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10月22日
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[10月22日、土曜日]
暗い暗い、景色も見えない場所でもがく。何度も何度も、ごめんと叫ぶ。
冷たい瞳を向ける譲葉が目の前に現れて、そんなに弱い人間だと思わなかったと、失望したと、無言で訴えている。こんな家に来てしまって、不幸だと嘆いている。
月裏は胸の苦しさに、泣き叫びながら何度も自分の体を刺した。しかし何度刺しても、血が噴き出すだけで死ねない。
何故、こんなに苦しいのに、生きなきゃいけないんだろう。何故、死は迎えてくれないんだろう。
もう、生きてゆける気がしない。譲葉に嫌われ失望されては、共には居られないよ。
月裏は、勢い良く目を覚ました。目の前にあるのは、暗がりに沈む知らない天井だ。その白さから、直ぐに院内にいると把握した。
数瞬後、天井を遮り譲葉が姿を現す。
「大丈夫か!」
「……譲葉…君…僕…」
「倒れたんだ、覚えていないか?」
月裏は曖昧さもありながら、確り焼きついている記憶を思い起こし、絶句する。首に触れているガーゼの感触が、妙に気持ち悪い。
「今先生呼ぶからな」
ナースコールに手をかけた譲葉を目で追った先、直ぐ近くの時計に目が留まった。
あと1時間ほどで、出勤の時間だ。
月裏の心は、直ぐ焦りに呑まれはじめる。
「………仕事、行かなきゃ…」
「えっ」
ベッドから出ようとする月裏を、譲葉が両手で阻む。
「…行かなきゃ、休めない」
だが、無理矢理に突破しようとした所為で、譲葉がバランスを崩し尻餅をついた。そこで漸く我に帰る。
「…ご、ごめん」
「…大丈夫だ」
譲葉はベッドの足を使い、立ち上がる。
月裏は罪悪感と、刻まれた規則の間で、激しく揺れる。だが、長年をかけて培われた方へと、段々傾いていった。
「…でも、行かなきゃいけないんだ。ごめん…夜に来るから待ってて、先生にも言っておいて、お願い」
「つ、月裏さん…!」
走り去ってゆく中、投げられた声は酷く困惑していた。
欠勤した際の皺寄せは、己に返って来る。それが今まで得てきた結論だ。
加えて、周りの目が暫く冷たくなる。上司の怒鳴り声も何倍にもなり降り注ぐ。
幾度か経験して、もう嫌だと思った。あの苦痛は味わいたくないと思った。
だから休めない。絶対に休めない。
譲葉にも医師にも、変人だと思われるのは重々承知だ。実際相当可笑しいのだから、仕方ない。もちろん変人扱いは、相当な恐怖である。
だが、それ以上に、勝手に出来た概念が自分を縛り付けるのだ。悔しいけど、苦しいけど。
月裏は自宅までの道を、必死に駆け抜けた。
結局、ギリギリになってしまったが職場に辿りつき、いつもの苦しい時間を乗り越えて、仕事の時間は終わった。
病院側へと行く為、途中で乗り換えて、電車に揺られ続ける。
ノルマは一つクリアした。けれど先に待つのは、途轍もなく壁の高い難題だ。
悲しい表情さえ見せないよう我慢してきたのに、未遂現場を目撃させてしまった。
しかも、よりによって首に当てている場面を、だ。勿論手首でも嫌だが。
それに加え、制止をかけられているのに仕事を優先した。
譲葉の心は、きっと最悪な方向に向いただろう。
頑張って来た、自分にとって長かった努力は、全て水の泡となり消えてしまった。
無意識で見た、冷たい目が忘れられない。怖い。譲葉と向き合うのが。自分を見下す瞳を向けられるのが。哀れまれるのが。
とは言え、迎えを放棄する選択は出来ず、約束通り、辺りを窺いながらも裏口から入室した。
「朝日奈さん!」
入って早々医師から苗字を投げられ、肩が竦んだ。初めて目にする医者の顔が、恐ろしく見える。次なる台詞に、びくびくと体中を強張らせる。
「日向君、待ってますよ」
予想していたより柔らかかった内容と語気に、月裏は唖然としてしまった。
医師は近付くと、にこっと笑った。挨拶も無しに出て行ったのだ、何も言わないが怒っているに違いない。
「…………あ、あの、ごめんなさい…」
月裏は、怒鳴られる覚悟で謝罪をかける。医師は少し不思議そうに月裏を見ると、困り笑いした。
「吃驚しましたが大丈夫ですよ、お仕事お忙しいのですね」
「……ま、まぁ」
意外な解釈に、安心感が満ちる。しかし気は緩められず、冷や汗が伝う。
「待合室に居るので、呼んできますね」
「…あ、ありがとうございます」
医師の背中が、遠ざかってゆく。その分、譲葉との対面が近付いてくる。
なんと言えば許されるだろう。どうすれば、距離を戻せるだろう。
考えてみても、適切な答えが現れない。
必死に考えている内に、譲葉と医師の姿が見えて来てしまった。どきどきと、鼓動が高鳴っている。
遠くから、譲葉の視線が月裏を捉えた。
譲葉が何か言ったらしく、医師は軽く手を振り月裏にも会釈すると、その場を去っていった。
譲葉が近付いてくる。はじめに見た真っ暗で光一つ無い、暗い瞳を真直ぐに向けて。
距離は直ぐ縮まり、譲葉と月裏は向かい合った。鼓動は早まるばかりで、鎮まらない。
「お疲れ様」
目の前、落とされた台詞に、月裏は思わず絶句してしまった。いつもの帰宅時と、何も変わらない台詞。
「……ありがとう…」
泣きそうな月裏の横を擦り抜けて、先に扉を潜ったのは譲葉だった。扉の外に立ち、開けたままで待っている。
月裏は震える足を踏み出し、扉を潜り譲葉の真横へと並んだ。そして一歩歩き出す。
譲葉も同じ歩幅で、続いた。
少し歩くと、僅かに後ろから囁きが聞こえてきた。
「無理するな、泣いたって誰も咎めない」
強い我慢を見透かしていたような慰めに、月裏は我慢を切らす。頬を、幾粒もの雫が流れた。
譲葉は見ないようにとの配慮か、自宅に着くまでずっと一歩後方を歩み続けた。
暗い暗い、景色も見えない場所でもがく。何度も何度も、ごめんと叫ぶ。
冷たい瞳を向ける譲葉が目の前に現れて、そんなに弱い人間だと思わなかったと、失望したと、無言で訴えている。こんな家に来てしまって、不幸だと嘆いている。
月裏は胸の苦しさに、泣き叫びながら何度も自分の体を刺した。しかし何度刺しても、血が噴き出すだけで死ねない。
何故、こんなに苦しいのに、生きなきゃいけないんだろう。何故、死は迎えてくれないんだろう。
もう、生きてゆける気がしない。譲葉に嫌われ失望されては、共には居られないよ。
月裏は、勢い良く目を覚ました。目の前にあるのは、暗がりに沈む知らない天井だ。その白さから、直ぐに院内にいると把握した。
数瞬後、天井を遮り譲葉が姿を現す。
「大丈夫か!」
「……譲葉…君…僕…」
「倒れたんだ、覚えていないか?」
月裏は曖昧さもありながら、確り焼きついている記憶を思い起こし、絶句する。首に触れているガーゼの感触が、妙に気持ち悪い。
「今先生呼ぶからな」
ナースコールに手をかけた譲葉を目で追った先、直ぐ近くの時計に目が留まった。
あと1時間ほどで、出勤の時間だ。
月裏の心は、直ぐ焦りに呑まれはじめる。
「………仕事、行かなきゃ…」
「えっ」
ベッドから出ようとする月裏を、譲葉が両手で阻む。
「…行かなきゃ、休めない」
だが、無理矢理に突破しようとした所為で、譲葉がバランスを崩し尻餅をついた。そこで漸く我に帰る。
「…ご、ごめん」
「…大丈夫だ」
譲葉はベッドの足を使い、立ち上がる。
月裏は罪悪感と、刻まれた規則の間で、激しく揺れる。だが、長年をかけて培われた方へと、段々傾いていった。
「…でも、行かなきゃいけないんだ。ごめん…夜に来るから待ってて、先生にも言っておいて、お願い」
「つ、月裏さん…!」
走り去ってゆく中、投げられた声は酷く困惑していた。
欠勤した際の皺寄せは、己に返って来る。それが今まで得てきた結論だ。
加えて、周りの目が暫く冷たくなる。上司の怒鳴り声も何倍にもなり降り注ぐ。
幾度か経験して、もう嫌だと思った。あの苦痛は味わいたくないと思った。
だから休めない。絶対に休めない。
譲葉にも医師にも、変人だと思われるのは重々承知だ。実際相当可笑しいのだから、仕方ない。もちろん変人扱いは、相当な恐怖である。
だが、それ以上に、勝手に出来た概念が自分を縛り付けるのだ。悔しいけど、苦しいけど。
月裏は自宅までの道を、必死に駆け抜けた。
結局、ギリギリになってしまったが職場に辿りつき、いつもの苦しい時間を乗り越えて、仕事の時間は終わった。
病院側へと行く為、途中で乗り換えて、電車に揺られ続ける。
ノルマは一つクリアした。けれど先に待つのは、途轍もなく壁の高い難題だ。
悲しい表情さえ見せないよう我慢してきたのに、未遂現場を目撃させてしまった。
しかも、よりによって首に当てている場面を、だ。勿論手首でも嫌だが。
それに加え、制止をかけられているのに仕事を優先した。
譲葉の心は、きっと最悪な方向に向いただろう。
頑張って来た、自分にとって長かった努力は、全て水の泡となり消えてしまった。
無意識で見た、冷たい目が忘れられない。怖い。譲葉と向き合うのが。自分を見下す瞳を向けられるのが。哀れまれるのが。
とは言え、迎えを放棄する選択は出来ず、約束通り、辺りを窺いながらも裏口から入室した。
「朝日奈さん!」
入って早々医師から苗字を投げられ、肩が竦んだ。初めて目にする医者の顔が、恐ろしく見える。次なる台詞に、びくびくと体中を強張らせる。
「日向君、待ってますよ」
予想していたより柔らかかった内容と語気に、月裏は唖然としてしまった。
医師は近付くと、にこっと笑った。挨拶も無しに出て行ったのだ、何も言わないが怒っているに違いない。
「…………あ、あの、ごめんなさい…」
月裏は、怒鳴られる覚悟で謝罪をかける。医師は少し不思議そうに月裏を見ると、困り笑いした。
「吃驚しましたが大丈夫ですよ、お仕事お忙しいのですね」
「……ま、まぁ」
意外な解釈に、安心感が満ちる。しかし気は緩められず、冷や汗が伝う。
「待合室に居るので、呼んできますね」
「…あ、ありがとうございます」
医師の背中が、遠ざかってゆく。その分、譲葉との対面が近付いてくる。
なんと言えば許されるだろう。どうすれば、距離を戻せるだろう。
考えてみても、適切な答えが現れない。
必死に考えている内に、譲葉と医師の姿が見えて来てしまった。どきどきと、鼓動が高鳴っている。
遠くから、譲葉の視線が月裏を捉えた。
譲葉が何か言ったらしく、医師は軽く手を振り月裏にも会釈すると、その場を去っていった。
譲葉が近付いてくる。はじめに見た真っ暗で光一つ無い、暗い瞳を真直ぐに向けて。
距離は直ぐ縮まり、譲葉と月裏は向かい合った。鼓動は早まるばかりで、鎮まらない。
「お疲れ様」
目の前、落とされた台詞に、月裏は思わず絶句してしまった。いつもの帰宅時と、何も変わらない台詞。
「……ありがとう…」
泣きそうな月裏の横を擦り抜けて、先に扉を潜ったのは譲葉だった。扉の外に立ち、開けたままで待っている。
月裏は震える足を踏み出し、扉を潜り譲葉の真横へと並んだ。そして一歩歩き出す。
譲葉も同じ歩幅で、続いた。
少し歩くと、僅かに後ろから囁きが聞こえてきた。
「無理するな、泣いたって誰も咎めない」
強い我慢を見透かしていたような慰めに、月裏は我慢を切らす。頬を、幾粒もの雫が流れた。
譲葉は見ないようにとの配慮か、自宅に着くまでずっと一歩後方を歩み続けた。
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