緑の城でピーマンの夢を見る

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 結局、多忙が押し寄せ読了に三日も掛かってしまった。本の読み終わりを報告すべく、美佳を求めてD室へ踏み入る。
 D室は、ピーマンを主軸にした植物を育成する部屋だ。床一面が土で覆われており、個性豊かな多くの個体が競うように背を伸ばしている。

 軽く見回すと、紛れるように屈んでいた美佳を発見した。掃除中だったのか、足元に箒と塵取りが倒れている。よくは聞こえないが、紫の花と何かを話しているようだ。
 瞳は穏やかで、口元には優しい微笑が宿っている。視覚化された愛に紛れ、どことなく慈しむような気配もあった。
 邪魔をしては悪いと、翻ったところで声に止められる。振り返ると、屈んだままの美佳が僕を見ていた。

「何か用があったのでしょう? 何ですか?」
「あ、いや。この本良かったよと言いに来たんだ」

 大きなピーマンのイラストを、美佳に向けて掲げる。返却すべく距離を縮め、真横で同じ体勢をとった。美佳は体勢の固定を見届け、花へと向き直る。

「それで、何か発見はありましたか?」
「栄養価について、僕が知らない論文が乗っていたよ。いつも面白い本を探してきてくれてありがとう。最近全然時間が取れないから本当に助かってる」
「そうですか。あ、その本返さなくていいですよ。貰い物なので。あげます」
「いいの!? ありがとう!」

 やり取りの終了を察し、本の一部を脳が勝手に再読しだす。論文はかなり心を踊らせたが、求めていた情報には出会えなかった。最初から諦めてはいたものの、やはり落胆してしまう。
 溜め息が落ちかけたが、目の前の我が子を目にストップをかけた。健気に膨らもうとする小さな実が、濃い緑を半分橙色にしている。

「落ち込んでます?」
「えっ、そう見えた?」
「今も見えていますが」

 戸惑い一つない瞳が僕を捉えている。無自覚な表面化に気付き、決まりが悪くなった。反射行動として、満面の笑みを上乗せしてしまう。

「んー、疲れてるのかな! 気にしないで! それよりさっき、その子と何か話してなかった?」

 その上で、分かりやすく話を逸らしてしまった。美佳は若干訝しげにしたものの、興味はなかったのか素早い切り替えを見せる。視線は再び花へと戻っていた。

「実家とビニールハウスが取り壊されることになったと話してました。あ、ビニールハウスは農家だった父親のものなのですが」

 緑の世界に似合わない、深刻なテーマに一瞬黙り込む。

「ええっ! それ大丈夫なの? て言うか僕聞いていい話だった?」

 まさか、家庭の話をしているなんて思わなかった。
 実は、美佳の生い立ちについて僕は何も知らない。家族構成も、出身地さえ未知だ。彼女が自ら語らないのはもちろん、人の過去に触れるべからずと無意識に制御していたせいかもしれない。

「問題ありません。空調設備が整えられず使っていなかった場所ですし、追い出される訳ではないので心配も無用です。両親も今の家や暮らしを気に入っているようですし」
「んーそっか……でも寂しいね。小さい頃は住んでた場所なんでしょ?」
「寂しい……。そうですね、少しは」 
「解体作業いつ?」
「明日です」
「明日!?」

 しばらく先の予定だと、勝手に解釈していた。冷静を極めた態度の上、これっぽっちも未練は見えない。
 しかし、家であれ人であれ、失う寂しさは同じだろう。誰かに話したくなるほどのものなら尚更だ。

「最後に見納めとか写真撮ったりとかいいの?」
「大丈夫です。明日も世話がありますし」
「それは僕がやるから、引っ掛かるのがそこだけなら行ってきなよ! なんなら一週間くらい家族で過ごしてきてくれていいから!」

 僕だって、猶予があったなら母に別れを告げたかった。ピーマンを口一杯に頬張って、美味しいと嘘を吐きたかった。なかったはずの光景が、胸のうち鮮やかに展開される。美佳は僅かに思案を見せ、頷いた。

「……じゃあ、お言葉に甘えさせて頂きます」
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