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「クリスはわかってくれたかい?」
父の穏やかな問いかけを合図に、ドロテアがアベルを揺り籠に下ろす。
新たな後継者が誕生し、城内には随所に揺り籠が設置された。待ち侘びた男児の後継者に、物心つく前から城内を把握させたいと父は言った。
この城はアベルのものだから、と。
「いいえ。お怒りも露わにお帰りになりました」
私の声は硬かった。
ドロテアが緊張を紛らわすようにドレスの裾を気にしてから父と目配せし、人の母親らしい優しい微笑みを浮かべる。
「そうか」
父は気にも留めていない様子で政務を続けながら、隠し切れない微笑みで口角を上げる。
娘の婚約者に据えていたサンドストレーム侯爵家の令息は、嫡子アベルの地位を脅かす存在ではない。その安堵が父を喜ばせている。
「サンドストレーム侯爵家から正式な手続きを以て婚約破棄なさるそうです」
「ふむ……」
「私は……」
問われる前からつい口にしていた。
今まで後継者としてあらゆる発言が許されてきたし、提言も受け入れられてきた。その経験は私をそう簡単に別人に変えたりしない。
父が手を止め、顔を上げる。
やっと私を見た。
婚約を破棄された、娘の私を。
「……」
労る様子も、慰める様子もない。
妻と死別した父にとって、婚約破棄という別離など取るに足らない別れなのだろう。
「なんだ」
問いかけた私に続きを促す声は、決して冷たくも威圧的でもない。
ただ、いつも通りの穏やかさが却って心をかき乱す。
「私は……どうしたら……?」
戸惑いを隠しきれず、私は尋ねた。
後継者ではなくなった私は、それならばと自身の意思で好き勝手できる立場の人間ではない。一人の侯爵令嬢として、父に指示を仰ぐのが正しい。
「ああ、それなら。丁度ドロテアとも話していたんだ」
「……?」
かすかな違和感の正体に、私は数秒遅れて気付く。
父が私の人生の舵を取るのは理解できる。けれど、そこに後妻であるドロテアの手が加わるのは、何やら耐え難いものがある。
受け入れるべきなのだろうか。
ドロテアは、確かにクルーム侯爵夫人だから……?
「フレデリカ。これまでよく頑張ってくれた。御苦労さま」
「え?」
ふいに投げ掛けられた労いにいささか唐突さと違和感を覚えながら、私の思考回路が急速にその役目を果たし始める。
一度壊れてしまった心が、新たな打撃を察してざわめく。
「年頃の令嬢として、かなり我慢する事も多かっただろう」
「今までお疲れ様」
ドロテアが包容力に満ちた落ち着いた声で私を労った。
その瞬間、全身から汗が噴き出した。
「娘よ。いい機会だからそろそろ羽を伸ばしたらどうだ」
「お父様……?」
「何年か旅行でも楽しんでおいで。国外のあらゆる文化を堪能してくるといい」
言葉を失う。
足の感覚が失せる。
体が冷える。
待ち侘びた男児の後継者が産まれたから、今まで後継者として育ててしまった私を厄介払いしたいのだ。
しかも何年か国外を回れと言う。次期侯爵であるアベルの成長や教育に一切私を関わらせたくない本心が透けて見える。
「……っ」
途方もない怒りで叫びそうになった。
けれど、私は堪えた。ここで取り乱しでもしようものなら、精神錯乱を理由に幽閉され兼ねない。そう瞬時に疑えるほどには、私は父に失望していた。
まさかドロテアはそれを狙って……
「……」
違う。
ドロテアは上品で優しい善良な未亡人だった。
父とは、心の傷を癒しあいながら愛を育んだ。
継母は、悪人ではない。
私は彼女の幸せを壊す悪魔になど、なりたくはない。
「……っ」
それでも……余りにも酷い。
私に統治するはずだった愛しい土地を離れ、何年も帰って来るなと言う。よくそんな提案ができたものだと思う。
領地を我が肉体と思い丁寧に管理せよと、教えたのはお父様でしょう?
領民を我が親族と思い丁重に導けと説いたのは、お父様だった……はずなのに。
私に全てを与え、それを奪う。
まるで残酷な神のように。
「旅行……」
私がやっとそれだけ呟くと、父は満足そうに破顔した。
「ああ。歴史や文化はお前の大好物だろう?」
「……」
事実だ。
父は私を理解している。
けれどそれは当然だった。
私をそう育てたのは父なのだ。
でも私の心までは理解していない。娘の心など、理解しようともしない。
私が喜ぶと思っているのだろうか。
『クルーム侯爵にならなくていいの?暇だわ。そうだ、旅行でもしましょう!楽しみ!!』
そう考えるのが、父が求める娘フレデリカなのだ。
「……」
父は、クルーム侯爵は、娘に旅をさせると決めた。
この決定は覆せない。
でも私の心までは支配できない。
私の心を愛の名の下に笑顔で握りつぶした父を、私は、憎みそうになっている。
たった一人の父に憎悪を向けるなんて、考えられない。信じられない。そんな自分にはなりたくない。
でも、お母様……
無理。
「なあ、フレデリカ。行っておいで」
この男はお母様と私より、ドロテアを選んだのよ。
もう愛せない。
父への憤怒と憎悪を認めてしまえば、後は楽なものだった。
私はクルーム侯爵夫妻に深く御辞儀して執務室を出た。それから早足で自室に向かう。
私を不要とする人々に身を捧げてはいけない。
私は、私を守らなくては。
その為には冷静な思考が不可欠だった。まだその準備はできていない。
まずは安全な寝室で、温もりを約束してくれるベッドで、思う存分泣かなくては。
母が生きていたら、泣きじゃくる私を優しく抱きしめてくれたはず。
その役目を引き継げるのは、この世界にもう私自身しかいないのだから。
認めるのさえ苦痛なこの絶望に私は数日、一人静かに悶え続けた。
その間に、父がしたのか、継母がしたのか定かではないけれど、国外を巡る私の長旅の準備が着々と進められていた。
アベルの鳴き声が、無邪気な笑い声が、私を冷酷な悪魔に変えていく。
それでも私は、もう、そんな自分を邪悪とは思わなかった。私は人として当然の感情に苛まれているに過ぎない。
クルーム侯爵は、娘を使い捨てにしたのだ。
亡き妻はどうだっただろう。
母は、本当に愛されていたのだろうか。
私を産んだ後、次の出産に耐え得るまでその肉体は回復していたのだろうか。
ドロテア。
あなたは本当に、善良な未亡人だったの?
「……見ているわ。ずっと。遠く離れても、ずっと。ずっと……」
長い旅の中、異国の地で倒れたりしない。
私は必ず帰って来る。
母の眠る、クルームの大地に。
父の穏やかな問いかけを合図に、ドロテアがアベルを揺り籠に下ろす。
新たな後継者が誕生し、城内には随所に揺り籠が設置された。待ち侘びた男児の後継者に、物心つく前から城内を把握させたいと父は言った。
この城はアベルのものだから、と。
「いいえ。お怒りも露わにお帰りになりました」
私の声は硬かった。
ドロテアが緊張を紛らわすようにドレスの裾を気にしてから父と目配せし、人の母親らしい優しい微笑みを浮かべる。
「そうか」
父は気にも留めていない様子で政務を続けながら、隠し切れない微笑みで口角を上げる。
娘の婚約者に据えていたサンドストレーム侯爵家の令息は、嫡子アベルの地位を脅かす存在ではない。その安堵が父を喜ばせている。
「サンドストレーム侯爵家から正式な手続きを以て婚約破棄なさるそうです」
「ふむ……」
「私は……」
問われる前からつい口にしていた。
今まで後継者としてあらゆる発言が許されてきたし、提言も受け入れられてきた。その経験は私をそう簡単に別人に変えたりしない。
父が手を止め、顔を上げる。
やっと私を見た。
婚約を破棄された、娘の私を。
「……」
労る様子も、慰める様子もない。
妻と死別した父にとって、婚約破棄という別離など取るに足らない別れなのだろう。
「なんだ」
問いかけた私に続きを促す声は、決して冷たくも威圧的でもない。
ただ、いつも通りの穏やかさが却って心をかき乱す。
「私は……どうしたら……?」
戸惑いを隠しきれず、私は尋ねた。
後継者ではなくなった私は、それならばと自身の意思で好き勝手できる立場の人間ではない。一人の侯爵令嬢として、父に指示を仰ぐのが正しい。
「ああ、それなら。丁度ドロテアとも話していたんだ」
「……?」
かすかな違和感の正体に、私は数秒遅れて気付く。
父が私の人生の舵を取るのは理解できる。けれど、そこに後妻であるドロテアの手が加わるのは、何やら耐え難いものがある。
受け入れるべきなのだろうか。
ドロテアは、確かにクルーム侯爵夫人だから……?
「フレデリカ。これまでよく頑張ってくれた。御苦労さま」
「え?」
ふいに投げ掛けられた労いにいささか唐突さと違和感を覚えながら、私の思考回路が急速にその役目を果たし始める。
一度壊れてしまった心が、新たな打撃を察してざわめく。
「年頃の令嬢として、かなり我慢する事も多かっただろう」
「今までお疲れ様」
ドロテアが包容力に満ちた落ち着いた声で私を労った。
その瞬間、全身から汗が噴き出した。
「娘よ。いい機会だからそろそろ羽を伸ばしたらどうだ」
「お父様……?」
「何年か旅行でも楽しんでおいで。国外のあらゆる文化を堪能してくるといい」
言葉を失う。
足の感覚が失せる。
体が冷える。
待ち侘びた男児の後継者が産まれたから、今まで後継者として育ててしまった私を厄介払いしたいのだ。
しかも何年か国外を回れと言う。次期侯爵であるアベルの成長や教育に一切私を関わらせたくない本心が透けて見える。
「……っ」
途方もない怒りで叫びそうになった。
けれど、私は堪えた。ここで取り乱しでもしようものなら、精神錯乱を理由に幽閉され兼ねない。そう瞬時に疑えるほどには、私は父に失望していた。
まさかドロテアはそれを狙って……
「……」
違う。
ドロテアは上品で優しい善良な未亡人だった。
父とは、心の傷を癒しあいながら愛を育んだ。
継母は、悪人ではない。
私は彼女の幸せを壊す悪魔になど、なりたくはない。
「……っ」
それでも……余りにも酷い。
私に統治するはずだった愛しい土地を離れ、何年も帰って来るなと言う。よくそんな提案ができたものだと思う。
領地を我が肉体と思い丁寧に管理せよと、教えたのはお父様でしょう?
領民を我が親族と思い丁重に導けと説いたのは、お父様だった……はずなのに。
私に全てを与え、それを奪う。
まるで残酷な神のように。
「旅行……」
私がやっとそれだけ呟くと、父は満足そうに破顔した。
「ああ。歴史や文化はお前の大好物だろう?」
「……」
事実だ。
父は私を理解している。
けれどそれは当然だった。
私をそう育てたのは父なのだ。
でも私の心までは理解していない。娘の心など、理解しようともしない。
私が喜ぶと思っているのだろうか。
『クルーム侯爵にならなくていいの?暇だわ。そうだ、旅行でもしましょう!楽しみ!!』
そう考えるのが、父が求める娘フレデリカなのだ。
「……」
父は、クルーム侯爵は、娘に旅をさせると決めた。
この決定は覆せない。
でも私の心までは支配できない。
私の心を愛の名の下に笑顔で握りつぶした父を、私は、憎みそうになっている。
たった一人の父に憎悪を向けるなんて、考えられない。信じられない。そんな自分にはなりたくない。
でも、お母様……
無理。
「なあ、フレデリカ。行っておいで」
この男はお母様と私より、ドロテアを選んだのよ。
もう愛せない。
父への憤怒と憎悪を認めてしまえば、後は楽なものだった。
私はクルーム侯爵夫妻に深く御辞儀して執務室を出た。それから早足で自室に向かう。
私を不要とする人々に身を捧げてはいけない。
私は、私を守らなくては。
その為には冷静な思考が不可欠だった。まだその準備はできていない。
まずは安全な寝室で、温もりを約束してくれるベッドで、思う存分泣かなくては。
母が生きていたら、泣きじゃくる私を優しく抱きしめてくれたはず。
その役目を引き継げるのは、この世界にもう私自身しかいないのだから。
認めるのさえ苦痛なこの絶望に私は数日、一人静かに悶え続けた。
その間に、父がしたのか、継母がしたのか定かではないけれど、国外を巡る私の長旅の準備が着々と進められていた。
アベルの鳴き声が、無邪気な笑い声が、私を冷酷な悪魔に変えていく。
それでも私は、もう、そんな自分を邪悪とは思わなかった。私は人として当然の感情に苛まれているに過ぎない。
クルーム侯爵は、娘を使い捨てにしたのだ。
亡き妻はどうだっただろう。
母は、本当に愛されていたのだろうか。
私を産んだ後、次の出産に耐え得るまでその肉体は回復していたのだろうか。
ドロテア。
あなたは本当に、善良な未亡人だったの?
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