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【2】
しおりを挟む一瞬、眠っているのではなく倒れているのでは、と恐怖に襲われたが、近付いてみると本当に眠っているだけだと分かった。
その顔を見ていると、この青年ともどこかで出会っていると気付く。
そうだ。この細身の青年は、確か精神科の先生に¨泉戸くん¨と呼ばれて、追いかけられていた青年だ。
しかし、何故こんなところで寝ているのだろう。この間の事と言い、彼は非一般的な行動をよく取るのだろうか。
暫く見ていると、青年が目を覚ました。
「あの、大丈夫ですか?」
反射的にそう問い掛けた鈴夜の顔を、青年は見ようともしない。そのままの姿勢で突っ伏しているだけだ。
もしや、聞こえていないのだろうか。
「えっと…」
鈴夜は、正直戸惑ってしまった。
「大丈夫、ですか?どこか気分でも…」
そう声かけしながら肩に触れると、青年はびくりと身体を震わせた。
そしてから、ゆっくりと立ち上がる。
「…帰る」
か細い声で告げた青年は、鈴夜がやって来た方向とは逆の方に踵を返す。
焦った。課せられた任務を放棄しても…良いのだろうが、そうしたらあの少女と会い辛くなる気がする。
「あの、ここで何をしてたんですか…?寝てた…んですか…?」
きっと、迷惑な奴だと思われただろう。全くの他人に、自分の行動の意味など訊かれたくも無いだろうし。
「……もしかして、さっきから、僕に話しかけてる…?」
「えっ…?」
こんな近距離で、明らかに青年に向けていた台詞だと言うのにも拘らず、青年は自分に話しかけられていると思っていなかったらしい。
でも、声はちゃんと聞こえていたようだ。
「…貴方誰…?」
「えっと…、」
誰と聞かれても、鈴夜は青年の関係者でもここの医師でもない。
そう、言うならば、
「君がここで横になっていたから、心配していたんだよ」
「…そうなんだ…心配…」
青年はなぜ自分が心配されているのか分かっていないのか、虚ろな表情で復唱した。
「泉戸くーん!そこに居たのか!探したぞー!!」
向こうから、この間と同じ精神科の医師が小走りしてきた。後ろには、美音もついてきている。
「ほら、帰ろう」
医師は青年を抱えると、鈴夜と美音に「ありがとうございます、助かりました」と言い残し、笑顔で去っていった。
「お疲れ様です、警部」
美音はまたしても、額にぴしっと手の平をあてた。きっとこれは、テレビドラマか何かの影響だろう。
「どうも」
「こういう事ってよくあるらしいですよー」
きっと青年の話だ。
こういう事と言うのは、青年のおこなう非日常的な事柄についてだろう。
「そうなんですか」
「部屋抜け出したりとか、そこまでは良いとして行方不明になったりとか、困ったことばかりするものだから大変だって話してました。それも最近頻度が増えてきたらしくて…」
きっと先程の医師が、こちらへ来る途中に話してくれたのだろう。
他人に話したくなる位だから、余程大変な思いをしているに違いない。
「あ、そうそう、声掛けるときは名前を呼ぶと良いらしいですよ」
「えっ?」
先程自分が直面していた事態を、知っているような口振りの美音に驚いてしまった。
「私もさっき、声掛けたのに聞いてもらえなくて」
だが、そう言われると納得だ。
きっと不思議に思った美音は、医師にその事についても尋ねたのだろう。
「基本人の話を聞いていないらしくて、名前を呼んであげると漸く分かってくれるんだって、だから話しかけたい時は名を呼ぶようにしてるそうですよ」
「泉戸くん、でしたっけ?」
「はい。下の名前は飛翔くんって言うらしいですよ」
美音はニコニコと笑いながら、受けた説明をしてくれた。
「あ、どこか行こうとしてたんですっけ?いっぱい止めちゃいましたね、ごめんなさい」
「いいえ」
何時の間にか、昼と呼べる時刻からは随分ずれてしまっている事に気がついた。
元々昼を買いに出た時刻が遅かったのに、この一件で更に遅くなってしまったから、結局はおやつの時間に食事する破目になってしまった。
***
「そっか、そんな事が…そういえば僕もその人を見た事があるなぁ…一瞬だったけどね」
飛翔という名の青年の話をすると、大智は思い出すようにそう言った。
「そうなの?」
「先生が追いかけてきていたのを、見た事があるよ」
どうやらあの医師が青年を追いかけるのは、日常的な出来事らしい。もしかするとあの青年は、この病院じゃ有名なのだろうか。
鈴夜は知らなかったけれど。
「…色んな方がいるのね」
樹野は勿論その青年を知るはずも無く、想像してかそう零していた。
確かに一般的な生活を送っている人間は、そんな変わった人物にお目にかかる機会はないだろう。
「…でも、精神科と一般病棟が繋がってるなんて少し怖いな…」
樹野が零した不安の意味が、鈴夜にはよく分からなかった。
「大丈夫だよ、繋がってるといってもこっちには殆どこないし、きっとその子は特例だよ」
「…そうなら、いいんだけど…変な人がやってきたら、怖いなって思って…」
そういうことかと、鈴夜は納得する。
確かにはじめ病院内に精神科が入っていると知った時は、そんなような事を思った記憶もある。
精神を病んでいる人は、少し可笑しな行動をするイメージがあるから、何か起こらないか心配になったのだろう。
だが、今迄そんな話は一度もなかったし、そんな心配事などとうに忘れてしまっていた。
どうやら樹野も、岳と似ていて少し臆病な性格らしい。
その岳は、同じ部屋にいて会話を聞いているのにも関わらず、参加して来る事は一切無かった。
ただ、じっとしながら、会話を聞いていた。
暫くすると、またノックが響いた。今日はやけに、たくさんのノック音を聞いている気がする。
「はい」
「こんにちはー!美音です!」
扉の向こうから現れたのは、先程の一件で話したばかりの美音だった。
「ああ美音ちゃん、おはよう」
呼び方に、鈴夜は反応してしまう。
「…美音ちゃん?」
これは、知らない内に、この二人の間に何らかの進展があったとしか思えない。
「今日も来ちゃいましたよー、水無さんも先程振りです!あと岳さんもこんにちは…と、その方は??」
一気に状況を説明してみせた美音は、樹野を見て首を傾げていた。
どうやら美音は鈴夜が知らない内に、大智の部屋に何度か遊びに来ていたらしい。
そしてその間に、岳とも知り合ったのだろう。
「お姉さんも、大智さんのお友達さんですか?」
美音は、得意の強い笑みで樹野に話しかける。
樹野は少し怖気付いている様子を見せたが、直ぐに大人の対応をしてみせた。
「そうです、八坂と申します」
そして、座ったままであるが、丁寧にお辞儀もした。
「そんな固くなくて大丈夫ですよ!私は高月美音って言います!宜しくです!」
「あっ、こちらこそ…」
「今日はお部屋賑わしいですね!なんかあるんですか?」
「何も無いよ、皆会いに来てくれたんだ」
「そうなんですか!大智さんめっちゃ嬉しそうですね!」
そう言われて美音から大智へと視線を移すと、言葉通りとても嬉しそうに笑っていた。
「うん、とてもとても嬉しいよ、僕は幸せ者だ」
その恥の無い発言に照れてしまったのは、聞いていた方だ。鈴夜も、恐らく岳も樹野も、照れ笑いを浮かべてしまった。
「大智さん、皆さんの事が大好きなんですね!」
唯一美音だけが、恥ひとつ無くそんな切り替えしをしてみせる。
「大好きだよ」
そして、これだ。
だから大智は、皆から愛されるのだと思う。
ずっと昔から純粋で、こういう発言を恥じも無くする。
本当に自分たちが愛されているのだと、確信できるから一緒に居たくなってしまうのだ。
「って何、皆どうしたの」
照れながら静まる三人を見て、大智が不思議そうに目を丸くする。
「…えっといや、うん、僕も大智が好きだよ」
「ありがとう」
「私も好きです――!」
恥ずかしそうに言う鈴夜に乗っかった美音の溌剌とした声に、思わず笑いを噴き出してしまった。
その笑い声を聞いて、樹野も口元を押さえながら笑っていた。岳も樹野よりも更に堪えながら、でも笑っている。
そんな皆を見ながら、大智はまた笑顔を浮かべていた。
そこから溝は消えたのか、皆で他愛もない話を繰り返した。
岳は相変わらず会話には入らなかったが、楽しそうに聞いていた。
「てめぇ、こんな所で何してる!」
だが突如、扉の向こうから聞こえてきた怪訝な声に、4人は会話を止めてしまう。
その声に、美音除く三人は聞き覚えがあった。いや、よく知る声だ。
「…依仁君…?」
樹野は表情に影を浮かべながらも、ゆっくり椅子から立ち上がる。
「ご、御免なさい…!何も無いです…!」
扉向こうで何が起こっているのか分からないが、何かが起こっているのは確かだ。
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