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44(ヴィクター)※
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アスガルド国軍から与えられた邸宅など、いくら贅を凝らしていようと奴等の檻に等しい。
娘の命を差し出しさすがに塞ぎ込んでいようとも、俺は宮殿の見える窓辺を離れなかった。此処からであれば同胞の合図を見逃すこともないし、王室騎士団からの緊急連絡も視認できるからだ。
王室騎士団の狼煙に気づき宮殿に駆けつけた俺は、呪われし者カイン・ガルムステットによるクーデターに冷笑するほかなかった。
またやったか、あの男は。
国王を名乗るアスガルドの狂信者を殺し、宮殿を血で染め上げた。
二十三年ぶりに国の滅亡を目の当たりにした俺は、胸のすく思いと憤りで複雑な心境にもなりながらある種の興奮を覚えた。
あの頃はたったの六才。
俺は無力で、恐怖と絶望に震え、逃げ、隠れることしかできなかった。
だが今は違う。
俺はガルムステットの起こしたクーデターを利用できると即座に気づき、王室騎士団長を殺した。各師団の騎士たちもアスガルド国軍の連中に紛れながら何人かを始末した。数える価値もない連中だ。
国王を名乗った狂信者が既に殺害されたのだ。復讐の半分は奪われてしまった。
あの呪われし者だけはこの手で葬りたいが、勢いづいたアスガルド国軍に一人で立ち向かうのは馬鹿というもの。放っておけば殺し合いに疲弊し減っていく。
娘が誘拐された時にはもう始まっていたのだ。
だが、あの男が狙っていた王族は一つではなかった。
父親の方は先を越されたが、娘の方は、ぜひ、この手にかけたい。この手でアスガルド〝王家〟を滅ぼしたい。
そんな俺の願いは聞き届けられた。
神が目覚めかけているのを感じ、俺は歓喜に打ち震えた。
俺が西の通用門付近を歩いている丁度その時、フローラが乳母とその息子に誘導されて現れた。
「殿下!」
俺は王室騎士団第三師団長として呼び止めた。
フローラは驚いた顔で俺を見ると醜い乳母の背後にすっぽりと身を隠した。
「殿下、御無事でしたか!よかった!」
俺が駆け寄っても乳母が退かない。只でさえ充分には備わっていない礼節がこの緊急事態で完全に失われたらしい。
「さあ、こちらに。殿下」
「……」
乳母の巨体を避けつつ手を差し出すが、フローラは少年と繋いだ手を解かずじっと俺を見上げ続けた。
自分の国だと思い込んでいた虚像が瓦解し、精神が限界を迎えているのかもしれない。
「殿下……」
八才か。
俺は六才だった。
八才ならば、充分、理解できる。
記憶している。
レイクシアを蹂躙した狂信者の娘であると同時に、生かしておけば必ずアレス王子の害になる存在。
「あなたは今やアスガルド王国に残された唯一の灯。乳母一人では心細いでしょう。この王室騎士団第三師団長ヴィクター・ストールが命に代えてもお守りします」
そしてこの手で、ゆっくり、じっくり、息の根を止めてやる。
娘は呪われし者にくれてやった。アスガルドの残滓たるこのフローラだけは渡さない。
「姫様は、スノウさんを傷つけた騎士様とはご一緒できません」
乳母が言った。
一瞬、その言葉は意味不明な風の音かのように耳をすり抜けていった。
「……は?」
だが遅れて怒りが沸いた。
たかが乳母風情が俺に盾突くなどありえない。
「ですから、姫様はあなた様とはご一緒できません。嫌いなので」
「……あ、いや、……確かに、婚約を破棄したことは相手を傷つけたかもしれない。だが、殿下のお命が掛かっている今、女の感情は些末すぎる問題だ」
フローラを手中に収める為ならば、これ以上の摩擦は妨げになると頭では理解できる。だから努めて相手の主張を認め、親切に諭してやった。
もしかするとスカーレイも同じ苦労に時間を費やしていたのかもしれない。
娘を喪った腹いせに王女暗殺計画の嫌疑をかけて排除したのはさすがに浅慮だったか。
だが、役立たずで目障りな〝正義の子〟をただ消してすっきりするだけのつもりが、呪われし者お得意のクーデターに種火を与える結果になるとは思いもよらなかった。
結果的に俺がアスガルド王国を滅亡させたと言っても過言ではない。
俺は、二十三年前にレイクシア王国を蹂躙した男さえ掌の上の駒にして、過去に復讐している。
これが神の御業でなければ、なんだというのか。
「殿下には現実的に務めのこなせる護衛が必要だ。失礼だが、肥満体の乳母など肉壁以外の役目は果たせないし、避難する足枷にしかならない。殿下の為を思うならここで俺に任せて身を引くのが忠義というものだろう」
「ちょっと」
フローラが巨体の影から怒気も顕わに顔を出した。
「パウラに失礼よ。謝って」
「……」
いちいちうまくいかない。
反抗的というより自我が強すぎて、計画通りに物事が運ばず、予定が狂う。
何より苛立つ。
「殿下」
「まず謝って」
「なにを……」
冷笑が洩れる。
「乳母に情をかける必要はありません。そんな考えだから、ルビーの件まで過剰に反応してしまうのです」
「本当に女の敵ね」
「殿下」
「私は女だから、あんたの助けだけは受けないの。さよなら」
乳母と俺を追い越して西の通用門へ歩いて行こうとするフローラをこの場で殺したくなったが、一緒にいる少年の鋭い視線が俺を押し留めた。
「……」
乳母は第二子がフローラと同じ月に生まれたから乳母になったと聞いている。
夫は騎士学校を運営し、そこを出て少年騎士団に入った第一子もいる。
乳母の二人の息子は、騎士が姫を守るという輝かしい栄誉だけではなく、家族を守る感覚で最後まで抗う可能性もあるだろう。
目障りだ。
「殿下の敵は、女ではないですか?」
核心を突いた呼び掛けにフローラが足を止める。
それからじりじりと肩越しに振り返り恨みの篭った目で俺を睨んだ。
だが事実を告げてやる。
「殿下の傍近くで仕えていた二人の女は、どうなりました?一人はあなたの命を狙い、一人は国賊の娘になりました。女など信用なりません。その乳母だって、息子を守る為にあなたを差し出すかもしれない」
「あんたを殺しておけばよかった」
フローラは、八才にしては残虐な思考を持っている。さすがはアスガルドの狂信者の胤によって形作られた卑しい魂だ。
俺は、六才だった。
たった二才違うだけで、こうも強気でいられるのだろうか。自身を王族と思い込んでいる傲慢さ故の力なのか。
絶望し、泣き叫び、汚物に塗れ地中に身を潜めるような、苦痛の極みを味わわせてやりたい。
不屈の精神をへし折ってやるのは、きっと楽しいだろう。
わからせてやりたい。
お前の父親が、地上から何を奪い去ったのか。
「なに?私を殴りたい?それよりも酷い言葉で苛めたいの?あんたの心は誰よりも醜い。スノウがあんたのものじゃなくなってよかったわ」
言ってくれる。
「あの女は──」
俺は扱いにくいフローラに苛立ち、更には挑発までされて注意を怠ってしまった。
ルビーは元はレイクシアの物で、アスガルドでは奴隷以下の存在で、今では親の仇の娘なのだと、八才でもわかるように噛み砕いて説明してやろうと口を開いた時に、奴は現れた。
「殿下!」
ジェイド・セランデル。
鬱陶しい犬め。
「ちょっと、ちょっとちょっと!殿下!探しましたよ!」
フローラたち三人も驚愕しているのを意にも介さず駆け寄ってくると、セランデルはさりげなく俺とフローラの間に割り込んだ。
俺に背中を向けた。
俺は剣を抜いた。
「セランデル!」
「!」
フローラの声でセランデルが俺の一撃を避ける。
「!?」
俺も驚いたが、フローラも乳母も、その息子も目を丸くしている。
半分だけ流れる貴族の血に情けを掛けられ、肩書を与えられているだけの無能だと思っていたが、俺の剣を背中で避けた。
腐っても軍人ということだ。
「殿下。何故庇うのです?アスガルド国軍の軍人ですよ」
次の一撃をいつ仕掛けるか見極めながら低く告げる。
さっきは強気だったフローラも、クーデターを起こした側の人間を目の前にして狼狽している様子。
「そうですけど、私だって知らなかったんです。総帥はあなたを亡き者にしてこの国を奪うでしょう。更に理性を失くした私の同僚たちが、殿下を女王と見做し抹殺する気分で暴れています。逃げてください。今、スノウが総帥を引き留めています」
「嘘です、殿下。その者の言葉を信用してはいけません」
「殿下、時間がありません。スノウの敵は私たちの敵。行きましょう」
この数秒でセランデルは更に三回、俺の攻撃を回避した。
「スノウは……」
フローラの声が大人に甘える頼りないものに変わっていた。
「殿下!」
俺もセランデルもフローラを呼んだ。
迷っているようだったが、俺を選ぶのはわかりきっていた。俺は王室騎士団の第三師団長で、セランデルは反逆者の犬だ。相手は子ども。考えるまでもない。
「殿下」
フローラの小さな足が地面を踏みしめ動かないのを見てセランデルが語調を和らげた。
「その男を信用してはいけません。殿下、聞いてください。クーデター以前の話です。私が総帥の祝辞を伝える為にその男に接近したのは建前でした。その男こそが、あなたの暗殺を企てていたのです」
「!?」
フローラが目を瞠り硬直する。
「調査の結果から、セシア伯爵令嬢は確かにその一味です。生き延びたレイクシア王国の貴族たちが地下組織を作り復讐の機会を待っていたんです」
「戯言です。耳を傾けてはいけません」
「セシア伯爵令嬢は亡くなりました。仲間の存在を隠し通す為に毒薬で自害しました。でも私は突き止めました。組織の名は《アヴァロン》。レイクシア復活を願う狂信的な集団です。クーデターの件は申し訳ありません。とにかく伝えたいのは、その男も殿下を亡き者にしようと目論む一人だということです」
「黙れ!」
全部スカーレイのせいだ。
あの女が上手くあしらわなかったから犬が全てを嗅ぎつけてしまった。
「……っ」
否、全てではない。
アレス王子の行方は、ルナ以外、誰も知らない。
俺の勝ちだ、セランデル。
「あなたはこの地で生きていけない。スノウもこの地で生きていけない。だから私も生きていけない。私たちは逃げるしかない。だから行くんです。殿下、私と来てください」
「そう言った口で殿下を罵り辱めて殺すでしょう。こいつは汚い不義の子です。嘘と裏切りから生まれた屑です」
追い込まれた偽りの姫君は俺とセランデルの間で瞠目し無様に唇を震わせている。
俺はフローラをこの手で殺さなければならないが、ここで見られた以上セランデルも始末しなければならない。
更に今の俺にはクーデターを制圧するという王室騎士団の義務がある。どちらにせよ、セランデルを生かしておく理由がない。
だからそのつもりで剣を振るうがセランデルに悉く躱される。
俺はすっかりセランデルに夢中になり、肥満体の乳母の言葉など気にも留めなかった。
「どっちの男にするか姫様が決めてください」
俺は気に留めなかったがフローラは違った。
「セランデル!」
犬の名を呼んだ。
そして、俺が呆気に取られた瞬間だった。
「──ぐふっ」
喉を突かれて噎せ、その隙に剣を奪われた。
しかもそれは犬とはいえ軍人のセランデルにではなく、肥満体の乳母にである。
「!?」
意味がわからなかった。
意味がわからないながらにも、俺の体は本能的に乳母の剣を回避した。
「……」
確かな立ち回りだ。
肥満体の乳母が、何故……
「ラーシュ!!」
乳母が叫んだ。
それが、乳母の息子の名前だと理解した瞬間、俺はナイフを乳母の分厚い胸に突き刺した。
フローラが表情を変えて叫ぶ。
「お母さん!」
乳母とはそういう存在になり得る。
だから、この肉壁は役に立たないと言ったのに。
「母さんは大丈夫だ!行くぞ!」
「いやっ!いやだ!!パウラ!お母さん!いやぁっ!!」
「大丈夫だから!!」
少年が怒鳴りながらフローラの手を引いている。
乳母の息子が言う通り、胸元に何を仕込んでいるのか肉の感触は鈍かった。少なくとも人間の脂肪を刺した感触ではなかった。
この女、何者だ?
「セランデル!セランデル助けて!!」
乳母の息子に引き摺られていきながらフローラが泣き叫んだ。その時、セランデルが乳母の息子に何かを渡した。逃亡先でも指示したのかもしれない。
完全に侮っていた。
フローラが俺の手を逃れ、立ち去ろうとしている。
「手伝います!」
セランデルが襲い掛かってきた。
正直、回避能力の高いセランデルの素手による攻撃より、肥満体の乳母の底知れぬ剣さばきの方が俺にとっては脅威だった。
ただ完全に劣勢に立たされ、フローラにも逃げられてしまったのは事実だった。
そこへアスガルド国軍の軍勢が現れて、俺がセランデルを襲っていると見るや否や猛進してきたので逃げるしかなかった。
フローラは何処に消えたのか。
体勢を立て直し、セランデルを捕らえ拷問して白状させなければならない。それか乳母を囮にして呼び戻すかのどちらかだ。
宮殿内部のことは熟知している。
俺は革袋の中身をアスガルドの軍人たちにぶちまけ、汚水で視覚と嗅覚を奪い地下水路に身を隠した。暗く臭く汚い場所には慣れている。
無事に脱出を果たし、俺は地下支部へと身を寄せた。
「そうか。スカーレイは死んだのか」
落ち着いてからまず口をついたのは、そんな一言だった。
汚れた体で壁に凭れ、外見だけは美しかったスカーレイを瞼の裏に描く。
あの女がもっと有能であったなら、こんな苦労はせずに済んだ。
カイン・ガルムステットに二度目のクーデターを起こさせるまでもなく、我々誉れ高き《アヴァロン》がアスガルドの邪神諸共、殲滅できたはずだ。
「……」
だが、この苦境すら、神が与えし試練と言えよう。
スカーレイ。
アスガルドの邪教に穢され、呪われし者の慰み者となった〝正義の子〟は誰かが浄めてやらなければならない。
スカーレイは愚かな女だった。だが、共に使命を課せられた同胞であったのもまた事実だ。
この手で葬ってやろう。
穢れたその身を尊き生贄として神に捧げてやる。
「……ふ」
我が娘と、〝正義の子〟。
二つの生贄を捧げた俺を神はお喜びになり、誰よりも祝福してくださるはずだ。
「……」
今は邪悪な時代。
アスガルドの邪神に穢され、再び呪われし者に蹂躙されているこの大地を救う為には、もっと多くの生贄が必要だ。
そうか。
スカーレイは、その魁となった。
俺は、この邪悪な時代に神が遣わした偉大なる祭司だったのだ。
「同胞の血を捧げこの大地を浄めない限り、レイクシアの神はお目覚めにならない……!」
やっとわかった。
特別な使命を与えられ生を受けた俺だけが辿り着いた答え。
俺はレイクシア王国を復活させ、国王に次ぐ偉大な神の遣いとなるだろう。民は俺を崇め、俺の死後、俺を祀る霊廟が建てられるだろう。俺の霊廟は神殿の最も聖なる場所の近くに建てられるはずだ。
国が整えばルナはアレス王子を連れて戻ってくる。
俺を愛し神に遜るルナの血だけは神も死を嘆くだろうか。それとも、女神の祝福を受け神となったアレス王子の乳母として、最も尊い生贄となるだろうか。
いずれにせよ、今は生贄を捧げる時。
偽りの聖剣は盛りを過ぎた雌犬にくれてやる。
今こそ、レイクシアの戦士の証。神殿兵士の武器を持つ時だ。
難を逃れ《アヴァロン》の本部として温存されている地下神殿に、それは眠っている。主を待っている。
神殿の鍵を開く為、まずはルビーを捧げよう。
邪神を崇めるアスガルドの神官の胤に穢されようとも、あの姿はレイクシアの秘宝そのものだ。それこそが神の御意志。
「すべては神の為に。レイクシアに、栄光あれ!」
娘の命を差し出しさすがに塞ぎ込んでいようとも、俺は宮殿の見える窓辺を離れなかった。此処からであれば同胞の合図を見逃すこともないし、王室騎士団からの緊急連絡も視認できるからだ。
王室騎士団の狼煙に気づき宮殿に駆けつけた俺は、呪われし者カイン・ガルムステットによるクーデターに冷笑するほかなかった。
またやったか、あの男は。
国王を名乗るアスガルドの狂信者を殺し、宮殿を血で染め上げた。
二十三年ぶりに国の滅亡を目の当たりにした俺は、胸のすく思いと憤りで複雑な心境にもなりながらある種の興奮を覚えた。
あの頃はたったの六才。
俺は無力で、恐怖と絶望に震え、逃げ、隠れることしかできなかった。
だが今は違う。
俺はガルムステットの起こしたクーデターを利用できると即座に気づき、王室騎士団長を殺した。各師団の騎士たちもアスガルド国軍の連中に紛れながら何人かを始末した。数える価値もない連中だ。
国王を名乗った狂信者が既に殺害されたのだ。復讐の半分は奪われてしまった。
あの呪われし者だけはこの手で葬りたいが、勢いづいたアスガルド国軍に一人で立ち向かうのは馬鹿というもの。放っておけば殺し合いに疲弊し減っていく。
娘が誘拐された時にはもう始まっていたのだ。
だが、あの男が狙っていた王族は一つではなかった。
父親の方は先を越されたが、娘の方は、ぜひ、この手にかけたい。この手でアスガルド〝王家〟を滅ぼしたい。
そんな俺の願いは聞き届けられた。
神が目覚めかけているのを感じ、俺は歓喜に打ち震えた。
俺が西の通用門付近を歩いている丁度その時、フローラが乳母とその息子に誘導されて現れた。
「殿下!」
俺は王室騎士団第三師団長として呼び止めた。
フローラは驚いた顔で俺を見ると醜い乳母の背後にすっぽりと身を隠した。
「殿下、御無事でしたか!よかった!」
俺が駆け寄っても乳母が退かない。只でさえ充分には備わっていない礼節がこの緊急事態で完全に失われたらしい。
「さあ、こちらに。殿下」
「……」
乳母の巨体を避けつつ手を差し出すが、フローラは少年と繋いだ手を解かずじっと俺を見上げ続けた。
自分の国だと思い込んでいた虚像が瓦解し、精神が限界を迎えているのかもしれない。
「殿下……」
八才か。
俺は六才だった。
八才ならば、充分、理解できる。
記憶している。
レイクシアを蹂躙した狂信者の娘であると同時に、生かしておけば必ずアレス王子の害になる存在。
「あなたは今やアスガルド王国に残された唯一の灯。乳母一人では心細いでしょう。この王室騎士団第三師団長ヴィクター・ストールが命に代えてもお守りします」
そしてこの手で、ゆっくり、じっくり、息の根を止めてやる。
娘は呪われし者にくれてやった。アスガルドの残滓たるこのフローラだけは渡さない。
「姫様は、スノウさんを傷つけた騎士様とはご一緒できません」
乳母が言った。
一瞬、その言葉は意味不明な風の音かのように耳をすり抜けていった。
「……は?」
だが遅れて怒りが沸いた。
たかが乳母風情が俺に盾突くなどありえない。
「ですから、姫様はあなた様とはご一緒できません。嫌いなので」
「……あ、いや、……確かに、婚約を破棄したことは相手を傷つけたかもしれない。だが、殿下のお命が掛かっている今、女の感情は些末すぎる問題だ」
フローラを手中に収める為ならば、これ以上の摩擦は妨げになると頭では理解できる。だから努めて相手の主張を認め、親切に諭してやった。
もしかするとスカーレイも同じ苦労に時間を費やしていたのかもしれない。
娘を喪った腹いせに王女暗殺計画の嫌疑をかけて排除したのはさすがに浅慮だったか。
だが、役立たずで目障りな〝正義の子〟をただ消してすっきりするだけのつもりが、呪われし者お得意のクーデターに種火を与える結果になるとは思いもよらなかった。
結果的に俺がアスガルド王国を滅亡させたと言っても過言ではない。
俺は、二十三年前にレイクシア王国を蹂躙した男さえ掌の上の駒にして、過去に復讐している。
これが神の御業でなければ、なんだというのか。
「殿下には現実的に務めのこなせる護衛が必要だ。失礼だが、肥満体の乳母など肉壁以外の役目は果たせないし、避難する足枷にしかならない。殿下の為を思うならここで俺に任せて身を引くのが忠義というものだろう」
「ちょっと」
フローラが巨体の影から怒気も顕わに顔を出した。
「パウラに失礼よ。謝って」
「……」
いちいちうまくいかない。
反抗的というより自我が強すぎて、計画通りに物事が運ばず、予定が狂う。
何より苛立つ。
「殿下」
「まず謝って」
「なにを……」
冷笑が洩れる。
「乳母に情をかける必要はありません。そんな考えだから、ルビーの件まで過剰に反応してしまうのです」
「本当に女の敵ね」
「殿下」
「私は女だから、あんたの助けだけは受けないの。さよなら」
乳母と俺を追い越して西の通用門へ歩いて行こうとするフローラをこの場で殺したくなったが、一緒にいる少年の鋭い視線が俺を押し留めた。
「……」
乳母は第二子がフローラと同じ月に生まれたから乳母になったと聞いている。
夫は騎士学校を運営し、そこを出て少年騎士団に入った第一子もいる。
乳母の二人の息子は、騎士が姫を守るという輝かしい栄誉だけではなく、家族を守る感覚で最後まで抗う可能性もあるだろう。
目障りだ。
「殿下の敵は、女ではないですか?」
核心を突いた呼び掛けにフローラが足を止める。
それからじりじりと肩越しに振り返り恨みの篭った目で俺を睨んだ。
だが事実を告げてやる。
「殿下の傍近くで仕えていた二人の女は、どうなりました?一人はあなたの命を狙い、一人は国賊の娘になりました。女など信用なりません。その乳母だって、息子を守る為にあなたを差し出すかもしれない」
「あんたを殺しておけばよかった」
フローラは、八才にしては残虐な思考を持っている。さすがはアスガルドの狂信者の胤によって形作られた卑しい魂だ。
俺は、六才だった。
たった二才違うだけで、こうも強気でいられるのだろうか。自身を王族と思い込んでいる傲慢さ故の力なのか。
絶望し、泣き叫び、汚物に塗れ地中に身を潜めるような、苦痛の極みを味わわせてやりたい。
不屈の精神をへし折ってやるのは、きっと楽しいだろう。
わからせてやりたい。
お前の父親が、地上から何を奪い去ったのか。
「なに?私を殴りたい?それよりも酷い言葉で苛めたいの?あんたの心は誰よりも醜い。スノウがあんたのものじゃなくなってよかったわ」
言ってくれる。
「あの女は──」
俺は扱いにくいフローラに苛立ち、更には挑発までされて注意を怠ってしまった。
ルビーは元はレイクシアの物で、アスガルドでは奴隷以下の存在で、今では親の仇の娘なのだと、八才でもわかるように噛み砕いて説明してやろうと口を開いた時に、奴は現れた。
「殿下!」
ジェイド・セランデル。
鬱陶しい犬め。
「ちょっと、ちょっとちょっと!殿下!探しましたよ!」
フローラたち三人も驚愕しているのを意にも介さず駆け寄ってくると、セランデルはさりげなく俺とフローラの間に割り込んだ。
俺に背中を向けた。
俺は剣を抜いた。
「セランデル!」
「!」
フローラの声でセランデルが俺の一撃を避ける。
「!?」
俺も驚いたが、フローラも乳母も、その息子も目を丸くしている。
半分だけ流れる貴族の血に情けを掛けられ、肩書を与えられているだけの無能だと思っていたが、俺の剣を背中で避けた。
腐っても軍人ということだ。
「殿下。何故庇うのです?アスガルド国軍の軍人ですよ」
次の一撃をいつ仕掛けるか見極めながら低く告げる。
さっきは強気だったフローラも、クーデターを起こした側の人間を目の前にして狼狽している様子。
「そうですけど、私だって知らなかったんです。総帥はあなたを亡き者にしてこの国を奪うでしょう。更に理性を失くした私の同僚たちが、殿下を女王と見做し抹殺する気分で暴れています。逃げてください。今、スノウが総帥を引き留めています」
「嘘です、殿下。その者の言葉を信用してはいけません」
「殿下、時間がありません。スノウの敵は私たちの敵。行きましょう」
この数秒でセランデルは更に三回、俺の攻撃を回避した。
「スノウは……」
フローラの声が大人に甘える頼りないものに変わっていた。
「殿下!」
俺もセランデルもフローラを呼んだ。
迷っているようだったが、俺を選ぶのはわかりきっていた。俺は王室騎士団の第三師団長で、セランデルは反逆者の犬だ。相手は子ども。考えるまでもない。
「殿下」
フローラの小さな足が地面を踏みしめ動かないのを見てセランデルが語調を和らげた。
「その男を信用してはいけません。殿下、聞いてください。クーデター以前の話です。私が総帥の祝辞を伝える為にその男に接近したのは建前でした。その男こそが、あなたの暗殺を企てていたのです」
「!?」
フローラが目を瞠り硬直する。
「調査の結果から、セシア伯爵令嬢は確かにその一味です。生き延びたレイクシア王国の貴族たちが地下組織を作り復讐の機会を待っていたんです」
「戯言です。耳を傾けてはいけません」
「セシア伯爵令嬢は亡くなりました。仲間の存在を隠し通す為に毒薬で自害しました。でも私は突き止めました。組織の名は《アヴァロン》。レイクシア復活を願う狂信的な集団です。クーデターの件は申し訳ありません。とにかく伝えたいのは、その男も殿下を亡き者にしようと目論む一人だということです」
「黙れ!」
全部スカーレイのせいだ。
あの女が上手くあしらわなかったから犬が全てを嗅ぎつけてしまった。
「……っ」
否、全てではない。
アレス王子の行方は、ルナ以外、誰も知らない。
俺の勝ちだ、セランデル。
「あなたはこの地で生きていけない。スノウもこの地で生きていけない。だから私も生きていけない。私たちは逃げるしかない。だから行くんです。殿下、私と来てください」
「そう言った口で殿下を罵り辱めて殺すでしょう。こいつは汚い不義の子です。嘘と裏切りから生まれた屑です」
追い込まれた偽りの姫君は俺とセランデルの間で瞠目し無様に唇を震わせている。
俺はフローラをこの手で殺さなければならないが、ここで見られた以上セランデルも始末しなければならない。
更に今の俺にはクーデターを制圧するという王室騎士団の義務がある。どちらにせよ、セランデルを生かしておく理由がない。
だからそのつもりで剣を振るうがセランデルに悉く躱される。
俺はすっかりセランデルに夢中になり、肥満体の乳母の言葉など気にも留めなかった。
「どっちの男にするか姫様が決めてください」
俺は気に留めなかったがフローラは違った。
「セランデル!」
犬の名を呼んだ。
そして、俺が呆気に取られた瞬間だった。
「──ぐふっ」
喉を突かれて噎せ、その隙に剣を奪われた。
しかもそれは犬とはいえ軍人のセランデルにではなく、肥満体の乳母にである。
「!?」
意味がわからなかった。
意味がわからないながらにも、俺の体は本能的に乳母の剣を回避した。
「……」
確かな立ち回りだ。
肥満体の乳母が、何故……
「ラーシュ!!」
乳母が叫んだ。
それが、乳母の息子の名前だと理解した瞬間、俺はナイフを乳母の分厚い胸に突き刺した。
フローラが表情を変えて叫ぶ。
「お母さん!」
乳母とはそういう存在になり得る。
だから、この肉壁は役に立たないと言ったのに。
「母さんは大丈夫だ!行くぞ!」
「いやっ!いやだ!!パウラ!お母さん!いやぁっ!!」
「大丈夫だから!!」
少年が怒鳴りながらフローラの手を引いている。
乳母の息子が言う通り、胸元に何を仕込んでいるのか肉の感触は鈍かった。少なくとも人間の脂肪を刺した感触ではなかった。
この女、何者だ?
「セランデル!セランデル助けて!!」
乳母の息子に引き摺られていきながらフローラが泣き叫んだ。その時、セランデルが乳母の息子に何かを渡した。逃亡先でも指示したのかもしれない。
完全に侮っていた。
フローラが俺の手を逃れ、立ち去ろうとしている。
「手伝います!」
セランデルが襲い掛かってきた。
正直、回避能力の高いセランデルの素手による攻撃より、肥満体の乳母の底知れぬ剣さばきの方が俺にとっては脅威だった。
ただ完全に劣勢に立たされ、フローラにも逃げられてしまったのは事実だった。
そこへアスガルド国軍の軍勢が現れて、俺がセランデルを襲っていると見るや否や猛進してきたので逃げるしかなかった。
フローラは何処に消えたのか。
体勢を立て直し、セランデルを捕らえ拷問して白状させなければならない。それか乳母を囮にして呼び戻すかのどちらかだ。
宮殿内部のことは熟知している。
俺は革袋の中身をアスガルドの軍人たちにぶちまけ、汚水で視覚と嗅覚を奪い地下水路に身を隠した。暗く臭く汚い場所には慣れている。
無事に脱出を果たし、俺は地下支部へと身を寄せた。
「そうか。スカーレイは死んだのか」
落ち着いてからまず口をついたのは、そんな一言だった。
汚れた体で壁に凭れ、外見だけは美しかったスカーレイを瞼の裏に描く。
あの女がもっと有能であったなら、こんな苦労はせずに済んだ。
カイン・ガルムステットに二度目のクーデターを起こさせるまでもなく、我々誉れ高き《アヴァロン》がアスガルドの邪神諸共、殲滅できたはずだ。
「……」
だが、この苦境すら、神が与えし試練と言えよう。
スカーレイ。
アスガルドの邪教に穢され、呪われし者の慰み者となった〝正義の子〟は誰かが浄めてやらなければならない。
スカーレイは愚かな女だった。だが、共に使命を課せられた同胞であったのもまた事実だ。
この手で葬ってやろう。
穢れたその身を尊き生贄として神に捧げてやる。
「……ふ」
我が娘と、〝正義の子〟。
二つの生贄を捧げた俺を神はお喜びになり、誰よりも祝福してくださるはずだ。
「……」
今は邪悪な時代。
アスガルドの邪神に穢され、再び呪われし者に蹂躙されているこの大地を救う為には、もっと多くの生贄が必要だ。
そうか。
スカーレイは、その魁となった。
俺は、この邪悪な時代に神が遣わした偉大なる祭司だったのだ。
「同胞の血を捧げこの大地を浄めない限り、レイクシアの神はお目覚めにならない……!」
やっとわかった。
特別な使命を与えられ生を受けた俺だけが辿り着いた答え。
俺はレイクシア王国を復活させ、国王に次ぐ偉大な神の遣いとなるだろう。民は俺を崇め、俺の死後、俺を祀る霊廟が建てられるだろう。俺の霊廟は神殿の最も聖なる場所の近くに建てられるはずだ。
国が整えばルナはアレス王子を連れて戻ってくる。
俺を愛し神に遜るルナの血だけは神も死を嘆くだろうか。それとも、女神の祝福を受け神となったアレス王子の乳母として、最も尊い生贄となるだろうか。
いずれにせよ、今は生贄を捧げる時。
偽りの聖剣は盛りを過ぎた雌犬にくれてやる。
今こそ、レイクシアの戦士の証。神殿兵士の武器を持つ時だ。
難を逃れ《アヴァロン》の本部として温存されている地下神殿に、それは眠っている。主を待っている。
神殿の鍵を開く為、まずはルビーを捧げよう。
邪神を崇めるアスガルドの神官の胤に穢されようとも、あの姿はレイクシアの秘宝そのものだ。それこそが神の御意志。
「すべては神の為に。レイクシアに、栄光あれ!」
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