造花の開く頃に

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11月30日

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[11月30日、水曜日]
 結局、感染の可能性も恐れて、譲葉が目覚める前に帰宅した。
 医師から貰った白紙に、今後の大まかな予定や連絡事項などを書き込んで枕脇に置いておいた。

 まず医師と話し合い、様子見としても2日程病院に預ける事にした。仕事の都合等も話した結果、そうなった。
 木曜の夜頃迎えに行くと残し、丁寧な謝罪も共に添えた。

 気持ちが分かりやすく落ち込んでいる。理由が定かである分、落胆と向き合いやすくはあるが、それでも辛い事に変わりは無い。
 祖母が、誰も悪くなくとも状況が転じる事があると言っていた。だが、どうしてもその教えが受け容れられない。
 どうしても、自分が悪いと思ってしまう。

 もっと注意深く、譲葉を気にしてあげれば良かった。
 月裏は抑えきれない衝動に、心の中では抗いつつも立ち上がっていた。
 戸棚の包丁に手を伸ばして、柄を握る。
 こんな自分、死んだ方がマシだ。役に立たない人間なんか居ない方が良いんだ。

 頭の中で巡る自己否定とは裏腹に、包丁の柄を握ったまま静止する。
 死なないでくれと、死ぬ時は一緒だと言い放った譲葉の言葉が、発音も音階も鮮明なままで記憶に残っている。
 気を失う前、自分に向かって放った『助けて』の声も。

「……がんばらなきゃ……」

 意思の力で死を遠ざけた月裏は、包丁を片付け、柄を握っていた手を鞄に伸ばして掴んだ。

 ――――死にたいのではない、逃げたいのだ。

 月裏はふと、そんな事実に気付いた。いや、昔から知ってはいたが、今更重要に思えてくる。
 現実が痛いから、未来が怖いから、過去に捕らわれてしまい苦しいから、全て忘れ去る為に死にたいと思う。

 いっそ記憶喪失になり、生涯全部の記憶を忘れ去られたなら、死のうなんて思わないはずだ。
 培ってきた人格や思い出も、全て消える事になるけれど。
 でも自分には、惜しむ思い出等どこにも……。

 回顧した時、即座に浮かんだのは母親の顔だった。そして次に祖母の顔が、最後に譲葉の顔が浮かぶ。
 随分昔の物から最近の物まで、様々な記憶が蘇る。苦い思い出と暖かい思い出が混ざって、変な色だ。
 消えたら消えたで、有った物が無くなった事実に付き纏われそうだな、と考える。
 やはり、楽になるには死しかない。と結論づいた。

 帰り道、普段よりも大幅に帰宅する足が遅くなり、自宅に辿り着いた時刻も大分と遅くなってしまった。
 譲葉が居ないと思うと、張り合いが無いのか進まなかったのだ。

 彼がひょっこりと家にやってきて丸二ヵ月半が経過するが、随分と濃密な日々だった。
 始まりを思えば、警戒心も解け近付いたとは思う。
 しかし、互いの弱さや――これは自分に限った事だが、悪い部分も見せてしまったりと、月日の重なりがマイナスに働いた部分もある。

 月裏は思い立ち、引き出しに仕舞っておいた祖母からの手紙を読み返す事にした。
 文面だけでは解釈できなかった、¨難しい子だけど悪い子じゃない¨の記述の意味も、今ならなんとなく分かる気もする。
 譲葉は悪い子どころか良い子過ぎる。寧ろそれが難しいのだ。非の打ち所が無い分、無理を見抜かなければならないのが大変なのだ。

 祖母はどうやって、この問題と立ち向かったのだろうか。
 疑問は隅に残し読み進めると、自分が頼りにされていた事を改めて思い出した。
 当初は重みとして捉えていた単語も、今はありがたく思える。

 そうだ、譲葉と共に住むのは、祖母から自分へと渡された務めなのだ。
 だから、辛くても苦しくても頑張らなくてはならない。
 譲葉の境遇を知った今、譲葉の心を救いたいという願いも生まれてしまった。
 家族のように暮らしたいという望みも。

 脳の片隅に追い遣られてしまっていたが、最終目的がそれだった事を再認識した。
 月裏は手紙を封筒に仕舞いこみ、変わりに携帯電話を握った。

≪…………もしもし……?≫

 祖母の小声が聞こえてくる。寝起きの声だ。それもその筈だ、時刻は0時を回ったのだから。

「……あっ、おばあちゃん。えっと、ごめん、こんな夜中に……起こしたよね、ごめんね……」
≪ふふ、大丈夫よ~、何かあったの?≫
「……あの、えっと、聞きたい事があって」
≪なぁに?≫

 眠りについていた所を起こして、お咎め一つなしに柔らかく包み込んでくれた祖母に、月裏は溜め込んでいた疑問を一気に吐いた。

「譲葉くんの事。おばあちゃんと暮らしてる時どうだったって話聞いて無いなと思って。……それと聞いていいか分からないけど、譲葉くんの親さんが亡くなった事故ついても……それから、譲葉くんの脚の事も……」

 譲葉と上手く過ごす為に、譲葉の事を知りたい。
 本人に隠れて第三者から聞くことの抵抗は取れないが、直接聞くなど以ての外だ。だからこうするしかないのだ。
 祖母は戸惑うどころか軽く笑んで、静かに返事した。

≪……あらたくさんね、うーん、どこから話せば良いかしら?≫
「……え、えっと……」

 月裏は長電話を覚悟し、祖母に一言詫びてから第一の話題を切り出した。
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