造花の開く頃に

有箱

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1月20日

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[1月20日、金曜日]
 高槻家に行くメリットは、譲葉に家族が出来る事。頼れる大人に寄り添ってもらえる事。多くの時間、誰かが近くにいてくれる事。祖母の近くにいられる事。不安定な性格の所為で、迷惑をかけずに済む事。
 デメリットは、ただ自分が寂しいだけ。

 ならば、答えは明白だ。これで良い。譲葉の答えは間違っていない。
 寂しさを飲み込むなんて、もう慣れた。父を失った時も母を失った時も、最終的には遣り過ごせたのだから。
 だから、別れは辛くない。

「……今日も早いんだな」

 目の前の、湯気の上がる湯飲みから視線を上げると、扉から譲葉が現れた。

「……起こした?」

 カーテン越しの空は真っ暗で、まだ星や月がくっきりと見える。そう、今はまだ深夜だ。

「…………月裏さんが起きるのが見えたから……」

 どこかで聞いた台詞だが思い出せず、記憶を辿りながら立ち上がった。

「譲葉くんもお茶飲む?」
「もらう」

 背中に刺さる視線を気にしながら、お茶の準備をテキパキと進める。

「月裏さんは本当に良いのか?」

 しかし、急遽切り出され手が止まる。

「……ええっと、高槻さんの話かな?」
「そうだ、月裏さんは俺が行っても本当に良いのか」

 敢えて惚けて見せたが、譲葉は至って真面目に切り返してきた。濁さない辺り、真剣さが伺える。

「…………譲葉くんが良いなら良いに決まってるよ。それに直ぐ行っちゃう訳じゃないし、大丈夫だよ」
「……本当に大丈夫か?」

 譲葉の配慮を受けて、不意に目的を思い出した。それが躊躇いに繋がっていた可能性も。

「僕がまた、死にたがったりしないか心配してる?」
「……いや……」

 控え目な囁きを塗り潰すほどの笑顔を湛えて、月裏は湯呑みを持ち振り返る。譲葉は顔を上げ、不安げに眉間に皺を寄せている。

「大丈夫、もうそれは無いよ」

 譲葉の横に立って、目前に茶を置いた。

「僕はもう死のうとしたりしない。譲葉くんと約束したからね」

 重荷なら取り除かなければ、と必死になって軽視を誘う。

「考える事はあってもしない、絶対に。傷だってほら、もう過去だって……」

 袖を捲くろうとして、手の平が動きを止めた。まるで何らかの圧力がかかっているような感覚だ。
 一向に薄まらない傷跡は、苦しんできた象徴だ。あっさりと暴露する事で大丈夫だと伝えたかっただけなのに、やはり長年の意識が根付いているのか捲くれなかった。

「……ごめん……」
「良いよ月裏さん、無理するな」

 肝心な場面で弱気になってしまう自分がみっともなくて恥ずかしくて、月裏は顔を隠すように俯く。

「………………僕の所為で躊躇うならそれは嫌だ」
「違う、俺は……」
「…………でも、本当は寂しい……」

 堪え切れない苦しさを飲み込めず、口をついた弱音と共に一粒の涙が舞った。

「…………まだ先だって分かってるのに、行くって考えると本当に寂しいんだ…………」
「……月裏さん……」
「……だけど色々考えたんだ、譲葉くんが幸せになれるようにって……おばあちゃんを安心させられるようにって……高槻さんを悲しませないようにって…………それで行った方が良いって思ったんだ……」
「…………月裏さん」

 拭っても滲み出す涙の所為で、譲葉の顔が見えない。それでも笑顔を作らなければと、半ば無理矢理微笑んだ。

「…………本音はそれで全部か?」
「………………うん」
「……そうか、分かった。じゃあ早速今日高槻さんに意向を伝えてみる」
「…………うん」

 言い放っても尚湧き続ける気持ちを、殺して殺して殺して、素晴らしい未来を影で描いてみる。

「…………譲葉くん、大好きだよ。本当に大好き。譲葉くんがいなかったら今の僕は無い、大好き」

 彼は命の恩人だ。暗鬱とした景色を塗り替えてくれた。時には自分を犠牲にし、時には直接的な言葉もくれた。
 何度も自分を許し、救ってくれた。
 ぼやける視界に肌色が伸びてきて、頭上に柔らかく当てられた。

「俺もだ、月裏さん」
「……………………ありがとう」

 共に歩んで来た道の終わりは、別れだと決まった。
 残っている不確かな時間を、大好きな君と悔いの無いように生きてゆこう。

 後悔に似た気持ちや寂しさは、その後も尽きる事無く現れては消え、月裏の心を引っ掻き続けた。
 進んでゆく事態を遠くから想像し、最後の瞬間ばかり描いた。
 しかし、帰宅しても、目前に譲葉を置いても、ベッドで横になっても、素振り一つ見せないよう努めた。
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