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ゆるく結い上げた髪は外套のフードで隠れてしまうし、月の光だけでは瞳の色も目立たない。
静かな秋の夜は肌寒いはずなのに、ジェイドと並んで歩いていると体の芯からぽかぽかと心地よい熱が全身に広がって、まるで溶かされるような錯覚に陥った。

「この辺りは軍関係者の居住区ですから、珍しいでしょう」

ジェイドが穏やかに問いかけてくる。
石畳が月の光を白く弾き街全体を幻想的に浮かび上がらせているが、もしかすると昼は殺風景な印象を受けるかもしれない。

「はい」

私の見て来た景色など本当に極限られたものだ。
私一人では瞼を閉じなければならない程の惨状が広がっていただろう。〝罪の子〟として蔑まれてきたとはいえ、常に誰かに従属し生き永らえて来た。

いつだって相手の与えてくれる景色を見ている。
従属する相手の見せたい景色が私の全てだ。

ジェイドは他の誰とも違った。
彼は私を所有しているわけではない。

「ジェイドは、どうして軍人になったの?」

私と似ている。
程度の差はあれど、ジェイドは国軍に従属し、所有されている人間だ。

ジェイドはどんな景色を見てこれまで生きて来たのか、無性にそれが知りたくなった。

月灯りの下でジェイドが笑みを深めた。

「母が軍人の娘だったからですよ」
「お母様が……?」
「ええ。マーレエル伯爵は私の母方の祖父と付き合いがあったようです。既に二人の子息を成した後で、私の母と恋愛していたようですね」
「そうなの……では、御爺様の影響なのね」

自分で選んだ道ではないのかもしれない。

「そうですね。軍人の家に生まれた私生児ですから、他は選べませんし」
「御爺様は今も?」
「いえ、十年……十二年前に死にました」

十二年前というと、私はハレムの下働きをしていた頃だが、少なくとも戦争はしていなかった。

「老衰です」

ジェイドは年数が経っているからなのか特別な感情を含まず世間話の口調のままだったが、そこで急に軽やかな笑顔になった。

「特に病気も抱えていなかったようなので、上手くいけば私も健康体のまま老いてぽっくり逝けるかもしれません」
「……」
「マーレエル伯爵家も病気や疾患の噂は聞かないし、二人の異母兄に殺されなければいけますね」

穏やかな老後を迎えるのが夢ということらしい。

私は、老後といえる頃まで生きていられるだろうか。
今は〝罪の子〟として蔑まれるだけで済んでいるが、国王か神官だけではなく世の中そのものが私の存在を葬ろうと思えば簡単に捕らえられて処刑されるだろう。

もしそうなっても、ジェイドが穏やかな老後を迎えられたら嬉しい。
ジェイドの幸せを願うだけで人生が少しだけ意味のあるものになったような気がして、嬉しくなった私は美しい夜空を見上げ笑顔を浮かべていた。

「あなたは、どんな最期を迎えたいですか?」
「……」

夜空から目を移すと、誠実そうな微笑みでジェイドが私を見つめていた。

「できるだけ痛くない最期を……」

常々願っていたことだったせいか、するりと口を突いて出る。普通こんなことを人に言えないはずだが、ジェイドは軍人なのであまり気にならなかった。

「そうですね」

このように理解を示してくれる。
他者の痛みに同情する優しい苦悶の表情を浮かべて、ジェイドは暫し無言で歩いた。

どこへ向かっているのだろう。

たまに軍人風の男性とすれ違うが、日中や宮殿で人目に晒される時よりその一瞥は優しい。
軍人というのは感情を表に出さないものなのだろうか。あっさりした視線には私が浴びるはずの侮蔑や嫌悪が全く込められていなかった。単なる女連れだと思われているのかもしれない。

普通の女。

私が望んでも手に入らなかったその地位が、時間が、ほんの一瞬、私を無防備にした。

「結婚しても幸せにはならないわ」

本音が洩れる。
ジェイドは思いやりの篭った眼差しを私に注ぐ。

「スノウ……」
「もし、私がヴィクター様の子を身籠ったら……喜ばれるとは思わないの。産ませて貰えてもお産は命懸けだからそこで苦しみ抜いて死ぬかもしれない。運よくお産がうまくいっても、弱って死ぬかもしれない。そうなったら〝罪の子〟の血を引く子はどうなるの?」

誰かに聞かせていい話ではない。
私の心の内なんて、きっと、ジェイドも聞きたくないはず。

そう理性が叫んでも、私は感情の吐露をやめられない。

「可哀相。二人とも運よく生き延びたって、生きることが辛いのは私がよく知ってるもの。……私、ヴィクター様の子を身籠りたくない」

相手がジェイドでなければ、この発言一つで処刑されてもおかしくはない。間違いなく折檻や拷問を受けるはずだ。

私はジェイドを信頼していると言えるほど、彼を知らない。
だからこれは信頼ではなく、感情や本能だった。

ジェイドは恐くない。

「婚約を解消してくれればいいですね」

力無く呟いたのは私ではなくジェイドの方だった。
私は心が伝わったのが嬉しくて微笑んだ。

「スカーレイ様がきつく意見してくださっても駄目だったわ」
「ストール卿は何故あなたと結婚したがるのでしょう。お会いしましたが絶対にあなたを愛していません」

人のいい真面目な表情で断言されると、ショックより若干の面白さを感じてしまう。私は気楽に応じた。

「うぅ……珍しいのかしら。一応、世界に一人だけの〝罪の子〟だから……」
「あなたにはそもそも拒否権がなかったんですね。酷いな」
「誰として生まれるか自分では決められない。あなたもよくわかっているでしょう?」

深い意味を込めたわけではない。当たり前であり、この件についてジェイドは生まれながらにしての理解者だから言った。

併し、ジェイドの口から返された言葉は私の理解を越えていた。

「でも、誰として生きるかはあなたにも決められる」

言葉を失った。

「ルビーではなくスノウとして生きることを選んだのでしょう?」

息さえ忘れる。

「だったら、もう一度選べませんか?ストール卿の婚約者ではなく、誰にも縛られない一人の人間として、誰もあなたを知らない土地で……」
「やめて、ジェイド」

私は足を止めた。
この先へは行けない。行ってはいけない。

「そんなことできない。私には、できないのよ」
「国や時代が違えばあなたは〝罪の子〟ではなかったはずです」
「でも今生まれ、ここで生きているの」
「だから何処か別の場所で」
「何処へ?私が逃げられると思う?」
「私が力になります」

その瞬間、夜は世界から切り離された。

星空と月を背負いジェイドは真剣な眼差しで私を見つめる。彼が嘘や冗談の上手い性格ではないことは、この数日に少し接しただけでも明らかだ。

ジェイドは誠実だから、優しいから、本気でそう思ってしまったようだった。

堅実な軍人の人生を歪めてはいけない。
大切なジェイドだからこそ、これ以上、〝罪の子〟である私に向かせてはいけない。

「……」

だからと言って、初めて出会えた優しい友の手を離せるほど私は強くない。

「ジェイド、ありがとう。でも」

私は再び微笑んでその優しい軍人の誠実で必死そうな顔を見上げると、そっと腕を掴んだ。……掴もうとした。
優しく物腰の穏やかなジェイドでも、やはり軍人なのだ。軍服の下に屈強な肉体が隠れており、私の手ではその鉄槌のような硬く太い腕を掴むなどということは到底できなかった。

腕の辺りに触れている私の手をジェイドがそっと包み込む。

「……」

あたたかい。
優しくあたたかな手が、私の罪深く小さな手を覆っている。まるで守られているみたいな感覚に切なくなる。

「何処にもいけないの。私は〝罪の子〟だから」
「いつ、あなたが罪を犯しましたか?」

それを聞かれると辛い。
私はただ、母の胎から産まれ落ちただけだ。いくらそう思っても許されはしない。

「罪の証として産み落とされたのよ。だから誰よりも苦しんで、恨みを買って生きなくてはいけないの。それが生きる意味なのよ。生かされている理由なの」
「無実です。スノウ、あなたは何も悪くない」
「ありがとう。あなたがそう言ってくれただけで充分よ。もう生きていける」
「……」

ジェイドは暫く私を見つめた後、腕に触れていた私の手を厚い胸のほうへ移させたかと思うと、それまでとは違う秘めやかな声で囁いた。

「罪を犯してみますか?」
「え……?」

恐ろしいはずの誘惑は甘く私に火を灯す。

返事を待たずジェイドは私の手を引いて石畳を歩き始める。それはすぐに馬車道や歩道ではなく建物の隙間を縫う裏道に変わる。何処へともなくさらわれる。

「……!」

熱いほどに心が躍った。

本当にこのままジェイドと何処か遠くへ逃げてしまいたい。

私にはできない。
〝罪の子〟だから。

ジェイドにもできない。
軍人だから。

それでも……

今夜だけ。

今夜だけは、二人だけで、誰も知らない場所へ……

軍人のジェイドは夜の闇に溶け込むように俊敏な身のこなしで足を速める。私も体を動かすのは得意だ。居住地区を外れ鬱蒼とした木々の間を進む。獣道にしては踏み固められた狭い道を幾つか踏み越えまた木々の中を走る。

静かな秋の夜を駆け抜けた先。
そこは湖だった。

ぽっかりと空が開け、湖面には月を抱く星空が揺れている。
夜露に濡れた湖畔の草花は細やかな風に揺れている。月灯りに照らされて星のように煌めいている。

静かで美しい光景に私は息を呑んだ。

「此処はレイクシアの崇めた女神が棲むという湖です」

ジェイドが低く囁いた。

「今は国軍の管轄下に置かれ、二十年以上かけて少しずつ埋め立てられ小さくなりました」
「……!」

私は自分が踏みしめる地面を見下ろし、何処へ避けられるわけでもないのに無駄に足踏みしてしまった。

「アスガルド軍が殺したレイクシアの王族が沈んでいます」
「……」

再び湖面に目を戻す。
美しく悲しい水の墓標を前にしているのだと知らされ、複雑な気持ちになった。

隠された歴史的な場所であると同時に、私が罪を洗い流せる場所だと直感する。美しい湖は私を受け入れてくれる。

「既に絶命していた国王以外は拷問の末に鎖に繋がれ生きたまま沈められたと聞いています。此処はアスガルド国王に許可を得た者、総帥とその限られた部下以外、立入ることは許されていません」
「……ジェイドもそのうちの一人なの?」
「いいえ」

大変だ。
一瞬で恐ろしい現実に引き戻された。

「え……ジェイド……私たち……」
「スノウ」

狼狽える私とは対照的にジェイドには恐れの一つも感じられない。寧ろ落ち着いてさえいる。
私は月の光で白く照らし出されるジェイドの頬をじっと見あげた。そうしているうちに心が凪いでいくのが不思議だった。

「あなたの母親という女性は、今このアスガルドに於いて奴隷に貶められていますが、時代が変わらなければレイクシアの尊い女予言者でした。女神の加護の下に国政を助け、民の悩みに耳を傾けていたでしょう。此処に眠る魂を慰められるのは、今、あなたの祈りだけです」

真摯な瞳が私を奥深くまで覗き込んだ。
私の中に入り込み、私の奥から、何かを呼び覚ますように。

「──」

私の景色。
今この目に映るのは、私以外、見ることのできない、私の景色だ。

「────……」

私は外套を脱ぎ捨て、裸足になった。
髪を解く。

「……」

許されないことかもしれない。
今此処はアスガルド王国であり、私は産まれながらに〝罪の子〟だ。

眠るレイクシアの王族たちには憧憬も怨嗟もない。

それでもジェイドの言葉通り、私が弔うべきだと思った。
私が産まれ、生きている意味が、今ここに確かにある。そうしなければならない。

私は月を仰ぎ、戦に破れ滅亡したレイクシア王家の魂を悼む。
祈る言葉も知らない。少しでも心が慰められるように、祈りを込めて私は踊った。それしかできなかった。

眠る王族たちの魂がほんの少しでも慰められるように……

ジェイドは最後まで傍に居てくれた。
静かに佇む彼の存在は私の心を慰める。少し息が切れていた。汗ばんだ肌に夜風が厳しく吹き付ける。

私は夜露に濡れた草を踏みしめジェイドの前まで歩いていくと、その頬を両手で包み、深く唇を重ねた。

罪を犯したのだ。

ジェイドは身を強張らせ息を止めた。
次の瞬間、私を抱きしめ、熱い吐息を私の中に吹き込んだ。
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