造花の開く頃に

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11月2日

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[11月2日、水曜日]
「おはよう、譲葉君」
「おはよう」

 譲葉は、相変わらず態度を変えない。何を見ても無表情で、いつもの生活を繰り返すだけだ。
 気味が悪くは無いのだろうか。自分の命を絶とうとしていた男と共に住んでいるなんて。

「……月裏さん?」
「あっ、えっ何? えっと、何食べる?」
「月裏さんは食べたのか?」
「うん、今日も早く起きてね」

 早めに起床してしまったのは事実だが、それは嘘だ。食事は、食欲が出ずにやめてしまった。
 妙に気分が悪くて、出来なかったのだ。

「……そうか」

 譲葉には、不調を悟られないようにしなければならない。
 月裏の中でそれは、いつしか自分の内に刻まれた一つのルールになっていた。

 見せてしまった所で、譲葉は何も言わずに流してくれるだろう。それどころか、優しく慰めてくれるかもしれない。
 けれどそれは、同時に気を遣わせてしまうと言う事にもなる。それは嫌なのだ。
 譲葉には、楽にしてもらいたいのだ。

「早いけど行くね」
「あぁ、行ってらっしゃい」

 月裏は笑顔の持続に疲れて、わざと早く家を出た。

 毎日が、とても長く感じる。それは常に不調を感じているからか、それとも恐怖ばかり感じているからか。
 理由はなんだとしても、心が沈んで居る事に変わりは無い。
 上司の怒声も周囲のびくびくと怯える姿も、心を刺し続ける。
 死にたい。消えたい。楽になりたい。
 月裏は、心の隅で包丁を握り締め、自分の手首を深く切るイメージをした。

 11時を過ぎて、逃げるように社外に出ると雨粒が手に当たった。ぽつぽつと、顔にも落ちてくる。
 月裏は直ぐに一歩身を引き、屋根の下に入った。
 確か置き傘を鞄に入れておいた筈だと手繰ったが、どうやら随分前に出したきりらしい。傘は無かった。

 帰宅できる程度なのか確かめる為、手だけ空の下に差し出すと、勢いの良い雨粒が数粒当たり次々と弾けた。
 譲葉に少し遅くなると連絡して、雨足が弱まるまで少しの間待機しよう。
 と、携帯を取り出した所までは良かったのだが、そこで致命的な点に気付いた。
 そう言えば、譲葉の携帯番号を知らない。

 ――――少し考えた結果、何の連絡もなしに待たせて心配させるのも悪いとの結論に至った。故に、コートを傘代わりに被り、駅までの道を切り抜けることにした。

 もちろん、駅に辿り着く頃にはずぶぬれだ。
 月裏の他にも数人、ずぶぬれになって駅内にいる人間がいた。皆寒そうだ。
 月裏も、凍える体を温めようと無意識に両手で肩を摩る。

 だが、幾ら動いても温まらず、寒さからの不快感で瞳に涙が滲んできた。
 改めて、自分が惨めに思えてくる。
 月裏は、髪から滴る雨粒に紛らわせ、涙を滴らせた。

 挨拶をする気力さえなく、冷え切った手で鍵を回し扉を引く。

「おかえり」
「わっ」

 月裏は、距離に驚いてしまった。いつもより近い場所――玄関先に譲葉が待機していたのだ。その手にはタオルがある。

「…………びっくりした」

 震えながらも、無意識に苦笑いを作り出す。

「濡れてる」

 譲葉はそう言うと、タオルを広げて頭にふわりと被せてきた。そして、両の手で優しく水気を拭き取りはじめる。
 月裏は渡されるとばかり想像していて、意外な行動に絶句してしまった。

「随分濡れたな、シャワーの方が早いか」

 タオル越しに頬に触れた、ほんのりと伝わる手の暖かさが心地良い。

「……ありがとう、そうするね、譲葉君先に寝てて……」

 譲葉の手に触れないよう気を付けながら、すっとタオルを取ると、靴と靴下を脱ぎシャワールームへと向かった。
 泣きそうになる顔を背けて。
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