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14(ジェイド)

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声を堪え泣く姿に酷く胸が痛みながらも、私はスノウの肩から手を離した。
女性の手とはいえ棒で叩かれては無傷ではいられないはずであり、顔を庇っていたからには腕や上半身を負傷した可能性が極めて高い。
私の手が追い打ちをかけてしまったらと思うと居た堪れなかった。

「……っ」
「スノウ。大丈夫、もう行ってしまいましたから」

肩を揺らし、顔を覆い、スノウは声もなく震えて泣いている。
私は重要なことを伝え忘れていたと思い当たり、慌てて付け加えた。

「彼女たちの嘘を真に受けたりしませんよ。辛かったですね。ここまで酷いとは……」

当初案じた通りの惨状だと明け透けに言う訳にもいかない。
必死で泣き止もうとする意志を尊重し、私は過度に慰めはせずスノウが落ち着くのを待った。耐え忍び生き延びてきたスノウの半生を思うと胸を掻き毟りたくなるほど辛い。

これ程までに心を掻き立てられるのは、不義の子として虐げられた幼い頃の記憶が共鳴しているせいだろう。

それでも私は男で、スノウはか弱い女性だ。
私より過酷な境遇を生きたスノウの心身の傷を想像すると、胸が張り裂けそうになる。

併し、彼女は目の前に立っている。
確かに生き延びたことを軽んじてはいけない。

「あなたが落ち着いたら行きましょう。私も一緒に、レディ・スカーレイに見たままを説明します」

本来はそのような時間さえ惜しいのだが、とても放っておけない。
絶対的な庇護者であるセシア伯爵令嬢とて四六時中スノウの傍にいるわけにもいかないというのは、当然といえば当然である。更に、絶対的権威を誇るフローラ姫などは八才だ。先日の様子からすっかり安全圏だと思い込んだ私が浅はかだった。

泣き濡れた頬を拭うと、スノウは比較的しっかりした口調でまず私に詫びた。

「ごめんなさい」
「……」

居た堪れない。

「いいんですよ。偶然通りかかって、寧ろよかった」
「ありがとうございます……っ。もう、平気です」

スノウは傍に立つ私の体を押し退けるような手振りで数歩後ずさり、無理に笑顔を浮かべた。

「お仕事のお邪魔をしてしまい、本当に、私……ごめんなさい」

まさか、私の笑顔で過ごしてほしいという発言のせいで無理に笑わせているのだろうか。
それとも過酷な半生が彼女に痛みの最中でさえ笑顔を強いているのだろうか。

「……」

私の中にスノウを亡命させるという計画が漠然と芽生えたのはこの時だった。

新たな人生を始めたらいいのではないか。
言葉や習慣などの苦労は、現状の迫害に比べれば努力で解決する課題に過ぎない。

併し、いくら建設的に思えようと所詮は他人事であり、重要なのはスノウにその意志があるかないかだと私も理解している。

少しずつ心を開かせ、そのように促すことはできるだろうか……

密命を全うする為に足繁くスノウの周辺へ通わなければいけないのは事実であり、スノウの傍で待っていればヴィクター・ストールの方から現れるのは確かだ。受け身ではあるが、縁も所縁もない私がひたすら赤子一直線に詰め寄れるわけもない。

スノウを利用する形にはなるが、極めて私的な警護をするのに打って付けな口実ではないだろうか。私がスノウに惹かれている男かのように装えばセシア伯爵令嬢の目も幾分欺けるに違いない。

そんなことを考えていた私にスノウは心細そうな笑顔で首を振った。心を読んだわけではない。何か伝えたいのだろう。
涙に濡れた睫毛が昼下がりの陽を浴びて雪のように煌めく。
息を呑むほど美しい。

「スカーレイ様はいらっしゃいません」
「……え?」

聞き捨てならない発言だった。
セシア伯爵令嬢は任務遂行に於いて障害ではあるものの、スノウの庇護者としてできるだけ長く君臨し続けてもらわなければならない重要人物だ。

話が違うではないか。
何故スノウを猛獣の檻に残して外出している?

「お出かけですか?」

私は世間話程度に留めつつ探りを入れる。

「はい」

スノウは少し寂しそうな表情を見せた。感じるのは危機感ではなく寂しさなのかと衝撃を受ける。

「セシア伯爵がお倒れになったとのことで、今朝早くお帰りになりました」

あなたを置いて?
とは、さすがに訊けない。

「そうですか……」
「急なことなので……深刻な御病気でなければいいのですが……」

スノウの涙は止まっていた。どうやら本気でセシア伯爵の体調を心配しているらしいと表情から察することができる。私はその純真さに心打たれた。

併し、セシア伯爵令嬢の不在が忽ちスノウを苦境に陥れた事実は看過できない。

「授業は暫くお休みですか?」
「はい」
「フローラ殿下もお心を痛めておいででしょう」
「……」

スノウが微かに優しい笑みを浮かべる。

私も思い当たる節があった。
あの気性の荒い八才のフローラ姫が心優しく家庭教師の父親の体調を気遣うとはなかなか考え難い。案外、子どもらしく自由を満喫しているかもしれない。

私は本題に戻した。
フローラ姫の教育について、そこまで興味はない。

「併し、あなたが心配です。ちょうど授業もお休みということであれば、婚約者殿のもとに身を寄せては如何ですか?」

至極真っ当な提案であるはずだった。
ところがスノウは表情を曇らせる。無理もない。スノウの立場からすれば、婚約者が相談もなく突如として養子を取ったのだ。女性でなくても婚約者にそのような勝手な振る舞いをされては心境は複雑極まるはずである。単純に酷い話だ。

総帥は傲慢な男の身勝手な決断とは考えていない。
だが、それはスノウには関係ない。

「……」

関係ないといい。
私はそう願う自分に気づいていた。

「難しいですか?その、お子様が……」
「……」
「私が進言しましょうか?セシア伯爵令嬢が御不在ならば先程のことを報告する相手もストール卿ということになりますし」
「……」
「私もそろそろご本人に総帥のお祝いを伝えないといけないですし、実のところ、あなたに取り次いでいただければ助かります」
「ごめんなさい。私も、新居がどこか、まだ知らなくて……」
「……はい?」

うしろめたい感情を否めない交渉の中で、私はその瞬間、怒りを覚えた。

総帥の考えるようにセシア伯爵令嬢とヴィクター・ストールにスノウが匿われているのは事実だろう。だから本来の意味での純粋な婚約者ではないかもしれないと思わなくもない。

併し、あまりにも疎かにされ過ぎている。
仮初の婚約だとしても、公にしたのであればもう少し大切にするべきではないだろうか。せめてその姿勢を示すべきである。これではまるで、軽んじてもいい相手という認識で形ばかりの妻を娶ろうとしているように見えてしまう。
それは、他者にスノウを虐げる理由を与える。

男としてヴィクター・ストールの無責任な振る舞いは目に余る。

密命を帯びた我が身を棚に上げ、私は一人静かに怒りを燻ぶらせた。
私はスノウに自身を偽っている。騙している。それでも、私の方が何倍もスノウを慮っていると思わずにはいられない。

何処か遠くへ……

「ジェイド」

スノウが私を呼んだ。

「お役に立てなくて、ごめんなさい」

頼りない微笑みで私を見つめ、それから力無く頭を下げる。
あまりにも可哀相で、私はスノウを抱きしめたい衝動に駆られた。叶うならばそのまま連れ去りたい。無論、それはできない。
私は拳を握りしめ、努めて穏やかな声でスノウを諭した。

「私が婚約者殿を説得します。それまで部屋に篭り身の安全を確保してください。今日、話をつけますよ。これからすぐに」
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