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15(マシュー)
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顔を洗い、口を濯いだ。
こうなった責任は僕にある。だからハリエットを責める気持ちはない。
「……」
否、嘘だ。
酷く裏切られたというか、脅かされた気分だ。でもそれは僕が軟弱者のせいだ。彼女のせいじゃない。
まるで別人だった。
僕の知る、天真爛漫で可憐で無垢な天使ハリエットとは、全くの別人。
併しそれも僕の言い訳に過ぎない。
僕はレイチェルを愛しているつもりで、僕の作り上げた理想のレイチェルを押し付けた。
更には思い通りにならず癇癪を起したようなものなのに、さも自分が拒絶され傷つけられたかのように被害者面を決め込んだ。
同じだ。
僕は、僕の理想とする天使をハリエットに無理矢理押し付けて、その偶像を愛してきたのだろう。
本当のハリエットが、ついさっき僕の唇を奪い求婚を迫った人物だとしたら?
あの手紙で百回近くも死にたいと嘆き悲しむに至った離婚に、相応の理由があったのかもしれないと、そう初めて考えた。
「……っ」
なんて情けないんだ、僕は。
妹みたいに愛してきた小さな女性にキスをされて、自己憐憫に任せて必死で洗うなんて。
せめて罪深い裏切りを悔やんでそうしたかった。
でも、少なくとも僕は、今やるべきことは理解した。
たとえ僕の慰めを求めていようと、それは僕ができる慰めの範囲を超えている。
お互いの為にも、これ以上、傍にいてはいけない。
僕は助けにはならない。
それに、僕にはやらなければならないことがある。
何よりもまずレイチェルに謝罪したい。
僕が許してもらう為ではなく、傷つけた彼女に、まず、とにかく、謝らなければ──
「!?」
扉が秘めやかに叩かれた。
驚いて身を翻した僕は、こちらの返事を待たずに部屋に入って来たのが想定外の人物だったこともあり、訝しむあまり惨めな自己憐憫から僅かに気を逸らせた。
「マシュー」
小走りに駆け込んで来たのはハリエットの母親だった。
僕が幼い頃からおばさんと呼び慕ってきた婦人。その人は切迫した様子で僕の傍まで来ると、目を覗き込んで言った。
「荷物をまとめて」
「え?」
抗いたいわけではない。
むしろ、そうする予定でさえいた。
気になるのは、相手の緊迫感だ。
「どうしたんです?」
「いいから言う通りにして」
従順に従うのは簡単だ。
それは僕が得意とすることでもあり、いちばん楽なことだ。
だからこそ、今はそうしてはいけない気がした。
「何かあったんですか?」
「全て娘を甘やかした私のせいなの。もう巻き込めないわ。だからフィンリー侯爵は先にあなたに手紙を届けようとしたの」
フィンリー侯爵の手紙?
僕宛の短い文面から察するに、同じ内容でないことは確かだ。
先にということは、意図的に数日あけて離婚相手の家にも届けようとしていたのだろうか。距離が違う為に生じる、単なる時差ではなく?
「おじさん……伯爵にも、手紙が?」
「伯爵は今、難しい話し合いをしています。これはブロードベント伯爵家の問題です。あなたには甘えられない」
要領を得ない。
もしかすると、届いた手紙の内容を明かさないことで僕を守ろうとしているのだろうか。
一瞬そんな考えが過ると、心を読んだようにブロードベント伯爵夫人が口元に笑みを刻んだ。
その瞳は悲しそうに揺れていたけれど、声は、深く、優しかった。
「可愛いマシュー。ありがとう。私は、あなたに相応しくないおばさんだったわ」
「そんな……」
「ハリエットのことは忘れて。立派になってください。立派な、伯爵に」
それきり彼女は驚くほど他人行儀な態度をとり、改めて僕に荷造りを命じた。
「娘には顔を見せないで。黙って消えてちょうだい」
わかりました。
僕は心でそう答えたが、無言のまま、迅速にその言葉に従った。
月夜だった。
僕は誰に見送られることもなく、一人静かに、密かにブロードベント伯爵家を後にした。
後日、驚くべき真実が僕をうちのめすが、それはレイチェルに謝罪と後悔を伝えようと奔走したあとのことだった。
こうなった責任は僕にある。だからハリエットを責める気持ちはない。
「……」
否、嘘だ。
酷く裏切られたというか、脅かされた気分だ。でもそれは僕が軟弱者のせいだ。彼女のせいじゃない。
まるで別人だった。
僕の知る、天真爛漫で可憐で無垢な天使ハリエットとは、全くの別人。
併しそれも僕の言い訳に過ぎない。
僕はレイチェルを愛しているつもりで、僕の作り上げた理想のレイチェルを押し付けた。
更には思い通りにならず癇癪を起したようなものなのに、さも自分が拒絶され傷つけられたかのように被害者面を決め込んだ。
同じだ。
僕は、僕の理想とする天使をハリエットに無理矢理押し付けて、その偶像を愛してきたのだろう。
本当のハリエットが、ついさっき僕の唇を奪い求婚を迫った人物だとしたら?
あの手紙で百回近くも死にたいと嘆き悲しむに至った離婚に、相応の理由があったのかもしれないと、そう初めて考えた。
「……っ」
なんて情けないんだ、僕は。
妹みたいに愛してきた小さな女性にキスをされて、自己憐憫に任せて必死で洗うなんて。
せめて罪深い裏切りを悔やんでそうしたかった。
でも、少なくとも僕は、今やるべきことは理解した。
たとえ僕の慰めを求めていようと、それは僕ができる慰めの範囲を超えている。
お互いの為にも、これ以上、傍にいてはいけない。
僕は助けにはならない。
それに、僕にはやらなければならないことがある。
何よりもまずレイチェルに謝罪したい。
僕が許してもらう為ではなく、傷つけた彼女に、まず、とにかく、謝らなければ──
「!?」
扉が秘めやかに叩かれた。
驚いて身を翻した僕は、こちらの返事を待たずに部屋に入って来たのが想定外の人物だったこともあり、訝しむあまり惨めな自己憐憫から僅かに気を逸らせた。
「マシュー」
小走りに駆け込んで来たのはハリエットの母親だった。
僕が幼い頃からおばさんと呼び慕ってきた婦人。その人は切迫した様子で僕の傍まで来ると、目を覗き込んで言った。
「荷物をまとめて」
「え?」
抗いたいわけではない。
むしろ、そうする予定でさえいた。
気になるのは、相手の緊迫感だ。
「どうしたんです?」
「いいから言う通りにして」
従順に従うのは簡単だ。
それは僕が得意とすることでもあり、いちばん楽なことだ。
だからこそ、今はそうしてはいけない気がした。
「何かあったんですか?」
「全て娘を甘やかした私のせいなの。もう巻き込めないわ。だからフィンリー侯爵は先にあなたに手紙を届けようとしたの」
フィンリー侯爵の手紙?
僕宛の短い文面から察するに、同じ内容でないことは確かだ。
先にということは、意図的に数日あけて離婚相手の家にも届けようとしていたのだろうか。距離が違う為に生じる、単なる時差ではなく?
「おじさん……伯爵にも、手紙が?」
「伯爵は今、難しい話し合いをしています。これはブロードベント伯爵家の問題です。あなたには甘えられない」
要領を得ない。
もしかすると、届いた手紙の内容を明かさないことで僕を守ろうとしているのだろうか。
一瞬そんな考えが過ると、心を読んだようにブロードベント伯爵夫人が口元に笑みを刻んだ。
その瞳は悲しそうに揺れていたけれど、声は、深く、優しかった。
「可愛いマシュー。ありがとう。私は、あなたに相応しくないおばさんだったわ」
「そんな……」
「ハリエットのことは忘れて。立派になってください。立派な、伯爵に」
それきり彼女は驚くほど他人行儀な態度をとり、改めて僕に荷造りを命じた。
「娘には顔を見せないで。黙って消えてちょうだい」
わかりました。
僕は心でそう答えたが、無言のまま、迅速にその言葉に従った。
月夜だった。
僕は誰に見送られることもなく、一人静かに、密かにブロードベント伯爵家を後にした。
後日、驚くべき真実が僕をうちのめすが、それはレイチェルに謝罪と後悔を伝えようと奔走したあとのことだった。
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