幼馴染か私か ~あなたが復縁をお望みなんて驚きですわ~

希猫 ゆうみ

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「悲しいけれど、あなたにとっては驚きの大出世ね」

ウォリロウ侯爵夫人がトレヴァーに声を掛ける。

ゴールトン=コリガン辺境伯領の後継者に突如任命されたトレヴァーは、宮殿で諸々の手続きや取り急ぎの挨拶などを済ませた足でセイントメラン城に駆けつけた。本人がそう言っている。

あまり時間はない。
妻の私がいるからこそ先にセイントメラン城に駆けつけたのであって、本来は教皇宮殿へ向かうのが筋だった。

グレース妃はノエル王子を顔の前でぶらぶらしてあやしていた手をその高さのまま止め、無言で、そして真顔で、トレヴァーを凝視した。

「叔父貴チャニング卿には、小さい頃よく遊んでもらいました。もう、会えないなんて……」
「では、あちらで過ごした経験が?」
「はい。俺は五男ですから、貴族という身分以外は受け継ぐもののない気軽な存在として、いろいろと経験させてもらいました。情勢が落ち着いている時期は、あの入り組んだ城下町で、平民のふりをして、友達を作ったり……」

トレヴァーはどこかぼんやりした様子で過去を回想している。
大出世と喜ぶには、叔父上は身近すぎたのだ。

もし二人きりなら、抱きしめて、誰の目にも晒さずに泣かせてあげられるのに……

私は私でオリヴィア姫を抱いているし、今は冷静なウォリロウ侯爵夫人が対応してくれているから口が挟める雰囲気でもない。

ただ、私が視界に収まっていることには意味がある。
もし私が辛い時でも、トレヴァーの存在を確かに感じられるなら、それは何よりも心強い励ましになる。

呆気に取られていた乳母が、ついに我に返り私の腕をそっと叩いてオリヴィア姫の相手を申し出てくれた。私は視線で感謝を示しトレヴァーに寄り添った。

「駄目よ!」

グレース妃が声を張り上げた。
トレヴァーと話していたウォリロウ侯爵夫人も目を瞠り振り向く声量だった。

「え……」

いちばん驚いているのは、勿論、トレヴァー本人だ。
私の心がざわつき始めたのはこの瞬間だった。

「駄目よ。そんな遠くて危ない土地にレイチェルは連れていかせないわ」
「え?」

私も戸惑う。
私は妻だ。当然、ついて行く。行かないという発想はなかった為、それは私の中で選択肢ですらなかった。

「グレース様……」

意地悪でも我儘でもないのはわかっている。
私を心配して、怒ってくれているのだ。わかっているけれど……

「トレヴァー。あなたには国境を守るなんて素晴らしい生き甲斐が出来て良いけれど、レイチェルは女なのよ。そんな予定はなかったのに、他国が攻め込んでくるかもしれない城で、これから……っ」

グレース妃がぽろぽろと涙を零した。
乳母がノエル王子も受け取って片手ずつ抱き、いそいそと部屋の隅まで下がっていく。

グレース妃は自由になった拳を震わせて声を絞り出した。

「あなたの子を産んで、育てるの……!?冗談じゃない。許さないわ。妻は国境警備の合間にだけ愛せばいい人じゃないのよ!」
「グレース様」

興奮してしまったグレース妃を宥めようと、夫から主の方へ向かおうと一歩踏み出した私だったけれど、それが更にグレース妃を昂らせた。

「わかってないわ!死ぬかもしれない場所に行くの!トレヴァーは役目を果たそうと努力をするでしょう。立派よ。あなたの夫は善い人!でも時が来れば夫より領主の道を選ぶわ!そうでないと国境は守れない!」
「……」

母親と姉を亡くしているグレース妃にとって、死は決して遠い空想ではない。
恐がっているのだとわかっているから、胸が痛んだ。

「辺境伯夫人の病気や出産を敵は待ってくれない。寧ろ利用されるかもしれないのよ、レイチェル」

私がトレヴァーの弱点になるか、助けになるか、それは未来の出来事で、決めるのは後世の人々になるだろう。
ただ私個人としては、夫の傍らで人生を歩み、その助けになりたい。私にとって彼がそうであるように。
私たちは夫婦したのだから。

もう二人の運命はひとつなのだ。

「あなたが苦しい時、トレヴァーは傍にいないわ。あなたが悲しい時も、トレヴァーには仕事がある。あなたは幸せになる為に結婚したのに、寂しくて辛くて危険に晒された妻になるの……?」

触れそうな距離まで近づくと、グレース妃は縋るような目を向けて私に問うた。

王弟妃を抱きしめていいものだろうかと、私は迷った。
けれど本能的に腕がぴくりと動いたのをグレース妃は見逃さなかった。

グレース妃が私を抱きしめた。
私はグレース妃の背中に腕を回した。

「死なないで……っ」

私の首筋に顔を埋めてグレース妃が声を震わせる。

グレース妃とて私やトレヴァーに本気で命令したいわけではないのだろう。
私という人間を、グレース妃が自分の為に捻じ曲げるようなことはしないだろう。

私の心がすっと凪いでいく。

ざわついた心でさえも、始めから、揺らいではいなかった。

「グレース様。私は、夫の歩む道を歩みます」
「あなたはトレヴァーの物じゃないわ!馬でも牛でもない!」
「妻だからこそ、夫の支えになりたいのです」
「あなたの人生はどうなるのよ……っ」

月日を重ねる中で私が気づいていたように、グレース妃も気づいているはずだった。
私がグレース妃ほどロマンチックな性格ではないということを。

私は恋焦がれた人と添い遂げたいというより、添い遂げたいと思える人と愛しあいたい女だった。
その思想はマシューとの婚約破棄の後、一層極まったように感じる。

私にとってグレース妃は王弟妃という高貴な存在であると同時に、時には母のように、またある時には姉のように、そしてどうしても必要な時は夫のように励まし支える役目を負った相手だった。
見守るべき、可愛い人だった。

私は微笑んでいた。

「結婚して私はトレヴァーと一つになりました。喜びは二倍に。嘆きは半分に。暫く難しい時期になるでしょうけれど、価値のある試練です」
「ノエルやオリヴィアとさよならできるの!?」
「うっ」

グレース妃が早速切り札を出してきて言葉に詰まる。
そこでトレヴァーがグレース妃に真摯な誓いを立てた。

「妃殿下。俺はレイチェルを愛しています。危険な地でも妻を守り抜くと誓います」
「当たり前よ!」

グレース妃が抱擁から私を解き放ち、自身の怒りも解き放った。

「あなたは妻やそのうち生まれる子どもたちだけじゃなくて、国境付近の民全員の命を守らなきゃいけないの!陛下や殿下と違って物理的にその場でよ!誰が襲って来ても自分が死んでもいけないし、だからって歩兵や農民を盾にしようものなら私があなたを殺す!」
「はいっ」

トレヴァーがグレース妃に気圧されて素直に敬礼している。
私は少し気が和んだ。

「でも、どうしようもなくなったらレイチェルだけは逃がして……っ」
「はいっ」
「あと子どもたちも……っ、私が責任をもって立派に育てますから安心して……っ」
「俺は、し、死にません……!」

一応、これがグレース妃とトレヴァーの和解といえるだろう。
協定とも呼べるかもしれない。

事実がそうなっては困るけれど、今は荒ぶるグレース妃を宥めることこそが重要なのだ。

「私の夫は何処にいるのよ!!」

グレース妃の激情は夫であるクリストファー殿下に請け負ってもらおう。
そのうち帰ってくる。

私は終わりの時を刻み始めた侍女の時間、寂寞とした感慨深さの中で佇んだ。

ゴールトン=コリガン辺境伯夫人。
私の地位は上がり、責任も重くなる。栄誉を喜ぶ気持ちより、重責への恐れが大きい。
トレヴァーは私の比ではないだろう。

だから私たちは、共に人生を歩んでいく。

「……」

ふと気づくとウォリロウ侯爵夫人が私を見つめていた。
深い愛と寂しさを隠した、あの静かな眼差しだった。
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