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【2】
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◇
岳は、志喜の事を考えていた。最近の自分の脳内といえば、そればかりだ。
志喜の笑った顔を思い出して幸福感を感じたり、はたまた腕の事を考えて憂鬱になったり、彼に振り回されている気がする。
けれど、それさえも幸せだった。
けれど彼の家庭事情も知り、岳は純粋な気持ちで志喜と向き合えなくなっていた。
家庭で何があったかは分からない、でも不幸すぎるのだ、彼は。
不幸なのに、強すぎるのだ。
優しすぎて、自分と居る事で何時かまた不幸にしてしまわないか不安になる。折角時間をかけ手に入れた幸せを、手放させる破目になってしまわないか怖くなる。
岳は今までの数少ないメールを見て、久しぶりの涙を落とした。
◇
表面上だけの出来事を、歩に具体的に話した。出来るだけ分かりやすく、自分の見た物を身近に感じてもらえるように。
飛翔が怯えている理由についての見解は、勿論話さなかったが。
「…なるほど…」
歩は悩む。
歩は、昔の飛翔のみ存じていて、今の飛翔の詳しい状態を知っている訳ではない。
「…そうだな、私も行ってみようかな」
「…えっ」
「…私も彼の事が気にかかっていたんだ、だから行こうかと思って」
直接飛翔の状態を見れば、解決策は向こうから現れてくれるかもしれない、と歩は考えた。
「…でも…」
鈴夜は心配だった。隠していた裏側の事情を知ってしまうかもしれないし、光景を見た歩が傷つくかもしれない。
「きっと大丈夫だよ、彼にも心があるのだから」
窓の外、どこかを見据え微笑む歩は、心の底から解決を望み、その為に行動しようとしているのだとよく分かった。
「……ですよね」
歩の言葉の内に秘められた意味が伝わって来て、鈴夜は挫けそうな心を何とか立ち直らせた。
この間は酷く混乱していて、伝わらなかっただけかもしれない。疑わしくなる時もあるが、彼にも心はあるのだ、きっと伝わる日が来ると、歩は言ったに違いない。
「…もう一度行ってみます」
鈴夜の手の平は、汗ばんでいた。
もう一度あの光景を見てしまったら、聞いてもらえなかったら、考えるだけで怖い。
けれど、やっぱり彼も助けたい。
「…一人で?」
「…はい、飛翔君に伝えたい事があるんです、だから部屋には一人で…」
鈴夜は、何も問わない歩を強い視線で見詰める。
「…でも、近くまで付いて来て頂いて宜しいですか?」
「喜んで」
◇
明灯は入室して早々、勇之の首筋に火傷のような、けれど一本線の傷を見つけ、そこを指差した。
「どうしたの、そこ」
「えっ?」
勇之はコピーされてゆく原稿から視線を離し、反射的に首筋に触れた。宛がった手へと視線は向かっている。
作った時、痛みに気付いてはいたが、残っているとは思わなかった。他の同僚も一切指摘しなかったし。
明灯は自分の席に着き、パソコンの電源を入れた。
「何でもないよ、一寸切っただけ」
にっこりと作り笑う笑顔を一瞥して、明灯は即画面へと視線を落とす。
「変なところ切るね」
「まぁねー」
コピーが完了し、疎らに重なる書類を勇之は綺麗に束ねた。幾つかコピーした原稿を、机の上で何セットかに分け始める。
「それよりさ、明日は水無さんのところ行くの?」
「明日は行かないよ、なんで」
「ううん別に、思っただけ」
「そう、面倒な事しないでね」
こんな二人の会話が繰り広げられていても、同僚達は何一つ発言する事も眉を顰める事も無く、ただ淡々と仕事をこなしていた。
◇
淑瑠に電話をかけ用件を伝えると、鈴夜は歩と共に飛翔の居る病院へと向かった。
夕暮れの不気味な色の空を見て不安に駆られたが、指先が触れるほど近くで歩が寄り添っていてくれて、随分と緩和はした。
◇
淑瑠は切れた後も、携帯を見詰めていた。
あの後、鈴夜と歩が何を会話したかは分からないが、鈴夜の心持ちが良い方向へと変化したのは事実だ。
自分では中々鈴夜を楽にしてあげられないのに、その方法を必死に模索しても見つからないのに、歩は意とも簡単に鈴夜の心を救ってあげられる。
やっぱり歩には勝てないなと、淑瑠は壁にもたれながら静かに哂った。
◇
待合室に腰をかけた歩は、視線を鈴夜と重ねて強く微笑む。
「じゃあここにいるからな。大丈夫だよきっと、何があっても落ち込まないで」
大きな手の平で、何度か頭を撫でてくれた。
「………はい、行って来ます」
鈴夜は決意が維持している内にと、早足で部屋へと歩き出した。
緊張で鼓動が早くなる。だけど気持ちは変わらない。
心から許す事が出来たと言えば、それはやっぱり嘘になる。
でも、それでも、苦しんでいる飛翔を放っておく事は、自分をも苦しくするのだと気付いてしまったから。彼を救いたいと思ってしまったから。
「飛翔君!」
柚李と医師が、丸い目を二人して鈴夜へと向けた。
鈴夜が飛翔へと視線を向けると、そこには見慣れない光景があった。
両手足が、緩めにだが滑らかな紐で、ベッドの端に繋がれていたのだ。
一瞬で束縛しているのだと分かった。
飛翔は空ろな目を開き、辛そうに息をしている。弱く動く右腕には、点滴が繋がったままだ。
「な、何してるんですか…!」
「仕方が無いんだ!」
鈴夜が紐を解こうとすると同時に、声を張り上げたのは担当医だった。
鈴夜は硬直し、声を失う。
「…こうするしかないんです…仕方が無いんです」
そんな医師の目にも、罪悪感は揺れていた。本当は嫌なんだという、心の声が聞こえてくる。
「………悪夢でも見てるみたいに暴れるんですよ…それで点滴も外しちゃうし…まだ体も辛いはずなのにどこかに行こうともしちゃうんです……」
背後から聞こえて来た柚李の声色も、深い深い罪悪に呑まれていた。
「……だからってこんなの…可哀想ですよ…」
鈴夜はまた泣いてしまっていた。
紐に触れながらも指先を動かせない重圧感に、それぞれの葛藤に心が締め付けられる。沸き上がる涙で、目の前がぼやける。
雫が飛翔の頬に落ちた。その瞬間、動いていた腕が制止する。
「……………痛い、の…?」
鈴夜はすぐさま、腕で目元を浚った。
「…飛翔君…!」
目の前の飛翔は、鈴夜の存在を認識したのか、空ろながらも瞳を鈴夜へと向けていた。涙ぐむ鈴夜を、じっと見詰める。
「……………ごめん、ね…痛い事…して、ごめんね……すっごく…痛かったね……」
彼の後悔は尋常ではなかった。きっと悪夢を繰り返すようにして、あの日の光景に捕らわれていたのだろう。そうしてずっと、葛藤を続けていたのだろう。
「…………いいよ飛翔君…許してあげる……大智の分も僕が許してあげる…」
口元を吊り上げて、無理矢理微笑んでみせる。
それでも涙は止められなかった。ぼろぼろと零れ、飛翔の頬を伝い落ちる。
「……………ありがとう…」
その涙に、飛翔の目尻から落ちた雫も一緒になった。
柚李と医師は、聞いた事もない飛翔の発言に思わず目を見開いていた。
医師は涙し、柚李は濃く顔に影を浮かべる。
「…私、部屋…出ます…」
その声は、震えていた。
その後飛翔は、自然と眠りについた。その寝顔は、何度か見た中で一番安らかだった。
勿論、まだ体は辛そうだったが、それでも鈴夜は満たされた気持ちになった。
◇
後ろから名を呼ばれ振り向くと、目を晴らした鈴夜が歩いて来ていた。だが、その雰囲気は柔らかく、充足感に満ちている。
「…良かったな」
「…はい、どうもありがとうございました」
何も言わずとも大体の状況を読み取ってくれた歩に、鈴夜は深々とお辞儀をした。
歩が一緒になって考えようとしてくれなければ、こんな安心感は手に入らなかっただろう。
「いや、鈴夜くんが頑張ったからだよ、じゃあ帰ろうか」
「…はい」
鈴夜は、腫れぼったくなった瞼がまだ濡れている気がして、何度か浚いながらも歩の横に付き岐路を歩んだ。
足取りは、行きの道より大分軽く感じた。
◇
結局帰宅が夜になってしまい、淑瑠と鈴夜が対面する事は無かった。
携帯で電話がかかって来て、家に着いた報告と気持ちが伝えられたという喜びを耳にした。
淑瑠は、雰囲気だけでも悟れる程の喜びに安堵する。どんな形であれどんな流れであれ、鈴夜が笑ってくれればそれでいい。
例えそこに自分がいなくても、鈴夜が幸せになれるならば何でも良かった。
明日の朝、迎えに行く時間だけ確認し合い、電話を切った。
岳は、志喜の事を考えていた。最近の自分の脳内といえば、そればかりだ。
志喜の笑った顔を思い出して幸福感を感じたり、はたまた腕の事を考えて憂鬱になったり、彼に振り回されている気がする。
けれど、それさえも幸せだった。
けれど彼の家庭事情も知り、岳は純粋な気持ちで志喜と向き合えなくなっていた。
家庭で何があったかは分からない、でも不幸すぎるのだ、彼は。
不幸なのに、強すぎるのだ。
優しすぎて、自分と居る事で何時かまた不幸にしてしまわないか不安になる。折角時間をかけ手に入れた幸せを、手放させる破目になってしまわないか怖くなる。
岳は今までの数少ないメールを見て、久しぶりの涙を落とした。
◇
表面上だけの出来事を、歩に具体的に話した。出来るだけ分かりやすく、自分の見た物を身近に感じてもらえるように。
飛翔が怯えている理由についての見解は、勿論話さなかったが。
「…なるほど…」
歩は悩む。
歩は、昔の飛翔のみ存じていて、今の飛翔の詳しい状態を知っている訳ではない。
「…そうだな、私も行ってみようかな」
「…えっ」
「…私も彼の事が気にかかっていたんだ、だから行こうかと思って」
直接飛翔の状態を見れば、解決策は向こうから現れてくれるかもしれない、と歩は考えた。
「…でも…」
鈴夜は心配だった。隠していた裏側の事情を知ってしまうかもしれないし、光景を見た歩が傷つくかもしれない。
「きっと大丈夫だよ、彼にも心があるのだから」
窓の外、どこかを見据え微笑む歩は、心の底から解決を望み、その為に行動しようとしているのだとよく分かった。
「……ですよね」
歩の言葉の内に秘められた意味が伝わって来て、鈴夜は挫けそうな心を何とか立ち直らせた。
この間は酷く混乱していて、伝わらなかっただけかもしれない。疑わしくなる時もあるが、彼にも心はあるのだ、きっと伝わる日が来ると、歩は言ったに違いない。
「…もう一度行ってみます」
鈴夜の手の平は、汗ばんでいた。
もう一度あの光景を見てしまったら、聞いてもらえなかったら、考えるだけで怖い。
けれど、やっぱり彼も助けたい。
「…一人で?」
「…はい、飛翔君に伝えたい事があるんです、だから部屋には一人で…」
鈴夜は、何も問わない歩を強い視線で見詰める。
「…でも、近くまで付いて来て頂いて宜しいですか?」
「喜んで」
◇
明灯は入室して早々、勇之の首筋に火傷のような、けれど一本線の傷を見つけ、そこを指差した。
「どうしたの、そこ」
「えっ?」
勇之はコピーされてゆく原稿から視線を離し、反射的に首筋に触れた。宛がった手へと視線は向かっている。
作った時、痛みに気付いてはいたが、残っているとは思わなかった。他の同僚も一切指摘しなかったし。
明灯は自分の席に着き、パソコンの電源を入れた。
「何でもないよ、一寸切っただけ」
にっこりと作り笑う笑顔を一瞥して、明灯は即画面へと視線を落とす。
「変なところ切るね」
「まぁねー」
コピーが完了し、疎らに重なる書類を勇之は綺麗に束ねた。幾つかコピーした原稿を、机の上で何セットかに分け始める。
「それよりさ、明日は水無さんのところ行くの?」
「明日は行かないよ、なんで」
「ううん別に、思っただけ」
「そう、面倒な事しないでね」
こんな二人の会話が繰り広げられていても、同僚達は何一つ発言する事も眉を顰める事も無く、ただ淡々と仕事をこなしていた。
◇
淑瑠に電話をかけ用件を伝えると、鈴夜は歩と共に飛翔の居る病院へと向かった。
夕暮れの不気味な色の空を見て不安に駆られたが、指先が触れるほど近くで歩が寄り添っていてくれて、随分と緩和はした。
◇
淑瑠は切れた後も、携帯を見詰めていた。
あの後、鈴夜と歩が何を会話したかは分からないが、鈴夜の心持ちが良い方向へと変化したのは事実だ。
自分では中々鈴夜を楽にしてあげられないのに、その方法を必死に模索しても見つからないのに、歩は意とも簡単に鈴夜の心を救ってあげられる。
やっぱり歩には勝てないなと、淑瑠は壁にもたれながら静かに哂った。
◇
待合室に腰をかけた歩は、視線を鈴夜と重ねて強く微笑む。
「じゃあここにいるからな。大丈夫だよきっと、何があっても落ち込まないで」
大きな手の平で、何度か頭を撫でてくれた。
「………はい、行って来ます」
鈴夜は決意が維持している内にと、早足で部屋へと歩き出した。
緊張で鼓動が早くなる。だけど気持ちは変わらない。
心から許す事が出来たと言えば、それはやっぱり嘘になる。
でも、それでも、苦しんでいる飛翔を放っておく事は、自分をも苦しくするのだと気付いてしまったから。彼を救いたいと思ってしまったから。
「飛翔君!」
柚李と医師が、丸い目を二人して鈴夜へと向けた。
鈴夜が飛翔へと視線を向けると、そこには見慣れない光景があった。
両手足が、緩めにだが滑らかな紐で、ベッドの端に繋がれていたのだ。
一瞬で束縛しているのだと分かった。
飛翔は空ろな目を開き、辛そうに息をしている。弱く動く右腕には、点滴が繋がったままだ。
「な、何してるんですか…!」
「仕方が無いんだ!」
鈴夜が紐を解こうとすると同時に、声を張り上げたのは担当医だった。
鈴夜は硬直し、声を失う。
「…こうするしかないんです…仕方が無いんです」
そんな医師の目にも、罪悪感は揺れていた。本当は嫌なんだという、心の声が聞こえてくる。
「………悪夢でも見てるみたいに暴れるんですよ…それで点滴も外しちゃうし…まだ体も辛いはずなのにどこかに行こうともしちゃうんです……」
背後から聞こえて来た柚李の声色も、深い深い罪悪に呑まれていた。
「……だからってこんなの…可哀想ですよ…」
鈴夜はまた泣いてしまっていた。
紐に触れながらも指先を動かせない重圧感に、それぞれの葛藤に心が締め付けられる。沸き上がる涙で、目の前がぼやける。
雫が飛翔の頬に落ちた。その瞬間、動いていた腕が制止する。
「……………痛い、の…?」
鈴夜はすぐさま、腕で目元を浚った。
「…飛翔君…!」
目の前の飛翔は、鈴夜の存在を認識したのか、空ろながらも瞳を鈴夜へと向けていた。涙ぐむ鈴夜を、じっと見詰める。
「……………ごめん、ね…痛い事…して、ごめんね……すっごく…痛かったね……」
彼の後悔は尋常ではなかった。きっと悪夢を繰り返すようにして、あの日の光景に捕らわれていたのだろう。そうしてずっと、葛藤を続けていたのだろう。
「…………いいよ飛翔君…許してあげる……大智の分も僕が許してあげる…」
口元を吊り上げて、無理矢理微笑んでみせる。
それでも涙は止められなかった。ぼろぼろと零れ、飛翔の頬を伝い落ちる。
「……………ありがとう…」
その涙に、飛翔の目尻から落ちた雫も一緒になった。
柚李と医師は、聞いた事もない飛翔の発言に思わず目を見開いていた。
医師は涙し、柚李は濃く顔に影を浮かべる。
「…私、部屋…出ます…」
その声は、震えていた。
その後飛翔は、自然と眠りについた。その寝顔は、何度か見た中で一番安らかだった。
勿論、まだ体は辛そうだったが、それでも鈴夜は満たされた気持ちになった。
◇
後ろから名を呼ばれ振り向くと、目を晴らした鈴夜が歩いて来ていた。だが、その雰囲気は柔らかく、充足感に満ちている。
「…良かったな」
「…はい、どうもありがとうございました」
何も言わずとも大体の状況を読み取ってくれた歩に、鈴夜は深々とお辞儀をした。
歩が一緒になって考えようとしてくれなければ、こんな安心感は手に入らなかっただろう。
「いや、鈴夜くんが頑張ったからだよ、じゃあ帰ろうか」
「…はい」
鈴夜は、腫れぼったくなった瞼がまだ濡れている気がして、何度か浚いながらも歩の横に付き岐路を歩んだ。
足取りは、行きの道より大分軽く感じた。
◇
結局帰宅が夜になってしまい、淑瑠と鈴夜が対面する事は無かった。
携帯で電話がかかって来て、家に着いた報告と気持ちが伝えられたという喜びを耳にした。
淑瑠は、雰囲気だけでも悟れる程の喜びに安堵する。どんな形であれどんな流れであれ、鈴夜が笑ってくれればそれでいい。
例えそこに自分がいなくても、鈴夜が幸せになれるならば何でも良かった。
明日の朝、迎えに行く時間だけ確認し合い、電話を切った。
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