緑の城でピーマンの夢を見る

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『次はね、プーマンによく似てるこのお野菜なんだけど、どんな味がすると思う?』
『えー、これプーマンじゃないの? うーん、酸っぱいとか?』

 ラジオが楽しげに、幼子と女性の会話を披露する。今は亡き野菜の写真から、町行く人に味を当ててもらう企画のようだ。
 当然ながら、今の子どもたちは死んだ野菜たちを知らない。彼らにとってのピーマンと言えば、甘くて美味しいプーマンでしかないのだ。

『お母さまは覚えておられます?』
『うーん、小さかったし忘れちゃいましたね』

 ――子どもだけではない。今や地球の何割かは、ピーマンの存在を消してしまったのだろう。いや、完全な記憶を持つ者など、既に存在しないのかもしれない。この僕だって。

 空地となった皿が僕を見ている。目を合わせていると、ふと小さく浅い欠けが目に留まった。知らぬ間に破損させていたらしい。使用に伴う当然の現象に、もの寂しさが宿った。

 美佳が出掛けて今日で三日になる。二日前、“両親が逃がしてくれません”と連絡がきて以来、音信不通だ。久々に会う娘に積もりすぎた話でもあるのだろう。淡々と頷き続ける姿を描き、微かに口角を持ち上げた。
 里帰りを楽しんでくれていると思うと、素直に嬉しくもなる。しかし、裏腹な空虚感が感傷の促進もしてきた。いや、これは先程のラジオ番組にも責任があるだろう。

 私の味覚は確かなのだろうか――そんな疑問に出会いさえしなければ、ここまで物思いに耽ることもなかったのだから。

 人より多くピーマンを味わっていた自信はあるが、二十年は昔の話だ。印象だけで記憶し、味を書き換えていても可笑しくはない。もしかしてピーマンは既に完成していて、それを見逃していたら――考えはじめると恐ろしくなった。
 これでは一生、ループを続けたまま約束なんて果たせないのではないか、と。



 不意にパソコンのアラームが鳴る。データ収集の時間だとリマインダーが叫んでいた。切り替えるべく、皿の洗浄を第一タスクに差し込む。欠けを避けて皿を掴み、立ち上がった。

「ただいま帰りました」

 だが、不意打ちの挨拶により皿が逃げ出す。粉々になった陶器を、約十秒ほど二人して眺めた。

「……大惨事ですね」
「……急だったから驚いたみたいだよ、皿が……」
「そうですか……」

 美佳は持っていた荷物を壁に預ける。素早く部屋を出たかと思うと、掃除道具を手に戻ってきた。箒と塵取り、ゴミ袋と軍手が揃っている。

「あ、僕やるよ」

 軍手を奪おうとして、反対側に引っ込められた。有無を言わさず、美佳は破片を回収しはじめる。第一に目視できるものを、それからプランターに侵入した欠片を摘まみはじめた。
 懸命な姿を前に、急に酷く情けなくなる。こんな調子ではいけないと、頬を思いっきり両手で挟んだ。それから、後に続いて回収を始める。

 特に会話するでもなく、黙々と清掃に励んだ。最終的にはプランターを大きくずらし付近も丁寧に掃除した。
 ぽっかりと空いた空間に、研究室の新設当時を思い出す。あの頃は、すぐに約束を果たせると思っていた。けれど今は。

「久しぶりに会ったのですが、父も母も喜んでました」
「あっ、本当? それは良かった」

 珍しく自主的に語り始めた美佳は、移動したプランターの小さな芽を見つめている。

「会って早々二人が始めるんです。私のトマト好きの話を。夏場は毎日食卓に出ていたのですが、たくさんあるのに誰にも譲らないくらいの勢いで食べていた、と。全滅した時の塞ぎようは恐ろしかったとも言っていました。あ、父は季節ごとに違う野菜を作る人だったのですが、トマトは特に格別で」
「そっか、そうだったんだ」

 幼い姿を想像し、自然と笑いが込み上げた。彼女にとって、トマトは人生の一部だったのだ。僕のピーマンと同じように。

 奥深くに押しやられていた記憶が顔を出す。ピーマンとの戦いを始めた僕は、敵を知るべく多くの本を読み漁った。克服エピソードや思い出を聞いて回ったり、考案したレシピで母と一緒に料理したり。
 そうして敗北を繰り返し、悔しがりながらもピーマンにのめり込んでいった。あの頃は楽しかった。苦い思い出として蓋する結果にはなったが、楽しかった。笑顔の咲き乱れる世界は、どこよりも心地よかった。

「爽太先生はなぜピーマンなのですか」
「えっ」
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