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25(ヴェロニカ)

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「母は恐らく、夜の闇に紛れて家畜を殺し、火をつけます。それからあなた方の誰かに殺した家畜を投げつけ、一家を恐怖と混乱に陥れるでしょう。そしてヴェロニカさん。あなたを最大の恐怖と絶望に狂わせてから、全てを終わらせるつもりです」

寝袋を運び込みながらそんな話をしていたので、ロージーが血相を変えても無理はなかった。

「えっ?やめて!?私の牛を殺さないで!?」
「はい。その為に僕がいるので大丈夫ですよ。安心してください」
「……頼みますよ、聖なる騎士様」

ロージーはさっぱりした性格だけれど、これは皮肉をたっぷり込めたと考えて間違いないだろう。

恐い。
それは自然な感情だと思う。

私も手が震えるほど緊張しているし、恐れもある。
不思議に思ったのは、アレクシウスが母親のソレーヌとほぼ同化しているかのように確信をもって断言していることだった。

は、頼りにならないどころか余計なことをしそうなので、僕としては、もう帰ってもらっても構わないのですけど」
「ミカエルがいるから……」
「そうですよね。弟にとって、愛してくれる肉親は父親だけですから。ヴェロニカさんに免じて居てもらいましょうか。父親としては、生きているだけで合格とも言えますし。血筋だけは褒められますからね」

アレクシウスがガイウスを忌避するような、それに似た感情がソレーヌの中にもありはしないだろうか。
この価値観。この感性を内に秘めた人物にとって、ガイウスは果たして魅力的だったのだろうか。

「……」

奪い取りたいのではない。
只、私は、ソレーヌが蓋をした本心の断片を垣間見た気がして、少しだけ恐怖が和らいだ。それは私の想像でしかないのだけれど、もし、この想像が合っていれば、ガイウスはきっと悲しむ。

取り残された者になったとき、ガイウスは益々私に依存するだろう。
その時に私は、彼の全てを受け入れると思う。

「ヴェロニカさん」

アレクシウスという修道騎士の美少年が、特に感情の篭っていない美貌で私を見つめながら牝牛を撫でた。

「はい」
「あなたはどうします?子どもたちといますか?」
「……」

私をこの世から消してしまおうという目的で彼女がやってくるのなら、私は、息子たちの傍にいるわけにはいかない。誰の傍にいるわけにもいかないのだ。
それでいて安全を確保するとなれば、穴を掘って土の中にでも隠れるか、唯一彼女を止められるであろうアレクシウスの傍に居るか、選択肢は二つしかない。

「いいえ。あなたと、牛たちと一緒に寝るしかないわね」
「よかった。さすが覚悟が違いますね。僕が必ず守るので囮になってください」

アレクシウスが嬉しそうに微笑んだ。私は勿論、ありがたいけれど微妙な気持ちにならざるを得ない。

ソレーヌを恐れるだけ、アレクシウスにも底知れないものを感じていた。この信仰に生きる美少年は父親を悼み、母親を断罪しようとしている。
私への善意があろうと、母親への悪意が無かろうと、正直、何をするかわからない。何ができてしまうかわからない。彼は、親の愛を知らない。

「できるだけ穏便にね」

守ってもらう身でありながら私は念を押した。アレクシウスはニコリとして小首を傾げ私の要望を受け取った。

「私の牛なのよ?」

ロージーも心配そうに念を押す。
アレクシウスは動物には慣れているらしく、手の届く限り代わる代わる牛たちの頬や首元を撫でたり掻いたりしながら親睦を深めつつ頷いた。

「はい。ご安心ください」
「……うぅーん……」

ロージーは今一つ安心しきれない呻きを洩らすものの、肝心の牛たちは機嫌よく撫でられている。
牝牛だから、やっぱり、美少年なのがわかっているのかしら……

「ただ、音に驚いて暴れるかもしれないので、あなたも一緒にいてくれるとありがたいです」
「え?」

可哀想なロージーは牛の為に恐怖の夜を過ごすことになってしまった。

静かな夜。
牛たちの寝息に囲まれながら藁に身を隠し座った姿勢での睡眠は過酷だった。でも、隣にロージーがいてくれた。彼女は牛たちの為にそうしていたのだけれど、私が励まされた。

死を覚悟してフェラレーゼ伯爵家から逃げ出した夜。
あの夜も、隣にはロージーがいてくれた。

あの夜を、私たちは乗り越えた。
だからきっと今夜も、明日の夜も、大丈夫。

私はロージーと手を繋ぎ、寄り添って浅い眠りに就いていた。
実際、本当にうとうとしていた時だった。外側から小屋の扉が静かに開かれ、私たちは一瞬で醒めた。冴え渡った。息を飲んだ。

物々しい輪郭を、月が眩しく照らしている。
長い髪が夜風に靡き、微かに甲冑の擦れる音がする。

「……」

ソレーヌだった。
アレクシウスの予言通り、ソレーヌは殺戮の夜を始める為にまず罪のない家畜の命から手にかけようとしている。

ソレーヌが静かに歩きながら徐に剣を水平に掲げた。生き物の命を奪うような迫力を一切感じさせない、微風のような動作だった。
闇の中から同じ静けさを纏うアレクシウスが現れ、突如、音が弾けた。

「!」

剣と剣がぶつかり合う。
牛が起きた。狼狽した牛をロージーがすぐ外へ誘導し、待機していたザックと協力して別の囲いへと連れて行く。

「!!」

私は藁の中で腰が抜け、耳に手を当て縮こまる。
剣と剣が、ぶつかり合う音。命を奪おうとしている音。その音を初めて間近で耳にして、私は震えた。

「貴様……誰だ!邪魔を、するなッ!」

ソレーヌが怒号を上げる。
弾けるような金属音が夜を劈く。

私は最初、ただ恐怖に飲まれ震えていた。けれど唐突に気づいた。
これがソレーヌの生きた世界なのだと。

「……」

まるで違う。
私の苦悩や悲しみとは、まるで違う、別の世界。

外の世界。
平穏な暮らしの外で彼女が流してくれた血が、今、私たちを生かしているのだ。

音が弾ける。
あの剣は、あの音は、私を殺めようとしている。

でも。
今、ソレーヌへの恐れは消えた。

そして、アレクシウスとの約束を思い出した。
私は藁の中から飛び出し彼女を呼んだ。

!」
「!?」

一瞬の隙が生じる。
アレクシウスの剣が膝を打ち、体勢を崩したソレーヌの剣を弾き飛ばした。

「うあああああ!!」

敗北がソレーヌから言葉を奪う。
怒り狂う獣のように咆哮を上げた母親の腰を、次いでアレクシウスの剣が打った。ソレーヌが倒れ、拳で地面を叩き髪を振り乱す。

「邪魔をするな!あの女さえいなければ私は──」
「騎士の誇りは何処へやってしまったのですか?」

また次の瞬間、アレクシウスが母親の首元に剣を宛がい、背中を踏んだ。

「いい加減、目を覚ましたらどうです?あの人は何も奪っていない。あなたが自分で捨てたのです」
「貴様に何がわかる!誰なの!貴様如きが知ったような口を──」
「僕ですよ、母さん」

刹那、静寂が落ちた。
そしてソレーヌの引き攣った呼吸が夜風に交じる。

「……お前など、知らない……」
「僕です」
「知らない……」
「母さん。アレクシウスです」
「知らない!!」

獣の慟哭に恐れが混じる。

「知らない?では思い出してください。あなたが夫アデルモと交わり産み落とした息子がいたはずです」
「うるさい……!」
「命を懸け産み落とし、教会へ預けたあなたの息子。アレクシウスがこの僕です」
「黙れ!!」
「母さん!!」

母さんと呼びながらその背を踏みつけ容赦がない。
今この瞬間にも首を斬り落とせると示し続ける宛がわれた剣が、まるでぶれない。

私はアレクシウスが勢いでソレーヌを殺めてしまうのではないかと不安になった。けれど、私の不安など非にならない酷い恐れが、過去が、ソレーヌを崩した。

「うううぅぅッ」

蹲り、低く呻き泣き始めた。
それはすぐ慟哭に変わった。

「あ、あ、あああああッ」
「今更、何を泣くのです。全てあなたが選んだことです。僕を棄て、父を棄て、偽りの誓いを結び、今、善良な一人の母親を殺めようとしている」
「違う!」
「あなたはこの人から夫になるべきだった男を奪った。悪戯に奪った」
「違う!」
「更に命まで奪うのか」

やめて、と。
できることなら叫びたかった。
痛ましい親子の姿に胸が張り裂けそうだった。

ソレーヌの様子は尋常ではなく、とてもまともには見えない。壊れてしまった。彼女はもう冷静な判断など下せる状態ではない。もうこれ以上、苛む必要はない。

「奪ったのはこの人じゃない!あなただ!母さん!!」
「ちがあぁぁう!!」

泣き叫ぶ母親をアレクシウスが蹴って転がす。這い蹲るような姿勢で全身震えながら、ついにソレーヌが息子を見上げた。

「結婚などしたくなかった!貴族になどなりたくなかった!」

止め処ない涙が、叫びが、ソレーヌの細い喉から迸る。破るほどに激しく、血を流すほどに険しく。

ああ……やっぱり。
そうだったのね、ソレーヌ。

「夫も息子も要らない!あんな女はどうでもいい!お前も要らない!何も要らない!」
「……っ」

胸が震え、涙が込み上げる。
でもきっと、ソレーヌの痛みはもっと果てしなく、深く、そして冷たい。

「アデルモが死んでしまったのに生きていかなければいけないから!だから!」

彼女は喪った。
愛する人を、喪ったのだ。永遠に奪われた。

「だから正反対の男を愛したとでも?」
「やめて、アレクシウス。もういい」

私はやっと、冷酷な修道騎士に意見することができた。
併しアレクシウスは私を視界の隅にさえ収めることは無く、代わりにソレーヌが私を睨み泣き叫んだ。

「ガイウスなどくれてやる!あんな男は愛していない!ミカエルも要らない!要らない!!私はアデルモの妻よ!アデルモの妻なの!生き残りたくなかった!一緒にッ、一緒に……!!」
「父さんは、あなたを守って死んだと聞きました。生きるべきだ、母さん」
「いやあぁァァ────!!」

慟哭の後、ソレーヌは消えそうな声で弱々しく繰り返し呼び始めた。

アデルモ。
アデルモ。

アデルモ……

そう呼び続けても、二度と、声は返ってはこない。
ソレーヌは昏い孤独を誰にも打ち明けられず、弱い姿さえ見せられず、偽りの自分に逃げるしかなかった。涙は愛する人の栄光を穢してしまうから、哀しみに蓋をした。女騎士だからこそ、わかっていたのだ。

ソレーヌ、と。
たった一度でいいから呼んでほしい、声が聞きたい。

──会いたい。

そう願ったはずだ。
叶わないとわかっていても願い、願う自分を戒め、呪い、誤魔化し、夢を見て、目覚め、絶望を繰り返す。
生きていく地獄が続く。

「……アデルモ……」

私が母を想い泣くように。
父が、母を想い、泣くように。

ソレーヌは今、やっと、泣くことを許せたのだろう。

ふとアレクシウスの顔を見てみたけれど、月灯りは彼の位置までは届かず、その表情を確かめることはできなかった。

その時。

夜風の音に紛れて小さな足音が小屋の中に飛び込んだ。
オリヴァーだった。

「!」

驚いた私が声を発するより早く、一歩を踏み出すより早く、オリヴァーがソレーヌを抱きしめた。

「ア……」

亡き夫を求めて泣きじゃくっていたソレーヌは、小さな抱擁の中で硬直する。

何故、此処に居るのオリヴァー。

そう思いはしたけれど、私は納得した。
ああ、これでいいんだ──と。

「こわかったね」

オリヴァーがソレーヌの髪を撫でる。
小さな体で、それでも力一杯しがみつくのではなく、守るように優しくソレーヌを包んでいる。

「さびしいね」
「ア……ァ……」

ソレーヌの纏う空気が穏やかなものに代わる。

「ごめんなさい……」

吐息ほどの声を洩らし、ソレーヌが膝を擦って少しずつ体勢を整える。小さなオリヴァーに合わせて前屈みに跪き、震える手をオリヴァーの背に添える。

「ごめんなさい」
「へいき。ぼくが、いっしょに待つよ。そうすれば、もう、こわくない?」

オリヴァーがソレーヌを見つめ、額にそっとキスをした。
愛を伝える時、労わる時、慰める時、励ます時、私があの子にするように。

ソレーヌが目を見開き、また一筋涙を流す。
それから、口元が、息子の名を刻んだ。

オリヴァー。

偽りの人生を生きて心から目を背けていたのだろうけれど、ソレーヌが誰も愛せなかったとは思わない。
ほんの一時、たった数ヶ月でも、確かに、愛してくれていたのを知っている。

私はアレクシウスの元へ歩み寄り、ソレーヌの代わりに彼の手を握った。アレクシウスは単純な驚きを示し、私に問いかけるでもなく視線を注いだ。暗くて顔は見えないけれど、感じた。彼は母親を知らない。

アレクシウスが母親に出会うことも、ソレーヌが母親になることも、この先、期待できないかもしれない。
それでも気に掛ける人間がいることを知ってくれたらいい。

早熟な修道騎士の手は大きい。
だから小さな子をあやすように手を握り、重ねて叩く。子守歌の代わりになればいい。

暫くして、静かになった家畜小屋にロージーが戻ってきた。
恐る恐る此方に近づいてくると、ミカエルが恐怖の余り泣き喚き、泣きすぎて吐いたと伝えてくれた。どうやらそれでガイウスたちが慌てふためき、その隙にオリヴァーが大人の慟哭を聞きつけて心配して駆けつけてくれたらしい。

「ごめん」

真剣に謝りながらも、ロージーは一刻も早く私をミカエルのもとへ連れて行きたいようだった。ロージーに目線で促され、私はアレクシウスの手を離した。

ミカエルの状態を聞いてもソレーヌは興味を示さなかった。別れを惜しむようにオリヴァーの頬を撫でていた。
ミカエルは、自分で産んだ子なのに、鞭で打つほど疎ましいのだろうか。愛する夫ではない男性との間に仕方なく作った子、なのだろうか。

「奥様」

呼んでみたけれど、ソレーヌは拒むよう俯いて首を振った。
アレクシウスが先程までの冷酷な怒気など嘘だったかのように、母親の傍らに身を屈める。そして可能な限り優しく声をかけたように聞こえた。

「父さんのところへ帰りますか?」

ソレーヌが頷いたかどうか、私は知らない。ロージーが視界を遮りオリヴァーを抱きあげたからだ。オリヴァーは心配そうにソレーヌを見つめ手を伸ばした。私はその小さな手を握り、キスをした。

「大丈夫よ。あの騎士様に任せましょう」
「……」

オリヴァーは私が言ったから納得はするものの心配は隠さない。
ロージーも心配を隠さない。一刻も早くソレーヌからオリヴァーを引き離し、私をミカエルのもとへ連れて行きたいようで、早足で家畜小屋から出て行ってしまった。私は後を追った。

戸口で思わず振り向くと、アレクシウスが小声でこの先のことを説明しているようだった。ソレーヌは力なく座り込み、両手で顔を覆って泣きながら頷いていた。まるで無力な少女のように、弱々しく、打ちひしがれて、哀しそうだった。

私がソレーヌの姿をこの目に映したのは、これが最後になった。
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