短編小説集

有箱

文字の大きさ
20 / 36

斜め45度の空【後編】

しおりを挟む
 ――そして、その日は突然やって来た。連絡を受けたお兄ちゃんが、一週間後に海外へ戻ることになったのだ。

 私は、初めて泣きじゃくった。自分以外の誰かのため、涙を流した。最初は帰れと言っていたくせに、行かないでとも訴えた。何度も訴えた。お兄ちゃんも、残りたいと話していた覚えがある。

 それでも決定は覆せなかったらしく、別れは確定した。
 
 しばらくしたら戻ってくるから、と両親は言っていた。しかし、私は離れるという現実を受け容れられず、必死に抗議を続けたものだ。あの行動は、今でも間違っていなかったと思う。
 寧ろ、もっと全力で抗議して、お兄ちゃんを本当に引き止めれば良かったとさえ思っている。

 しかし、それは今だから思えることだ。当時は当時なりに一生懸命で、全力でぶつかってはいただろう。それでも現実は厳しく、二日前には渋々別れを受け容れた。

 そして、最後に私が考えたのは、お兄ちゃんへのサプライズだった。



 お兄ちゃんへのサプライズ内容。それは、私の人生で最大のイベントであり、初の試みでもあった。
 何度も考え直したが、お兄ちゃんの驚く顔と、喜ぶ顔を焼き付けておきたかったのだ。
 
 幼い私が決死の覚悟で用意したサプライズ、それは前髪の断髪だった。物心付いた頃から長かった髪を、目の上まで切ろうと決めたのだ。

 恥ずかしくて両親に言おうにも言えず、初めてであるのに関わらず私はセルフカットを試みた。
 もちろん結果は散々で、長さ調節は失敗――髪は眉上くらいの短さになってしまった。正直、直後は恥ずかしさで泣きそうになったものだ。

 だが、最後の最後に面会を避ける訳にも行かず、私はその髪でお兄ちゃんの前に立った。

 あの時のお兄ちゃんの顔は、今でもよく覚えている。その驚きようと言ったら、思い出す度に笑えて仕様がない。恥ずかしさに嬉しさが勝ってしまうほどに、お兄ちゃんは喜んでいた。

 色々な事があった三年間の最終日、あの日の出来事や会話も、今だ鮮明に覚えている。

 前髪を切ったばかりの私に、お兄ちゃんは空を見に行こうと誘ってきた。唯でさえ恥ずかしいのに誰かに見られたら……と躊躇ったが、やはり最終日との現実は強く、私は誘いに応じた。



 いつもの廊下、いつもの玄関、何一つ変わらない風景。履きなれた靴、聞きなれた靴音、お兄ちゃんの笑顔。その先で、扉を開けば待っている風景は、いつも色々な顔をしていて。

「わぁ……!」

 その時ほど感動した記憶は、後にも先にもない。
 そこに広がっていた空は、今まで見ていたどんな空より鮮やかだった。その時になって初めて、いつかに語った言葉の意味を知った気がした。

 本当に、世界が変わった気がした。

「綺麗でしょう?」

 お兄ちゃんの笑顔は、青空のように眩しかった。

「……綺麗! 私、空がこんなに綺麗だって知らなかった!」

 そんなお兄ちゃんが、大好きだった。

「良かったよ、分かってくれて。髪、切ってくれてありがとうね」

 離れたくなかった。もっと傍にいて欲しかった。

「……ううん。ねぇお兄ちゃん、やっぱり行っちゃうの?」

 俯いてばかりだった私に、寄り添ってくれたお兄ちゃん。

「うん、仕方がないことだからね。でも、時間が出来たらまた会いに来るよ」

 いつも優しくて、私がどんなに嫌な事をしても、怒らなかったお兄ちゃん。

「……そうだよね……」

 空が、大好きだったお兄ちゃん――。

「多分さ、俺、向こうに行っても空ばっかり見てると思う」
「……?」

「大丈夫、どんなに遠くにいても世界は繋がっているよ。もしも寂しくなったら、見上げて思い出して。俺も、会いたくなったら見上げるから。見上げて、頑張ってるところ想像するから……って、言いたくて……」

「ふふ、そうだね。私もそうする。お兄ちゃんに会いたくなったら、空を見てお兄ちゃんのことを考える。楽しかった日々も思い出す。離れ離れは寂しいけれど、世界は繋がってるもんね」

「うん、だからお互いに胸を張れるくらい頑張ろう!」
「うん! 私、頑張る!」

 私は、本当にお兄ちゃんが大好きでした。ううん、今でも大好きだよ。



 お兄ちゃんが去った日から、私は努力を始めた。簡単にとは行かなかったが、考え方や性格を自ら修正した。

 髪も、前の長さに戻らないよう切り続けた。明るい人になれるよう、頑張った。

 次にあった時、胸を張れるように。再会した時、恥ずかしい自分にはならないように。寂しい時は空を見上げて、前に前に歩き続けた。
 
 けれど、その後お兄ちゃんが帰ってくる事はなかった。



 知らされたのは中学二年の時だ。電話で連絡を受けた母から、お兄ちゃんの訃報を知らされた。滞在先の国で、事件に巻き込まれ命を落としたらしい。

 本当にショックだった。今までの努力が、無駄だと思えそうなほど心が抉れた。
 ダメージは顕著に現れ、数日間は食事も出来ず、外にも出られなかった。けれど、そんな時でさえ、窓から見える空は青々としていて、あの日々を次々と蘇らせた。

 楽しかった日々を、嬉しかった出来事を、私を変えたあの存在を。あの言葉を。
 どんなに遠くにいても、繋がっていると言った彼の言葉を――。



 四年の月日がたった今でも、空を見上げる度に思い出す。場所は変わってしまったが、この空の続く先にお兄ちゃんは居るのだろう。

 会えなくても、青いフィルターを通して私達は繋がっている。
 いつまでも、繋がっている。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

借金した女(SМ小説です)

浅野浩二
現代文学
ヤミ金融に借金した女のSМ小説です。

意味が分かると怖い話(解説付き)

彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです 読みながら話に潜む違和感を探してみてください 最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください 実話も混ざっております

処理中です...