幸せな殺人

怠け者は電気羊の夢を見るか

文字の大きさ
1 / 2

プロローグ:微笑む墜落

しおりを挟む
 泣くのって、体力を使う。
 涙は勝手に出るくせに、喉はカラカラになるし、息は浅くなるし、頭の内側だけが熱を持っていく。世界はいつも通りに回ってるのに、自分だけが置き去りにされる。たぶん、こういうのを「孤独」って呼ぶんだろうね。便利な単語だ。説明を丸ごと省略できる。
 ――もう、疲れちゃった。
 その言葉を、家では言えない。
 言った瞬間に「甘えるな」って返ってくるのが分かってるから。机の上の参考書の山と、塾のプリントの束と、スマホの通知と、父の声。全部が「まだ足りない」と言ってくる。足りない、足りない、足りない。私が足りない。私の人生が足りない。
 だから私は、ここにいる。
 五月の終わり。通学時間帯の新宿。
 ビルの屋上は、地上の喧騒が嘘みたいに遠かった。風は強めで、制服のスカートがひゅっと持ち上がる。髪が頬を叩いて、目に入って、でもその不快感すら、今は「どうでもいい」に分類される。
 コンクリの床は、夜露になる前の湿り気を薄く抱えている。靴底が少しだけ吸い付いて、「きゅ」と鳴る。屋上の隅には錆びた室外機が並び、白い配管テープはところどころ剥がれて黒ずんでいた。手すりは冷たく、金属の匂いがした。
 私は縁に立った。
 高いところが怖いかどうか、今はよく分からない。怖いって感情が、どこかに置き忘れられてる。
 スマホの画面には、通話時間だけが伸びていた。
 00:01:41、00:01:42……秒だけが律儀に増えていく。
 相手の言っていることは、よく分からない。
 でも、“優しい”ってことだけは分かる。布団の中みたいにぬるくて、頭を撫でられてるみたいで、呼吸の仕方まで思い出させてくれる。
 「……怒らないんだ」
 声が擦れて、自分の声じゃないみたいだった。
 「じゃあ、“罪”じゃない?」
 優しく肯定される。
 息が整っていく。涙が止まるとか、気が晴れるとか、そういう優しい変化じゃない。胸に刺さっていた針が、誰かの手で一本ずつ抜かれていくみたいに、痛みの“意味”だけが薄くなる。
 「約束だからね」
 その言葉を言った瞬間、口角だけが先に上がった。
 笑う予定なんて、なかった。今朝だって鏡の前で口角を上げる練習をしたのに、上手くできなくて、逆に腹が立ったのに。
 風が髪を乱す。
 なのに、身体は妙に安定していた。迷いの揺れが、ない。
 縁のコンクリートに手を置くと、冷たさが骨まで染みて、その冷たさが逆にありがたかった。現実ってこういうものだよね、って最後に確認できる。
 スマホを握り直す。
 相手は何か言っている。たぶん止めてるのかもしれない。あるいは背中を押してるのかもしれない。どっちでもいい。
 だって、その声は優しいから。
 それで――私の視線が、スマホの向こうじゃなくて。
 空に合った。
 星でも、飛行機の光でも、ビルの赤い点滅でもない。何もないはずの一点。そこに“誰か”がいるみたいに、私は見つめた。見つめてしまった。
 「……これで、天国に行ける」
 自分の声が、願望じゃなくて確信に聞こえた。
 ためらいって、こんなに簡単に消えるものだったっけ。
 柵の向こうに見えたのは、新宿の朝だった。
 改札へ急ぐ人の波、バスの白い車体、ガラスに反射した空。街が、私のほうへ迫ってくる。
 ――飛んでいる。

   ◇   ◇   ◇

 その瞬間が「飛んだ」のか「落ちた」のか。
 誰も、正確には言えない。
 新宿の交差点は、朝の匂いがしていた。
 通勤のスーツ、通学の制服、観光のキャリーケース。信号待ちの人たち。ビルの壁はガラスで、空を反射して、偽りの雲が見える。
 ――それが、割れた。
 上から落ちてきたのは、制服の少女だった。
 落下の音は、遅れて届いた。まず悲鳴が上がり、次に群衆が一瞬だけ硬直して、そして一斉に後ろへ引いた。誰かが叫ぶ。誰かがスマホを構える。誰かが走り寄ろうとして、足が止まる。
 アスファルトに叩きつけられた身体は、誰が見ても助からない。
 なのに、即死ではなかった。
 赤い血がアスファルトに羽のように広がる。口元から泡混じりの血があふれて、制服の襟を濡らす。胸が上下する。微かに。
 そして――少女は、笑っていた。
 苦痛死のはずなのに、眉間のしわが少ない。目の焦点が合っている。口元だけがほどけていて、その笑顔が「耐えてる」じゃなく、「安心してる」に見えた。
 駆け寄った通行人が、震える手で近づく。
 触れたら崩れそうで、触れたら現実が確定してしまいそうで、手が宙で止まる。
 少女は、その人の目を見た。
 「これで天国に行ける」
 息のはずの言葉が、血と一緒に吐き出された。
 願望じゃない。祈りでもない。
 確信だった。
 遠くでサイレンが鳴り始めた。
 街の音が一段だけ遠くなる。
 ……この出来事は、あとで「自殺」と呼ばれる。
 そう呼ぶための条件が、いくつも揃っているからだ。
 でも、その条件の隙間に、ひどく柔らかい何かが入り込んでいた。
 それが何かを、まだ誰も知らない。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く

ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。 5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。 夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…

いや、あんたらアホでしょ

青太郎
恋愛
約束は3年。 3年経ったら離縁する手筈だったのに… 彼らはそれを忘れてしまったのだろうか。 全7話程の短編です。

(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」

音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。 本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。 しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。 *6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。

父が再婚しました

Ruhuna
ファンタジー
母が亡くなって1ヶ月後に 父が再婚しました

愛していました。待っていました。でもさようなら。

彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。 やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。

【完結】あなたに知られたくなかった

ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。 5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。 そんなセレナに起きた奇跡とは?

処理中です...