かない。大丈夫だよ、輸血もしてもらったし直ぐ良くなるから」

 血を失っていると判断し、処置に輸血も含んだ。

「違うんです、カノンくん」
「……何が?」
「……シンくんとは、離れた方がいい…」
「……どういう事?」

 エルは、カノンが既に知っている可能性も考慮したが、どうやら何も知らなかったらしい。
 知らずに同棲していたとは、とても恐ろしい。

 エルは発言するに辺り、シンを横目で見た。目覚める気配は無いが、途中で目覚められるのもまた不安だ。

「…少しこちらへ」
「え、あ、うん」

 エルは肩を貸して、カノンを廊下へと誘導した。



 カノンは息を呑み、待っていた。全く想像が付かなくても分かるくらい、エルの表情が暗い内容を示している。
 そしてその内容は、深くシンに関係するのだろう。

「……シンくんは、人を殺してます」
「えっ…!?」

 過去に何かがあった事だけは、暮らしてゆく中ではっきりと確信していた。
 しかし、殺人だとは思ってもみなかった。

「7年前の事件は覚えていますか?」
「…えっ、分からない…」

 7年前といえば、相当昔の話だ。12歳の頃のニュースなど記憶に残っている筈が無い。

「……――1家惨殺事件…」

 カノンは、聞き覚えのある事件名に絶句する。当時、その事件ばかりが報道されていた事を思い出した。
 名を聞いてしまえば簡単に思い起こせるくらいに、有名で残酷な事件だ。

 20年間、ずっと自宅に閉じ込められていた少年が、一家を無残に刺し殺した事件だ。
 少年に罪の意識は無く、寧ろ解放に喜んでいたらしい。

 子どもながらに、見知らぬ犯人の少年に恐怖を抱いたのを鮮明に思い出す。
 母親が¨でも、その子も可哀想なのよ¨と悲しげに言っていたのも思い出した。

 裁判では、責任能力が著しくかけていたとされ、無罪判決が下されたらしい。

「…………それがシンなの?」

 エルはただ浅く首を縦に振って、カノンの両腕を強く掴んだ。

「……カノンくん!ここから逃げましょう!今なら逃げられます!」
「…でも…!」

 正直、本能は逃避を求めている。殺人したという事実はとても恐ろしい。
 しかし、シンの優しさは誰よりも知っているつもりだ。その優しさはきっと、偽りではない。

「…に、逃げない!」
「でも、ここにいたらいつかカノンくんも!」
「…今まで大丈夫だったから、これからも大丈夫だよ…」

 それに、もう過去の話だ。トラウマに苦しむ姿も、幾度と見てきた。
 それはきっと、後悔に気付いたからだ。
 それに何を知ったとしても、胸の内にある感情が変化することは無い。

「…私は、カノンくんが」
「…ごめんエルさん、僕は逃げない!!」

 エルが悲しい目を見張る。腕の力が弱まるのを感じて、カノンは自ら解いた。

「だって、僕はそれでもシンが好きだ!愛してる!だからずっと、傍に居て寄り添いたい!!」

 廊下中を反響した声が、一気に静まった。
 目の前、エルは泣いていた。

「ご、ごめんね、エルさん」
「……私も、すみません」

 エルは伸ばした手から視線を背け、溢れる雫を拭い続けている。
 エルがずっと自分の事を考え、苦悩してくれているのは知っていた。
 しかしそれでも、救いたいのはシンなのだ。

「ずっと、ずっと、ありがとう」
「…いいえ…惨めな姿を…すみません」

 エルは目視に耐えられなかったのか、立ち上がり背を向け玄関までの道を去ってゆく。
 しかし扉を潜る前に、小さくもはっきりとした声が聞こえて来た。

「……何かあれば呼んでください、お電話待っています」

 パタンと閉まる扉越しのエルに対して、カノンは縋りたい気持ちを一掃し、もう一度感謝を述べた。
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