可哀想なわたくしが、世界でいちばん可愛いのです!

希猫 ゆうみ

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31(リカルド)

彼女は、俺にとって太陽そのものだった。

商家の妾の子として生まれ、早々に母を亡くした俺は、文字通り薄汚い裏路地に棄てられた。五歳。寒い冬の夕方。雨が降っていた。灰色の雨が。

イモとキャベツと豆さえ食べていれば生きていける。
母はよく、そう言って笑っていた。

俺は母のよく歌ってくれた歌を口ずさみながら、残飯を漁り、生き延びていた。

ある日、大男が俺を持ち上げた。
幼かろうと人攫いや悪党にさらわれていく俺のような子どもがいるのを知っていた。俺は暴れたが、その大男は俺に言った。

「腹いっぱい飯を食わしてやるから、もっと歌え」

それがヘルゲ・バッティルとの出会いだった。
十歳年上のヘルゲは、今思えばあれは体の大きな少年なのだが、当時の俺にとっては恐ろしい大男に違いなかった。

俺は劇団であらゆる雑用をこなしながらじゃがいもを剥く仕事から始め、次第に端役をもらえるようになっていった。

その後、先にオペラ座に入ったヘルゲとは五年近く離れたが、思春期を迎え劣等感や葛藤は闘志に変容し、俺を突き動かした。

俺はヘルゲを追った。
ヘルゲは既に、若手バリトン歌手として地位を築いていた。
当時の俺は思い出の中の母に似た中世的な少年だったので、それまでメゾソプラノが担っていた子供役や少年役を奪い取り、妬み嫉み恨み憎しみと見合う爆発的な人気を得た。

だが、夢はある日、突如として終わりを告げる。

声変わりと共に再び雑用係に転落した俺は絶望した。
恵まれた体躯と声で励ましてくるヘルゲを殺したくなったのも一度や二度ではなかった。だがヘルゲが恩人であり友人であり、精神的には兄であり、父でもあることを俺は忘れなかった。俺は耐えた。

辛い変声期を乗り越え、俺はテノール歌手として再び舞台に立った。
明らかに目に映る世界が変わり、俺は驚いた。俺は歌う事で金を稼ぎ、名声を得て、その代わり愛情を求められる立場になっていた。

ヘルゲは大人の恋だと吹いて上手くやっていたが、俺は生理的嫌悪感からパトロンを名乗り出た人間の手をひたすら無視し続けた。

この身を切り売りし、ぼろぼろになって棄てられる。
母のように。
そんなのは耐えられない。

俺の人気はシーズン毎に目に見えて落ちて行った。
ただ、純粋に俺の歌を楽しんでくれる層や、子役時代から成長や変化を見届け勝手に親心が芽生えている層に支えられ、テノールの二番手に食らいつくことができていた。

そんな時、彼女が俺の人生に現れた。

大きな瞳を星のように輝かせ、頬を薔薇色に染めたその貴族令嬢は、まっすぐに俺を見つめていた。
一目で恋に落ちた。
だが、身分違いにも程がある。

俺は、初めてパトロンの手を取った。
小さく、柔らかな、少し冷たい綺麗な手を。

勘違いしてはいけない。
俺は彼女の玩具なんだ。

思い上がってはいけない。
俺は、彼女が飽きれば捨てられる存在だ。

侯爵令嬢の火遊び。
俺はそう自分に言い聞かせていた。

だがダニエラはあまりにも純真無垢な愛情を俺にぶつけた。
それはまるで世の中の汚い部分を知らずに育った幸せな箱入り娘そのものだった。

彼女が母親を亡くしていると知った時、俺の心は、静かに溶けた。

彼女が宝石なら、俺は腐り損ねたじゃがいもだった。
それでも、一人の男として彼女への気持ちに応えた時、俺はやっと、人間になったのだ。

俺は二番手のテノール歌手で、彼女は俺のパトロン。
それが現実であり、守るべき体裁だ。

だが幕は下りる。
二人きりの時間、俺たちは互いの人生という舞台から降り、分厚い化粧を落とし、裸になり、心ひとつの人間に戻るのだ。

そうして世界に向かって嘘を吐き続ける人生だとしても、愛に生きた。
死ぬとき、それだけわかっていればいい。

「リカルド……愛してる……愛しているわ……」

可哀想なダニエラ。
高貴な血筋に生まれたお嬢様のくせに、俺との運命を神に押しつけられた、可愛い、愛しい、俺だけのダニエラ。

もし、彼女の夫が俺との関係を知り正気を失ったら、俺はこの命を差し出そう。
俺が犯し、脅し、操り、甘い汁を散々吸い取って嘲笑ったのだと、言ってやろう。

俺の太陽。
輝かしいその炎に焼かれ、灰になり死にたい。

「ダニエラ様……ダニエラ……」
「リカルド……」

彼女の産んだ三人の令息たちが、ブロムダール侯爵に似ているようにも見えて、俺に似ているようにも見えるようになった頃、俺はやっと、ダニエラの覚悟を知った。

俺の太陽。
太陽の女神、ダニエラ。

愛の翼に抱かれ飛ぶ空は、何処までも青く、清く、美しい。
この愛は信仰に似ていると気づいた年の夏、俺は声を失った。
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