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ブロムダール侯領の南部にアカデミーを建てて良かったと思う理由はいくつかある。
一つは勿論、私の愛する夫ヴィルヘルム殿下に永続的な健康体を担保できる優秀な人材を、継続的に量産できる点。
更に複利的な意味で、幸運にも評判がよく、諸侯からの寄付や国内外の王侯貴族からも学びを欲する人物が現れ、潤沢な資金を蓄えられた点。
これにより、北の薬草園で生まれる余剰分の薬剤が、徐々に特産品として認知されて莫大な利益を産み始めたのも良かった。
何より、私のかつての婚約者であった現ブロムダール侯爵のもとに寝泊まりせず、アカデミーの貴賓室で長期滞在を賄える。これが大きい。
「ヴィル。どうしてもこの目で確認したいの」
「だから私も同行すると何度も」
「いいえ。薬草園は寒いのよ。駄目。絶対に駄目です」
「君のおかげでこんなに元気になったのに?」
「寒いと気管が絞まるのよ。それに喉の免疫力が落ちて、うっかり花粉に冒されでもしたら、咳が止まらなくなって、せっかくよくなったのにまた……」
「大丈夫だよ、フレデリカ。私はもう血を吐いたりしない」
「口ではなんとでも仰せられます。はい、承知しております」
「私は確かに口だけ達者で肉体は微妙という半生を生きてきたが、それも君のおかげで今では……、……むむ」
「……?」
「君のおかげですっかり元気になり、口が達者なだけの愛妻家になった」
「よかったです」
私は愛しい夫の厚い胸板をそっと叩き、その肉厚で確かな存在にうっとりしながら満面の笑みで告げた。
「トーシュ公爵にもできるお仕事を、留守の間にお願いしますね」
「わかった。已む無しだな」
「いけません、閣下。私の領地経営に無駄などありません。大事なお仕事です」
「君と離れ離れになる数日間も、私の立場を考えれば已む無しという意味だよ」
「そうでしたか」
「ああ。君は素晴らしい女領主だ。駄々をこねてすまなかったね。君の留守を、きちんと守ってみせるよ」
「はい。お願いいたします」
「行っておいで。私の大切な、可愛いマダム・トーシュ」
ここでファルクの視線に耐えられなくなり、私は夫の抱擁から素早く抜け出した。
自分の頬が火照っているのもさることながら、このままだと人前で熱いキスをされそうだった。
「行ってきます」
だから私から、唇に軽いキスを。
一瞬、潤んだような目をすっと細めたヴィルヘルム殿下が、大きな掌で私の頬を包み込んだ。そして結局、長く甘いキスにこちらがうっとりさせられてしまう。
私がしっかりしないと。
いつまでもいつまでも、別れを惜しんで、更に離れ難くなって、出立を延ばしてしまいかねない。
「君から……」
低く囁かれた。
「でないと、閉じ込めてしまう」
何処に?
アカデミーの貴賓室?
それは、そこまでロマンチックではない。
「愛しています、私の閣下」
私は今度こそ逞しい夫の胸を押して身を離し、小走りで待たせていた馬車に向かった。
厳めしい顔つきで無意味にカフスを直していたファルクの隣で、アマンダが憤慨していた。
「御子様がいらっしゃらないから、いつまでもいつまでも新婚気取りで、本当にまったく、結構なことですね」
アマンダは三度の出産を経て、すっかり一人の母親になっていた。
もはや、私の母親代わりでさえあると感じる瞬間も多くなっている。一途に愛してくれる夫に加え、母のように心から頼れる上で甘えられる女性もいて、私は今、最高に幸せだった。
「アマンダ。殿下を頼むぞ」
ファルクはヴィルヘルム殿下が健康で幸せなのを心底喜んでいて私たちに甘いので、どれだけ待たせようと咎められることはない。
私はアマンダの頬にキスをして、暫しの別れの挨拶とした。
ヴィルヘルム殿下という夫とキスしたばかりだったので、アマンダに頬を拭かせてしまった。
「行きましょう」
私はファルクを促した。
今回、薬草園訪問にはアマンダではなくファルクを伴うことになっていた。
私自身が薬草や調合の知識を深め薬師の手解きを受けるにあたり、アマンダは兄であるジョアン・ファルクの方が教師に適している上、薬草園の男たちに好かれていると主張したからだ。
でも実は、彼女がアカデミーに残りたい本当の理由に、私は気付いていた。
せっかくアカデミーを建てるのならば、あらゆる分野を学べる方が良いのは当然だ。
医学や薬学に留まらず、歴史や自然哲学や錬金術、そして文学や芸術も学べる、充実した学問の都にしたかった。
特にブロムダール侯爵家は元来、かなりの芸術愛好家で知られていた。現ブロムダール侯爵の趣味や教養がどうであれ、ブロムダール侯爵領の中心には芸術の都が既にあったのだ。
アマンダの推薦により、私は一人の元テノール歌手オルソンを芸術学科の教員として採用していた。不幸な病によって声を失い歌手生命は断たれたものの、この人物は人当たりがよく教育熱心で評判も良い。
彼の講義で頻繁にゲストとして実演講習するバリトン歌手を、アマンダはこよなく愛好しているのだった。
確かに数年前までリカルド・オルソンとヘルゲ・バッティルのコンビは人気を博していた。アマンダが心酔してしまうのも無理はない。
今回の滞在では、ヘルゲ・バッティルを正式なアカデミーの教員として迎えたい旨を、トーシュ公爵の口から伝えてもらう。
私の誘いは飄々と受け流してきたヘルゲ・バッティルも、トーシュ公爵であると同時にアライアンス王国第三王子であるヴィルヘルム殿下直々のお誘いとあれば、快く引き受けてくれるだろう。
リカルド・オルソンとヘルゲ・バッティルのコンビには文化的価値がある。
片方は未だ現役だとしても、このコンビが再び冠を掲げ後進の育成にあたる事は、文化の発展を力強く後押ししてくれるはずだ。
そういうわけで、アマンダがヴィルヘルム殿下とお留守番なのである。
「この手で茸リゾットを作れるようになりたいわ」
湿地帯で栽培した大切な茸たちは、現地の他、薬草園でも加工と調合を行っていた。その方が保存が利く上、管理も楽だった。
癖のない味だとしても、ペースト状にした茸を一日中なめているのではあまりに味気ない。現在、愛の名の下にトーシュ公爵家では多種多様な茸料理を嗜んでいる。
「まずはスープからでしょう。妃殿下にリゾットはまだ早いかと」
「がんばるわ。あなたを信じる」
こうして私はファルクと二人、薬草園へと馬車を走らせた。
そこであのような事件が起きるとは、この時、予想もしていなかった。
一つは勿論、私の愛する夫ヴィルヘルム殿下に永続的な健康体を担保できる優秀な人材を、継続的に量産できる点。
更に複利的な意味で、幸運にも評判がよく、諸侯からの寄付や国内外の王侯貴族からも学びを欲する人物が現れ、潤沢な資金を蓄えられた点。
これにより、北の薬草園で生まれる余剰分の薬剤が、徐々に特産品として認知されて莫大な利益を産み始めたのも良かった。
何より、私のかつての婚約者であった現ブロムダール侯爵のもとに寝泊まりせず、アカデミーの貴賓室で長期滞在を賄える。これが大きい。
「ヴィル。どうしてもこの目で確認したいの」
「だから私も同行すると何度も」
「いいえ。薬草園は寒いのよ。駄目。絶対に駄目です」
「君のおかげでこんなに元気になったのに?」
「寒いと気管が絞まるのよ。それに喉の免疫力が落ちて、うっかり花粉に冒されでもしたら、咳が止まらなくなって、せっかくよくなったのにまた……」
「大丈夫だよ、フレデリカ。私はもう血を吐いたりしない」
「口ではなんとでも仰せられます。はい、承知しております」
「私は確かに口だけ達者で肉体は微妙という半生を生きてきたが、それも君のおかげで今では……、……むむ」
「……?」
「君のおかげですっかり元気になり、口が達者なだけの愛妻家になった」
「よかったです」
私は愛しい夫の厚い胸板をそっと叩き、その肉厚で確かな存在にうっとりしながら満面の笑みで告げた。
「トーシュ公爵にもできるお仕事を、留守の間にお願いしますね」
「わかった。已む無しだな」
「いけません、閣下。私の領地経営に無駄などありません。大事なお仕事です」
「君と離れ離れになる数日間も、私の立場を考えれば已む無しという意味だよ」
「そうでしたか」
「ああ。君は素晴らしい女領主だ。駄々をこねてすまなかったね。君の留守を、きちんと守ってみせるよ」
「はい。お願いいたします」
「行っておいで。私の大切な、可愛いマダム・トーシュ」
ここでファルクの視線に耐えられなくなり、私は夫の抱擁から素早く抜け出した。
自分の頬が火照っているのもさることながら、このままだと人前で熱いキスをされそうだった。
「行ってきます」
だから私から、唇に軽いキスを。
一瞬、潤んだような目をすっと細めたヴィルヘルム殿下が、大きな掌で私の頬を包み込んだ。そして結局、長く甘いキスにこちらがうっとりさせられてしまう。
私がしっかりしないと。
いつまでもいつまでも、別れを惜しんで、更に離れ難くなって、出立を延ばしてしまいかねない。
「君から……」
低く囁かれた。
「でないと、閉じ込めてしまう」
何処に?
アカデミーの貴賓室?
それは、そこまでロマンチックではない。
「愛しています、私の閣下」
私は今度こそ逞しい夫の胸を押して身を離し、小走りで待たせていた馬車に向かった。
厳めしい顔つきで無意味にカフスを直していたファルクの隣で、アマンダが憤慨していた。
「御子様がいらっしゃらないから、いつまでもいつまでも新婚気取りで、本当にまったく、結構なことですね」
アマンダは三度の出産を経て、すっかり一人の母親になっていた。
もはや、私の母親代わりでさえあると感じる瞬間も多くなっている。一途に愛してくれる夫に加え、母のように心から頼れる上で甘えられる女性もいて、私は今、最高に幸せだった。
「アマンダ。殿下を頼むぞ」
ファルクはヴィルヘルム殿下が健康で幸せなのを心底喜んでいて私たちに甘いので、どれだけ待たせようと咎められることはない。
私はアマンダの頬にキスをして、暫しの別れの挨拶とした。
ヴィルヘルム殿下という夫とキスしたばかりだったので、アマンダに頬を拭かせてしまった。
「行きましょう」
私はファルクを促した。
今回、薬草園訪問にはアマンダではなくファルクを伴うことになっていた。
私自身が薬草や調合の知識を深め薬師の手解きを受けるにあたり、アマンダは兄であるジョアン・ファルクの方が教師に適している上、薬草園の男たちに好かれていると主張したからだ。
でも実は、彼女がアカデミーに残りたい本当の理由に、私は気付いていた。
せっかくアカデミーを建てるのならば、あらゆる分野を学べる方が良いのは当然だ。
医学や薬学に留まらず、歴史や自然哲学や錬金術、そして文学や芸術も学べる、充実した学問の都にしたかった。
特にブロムダール侯爵家は元来、かなりの芸術愛好家で知られていた。現ブロムダール侯爵の趣味や教養がどうであれ、ブロムダール侯爵領の中心には芸術の都が既にあったのだ。
アマンダの推薦により、私は一人の元テノール歌手オルソンを芸術学科の教員として採用していた。不幸な病によって声を失い歌手生命は断たれたものの、この人物は人当たりがよく教育熱心で評判も良い。
彼の講義で頻繁にゲストとして実演講習するバリトン歌手を、アマンダはこよなく愛好しているのだった。
確かに数年前までリカルド・オルソンとヘルゲ・バッティルのコンビは人気を博していた。アマンダが心酔してしまうのも無理はない。
今回の滞在では、ヘルゲ・バッティルを正式なアカデミーの教員として迎えたい旨を、トーシュ公爵の口から伝えてもらう。
私の誘いは飄々と受け流してきたヘルゲ・バッティルも、トーシュ公爵であると同時にアライアンス王国第三王子であるヴィルヘルム殿下直々のお誘いとあれば、快く引き受けてくれるだろう。
リカルド・オルソンとヘルゲ・バッティルのコンビには文化的価値がある。
片方は未だ現役だとしても、このコンビが再び冠を掲げ後進の育成にあたる事は、文化の発展を力強く後押ししてくれるはずだ。
そういうわけで、アマンダがヴィルヘルム殿下とお留守番なのである。
「この手で茸リゾットを作れるようになりたいわ」
湿地帯で栽培した大切な茸たちは、現地の他、薬草園でも加工と調合を行っていた。その方が保存が利く上、管理も楽だった。
癖のない味だとしても、ペースト状にした茸を一日中なめているのではあまりに味気ない。現在、愛の名の下にトーシュ公爵家では多種多様な茸料理を嗜んでいる。
「まずはスープからでしょう。妃殿下にリゾットはまだ早いかと」
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