6月20日、午後3時

夢織機

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6月20日、午後3時

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 一.

 祖母の葬儀が終わって三日が過ぎても、菜月の胸には実感が湧かなかった。
 
 線香の匂いと弔問客の声が遠のいて、ようやく静寂が戻った古い家で、彼女は一人遺品の整理を続けていた。母は仕事で東京に戻り、父は手続きのため役場を回っている。この山奥の村に残されたのは菜月だけだった。

 畳の上に積まれた段ボール箱の中から、色褪せたアルバムが出てきた。表紙には「昭和四十三年度 三年松組」と丁寧な筆文字で書かれている。祖母の鶴子が小学校教師をしていた頃のものだろう。

 ぱらぱらとページをめくると、白黒の集合写真に子どもたちの笑顔が並んでいる。どの子も今では菜月の親世代になっているはずだった。祖母は写真の隅で、若々しい顔立ちで子どもたちを見守っている。

 その時、アルバムの間から一枚の小さな紙切れがひらりと落ちた。

 拾い上げると、それは便箋を四つ折りにしたもので、祖母の筆跡でこう記されていた。

『6月20日 午後3時 教室で待っています』

 日付はない。いつ書かれたものかも分からない。だが、明日が6月20日だということに菜月は気づいた。

 教室、という言葉が心に引っかかった。祖母が勤めていた椿野小学校は、過疎化の波に押され、今年度末で廃校が決まっている。既に子どもたちは隣町の学校に統合され、校舎は空っぽのはずだった。

 菜月は紙切れを見つめた。祖母の几帳面な性格を知っている。意味もなくこんなメモを残すとは思えない。

 窓の外では、夕暮れが山の向こうに沈もうとしていた。


二.

 翌日の午後2時半、菜月は椿野小学校の正門に立っていた。

 錆びた鉄製の門扉は半分開いたまま動かなくなっている。「椿野小学校」と刻まれた石の表札は苔に覆われ、読み取るのがやっとだった。

 校舎は築五十年を超える木造建築で、外壁の塗装は剥がれ、窓ガラスの一部にはひびが入っている。校庭の隅には錆びた鉄棒とブランコが、使われることなく雨風に晒されていた。

 職員室の窓に明かりが見えた。廃校の手続きを進めている職員が常駐しているらしい。菜月は職員室のドアをノックした。

「はい」という声がして、五十代ほどの男性が現れた。

「すみません、突然お邪魔して。私、村田鶴子の孫の菜月と申します」

 男性の目が少し丸くなった。

「鶴子先生の。私は木村です。昔、鶴子先生に教わりました」

 木村と名乗った男性は、菜月を職員室に招き入れた。古いストーブの上でやかんが湯気を上げている。

「お悔やみ申し上げます。鶴子先生には、本当にお世話になりました」

「ありがとうございます。あの、お聞きしたいことがあるのですが」

 菜月は例の紙切れを見せた。木村さんは眉をひそめて、しばらくそれを見つめていた。

「6月20日、ですか」

「今日なんです。何かご存じありませんか」

 木村さんは困ったような表情を浮かべた。

「正直に申し上げると、何かはあるんでしょう。でも私には分からない。ただ」

 彼は窓の外を見た。

「鶴子先生が最後に勤務されたのは三年松組でした。あの教室です」

 指差す方向に、二階の一室が見えた。

「今でも入れるんですか」

「ええ。施錠はしていますが、職員室に鍵があります。でも」

 木村さんは躊躇うように言葉を区切った。

「何もないかもしれませんよ」

「それでも、行ってみたいんです」

 木村さんは少し考えてから、机の引き出しから古い真鍮の鍵を取り出した。

「三年松組の教室です。何か異常があったら、すぐに戻ってきてください」

 菜月は鍵を受け取り、お礼を言って職員室を出た。


三.

 木造の廊下は、足音が響くたびにきしんだ。壁には子どもたちの作品を貼った跡があちこちに残り、画鋲の穴が無数に開いている。

 階段を上がると、廊下の奥に「三年松組」と書かれた木の札が見えた。菜月は鍵穴に鍵を差し込み、ゆっくりと回した。

 ガチャリという音とともに、扉が開いた。

 教室の中は薄暗く、夕陽が西向きの窓から斜めに差し込んでいる。机と椅子は整然と並べられ、まるで今でも授業が行われているかのようだった。

 黒板の上には大きな時計が掛かっている。針は2時40分を指したまま止まっていた。

 菜月は教室に足を踏み入れた。床板がミシリと鳴る。

 前方の教卓には、まだチョークが置かれている。黒板には薄っすらと文字の跡が残っていた。よく見ると「6月20日」と書かれているようだった。

 午後3時まで、あと20分。

 菜月は窓際の席に座り、外を眺めた。山の緑が風に揺れ、遠くで鳥の声がしている。

 ふと、教室に人の気配を感じた。

 振り返ると、いくつかの机に子どもたちが座っていた。

 菜月の心臓が跳ね上がった。しかし、恐怖よりも困惑が先に立った。子どもたちは音もなく、まるで最初からそこにいたかのように座っている。

 男の子が二人、女の子が三人。年齢は8歳から9歳くらいだろうか。みな昭和の子どもらしい服装をしている。男の子は白いシャツに半ズボン、女の子は紺色のワンピースに白い襟。

 だが、彼らは透けていた。夕陽が体を素通りして、机に影を落としている。

 菜月は立ち上がろうとしたが、足がすくんで動けなかった。子どもたちは彼女を見ているようで見ていない。何かを待っているような、じっと前を向いた姿勢を保っている。

 やがて、時計の針が動いた。

 カチ、カチ、カチ。

 長い間止まっていたはずの時計が、ゆっくりと時を刻み始めた。

 2時45分、2時50分、2時55分。

 そして、午後3時ちょうどに時計の針が重なった時、教室の扉が静かに開いた。

 現れたのは若い頃の祖母だった。

 菜月が知っている皺の刻まれた顔ではなく、アルバムで見た二十代の鶴子だった。紺色のスーツに白いブラウス、髪を後ろで結んだ清楚な姿。

 祖母は教卓に向かい、振り返って子どもたちに微笑みかけた。

「みなさん、よく来てくれました」

 優しい声だった。菜月の記憶にある祖母の声に間違いない。

 子どもたちは一斉に立ち上がり、お辞儀をした。

「鶴子先生」

 小さな声で、みんなが呼んだ。

 祖母は黒板に向かい、チョークで何かを書き始めた。

『ありがとう』

 大きな、丁寧な文字だった。

「みなさんに、お礼を言いたくて」

 祖母は振り返った。

「あの日、私は皆さんを守れませんでした。でも、皆さんは最後まで私を信じてくれた。それがどれほど嬉しかったか」

 子どもたちの中で、一人の女の子が手を挙げた。

「先生、私たちは先生が大好きでした」

「私たちは怖くなかったです」

「先生がいてくれたから」

 次々と、子どもたちが口を開いた。

 菜月には状況が掴めなかった。何の話をしているのか。「あの日」とは何を指すのか。

 祖母は涙を浮かべていた。

「ありがとう。でも、もう大丈夫です。皆さんは自由になっていいんです」

「でも先生」

 一人の男の子が言った。

「先生が一人になっちゃいます」

 祖母は首を横に振った。

「私には、家族がいます。大切な孫がいます」

 その時、祖母の視線が菜月に向けられた。

「菜月」

 菜月の名前を呼んだ。

「ここにいるのね」

 菜月は動けなかった。声も出なかった。

「この子たちはね、50年間ずっと私を待っていてくれたの。私が年老いて、この世を去る時まで」

 祖母は菜月に近づいてきた。

「あの日、大雨で川が氾濫して、この子たちは帰れなくなった。私は一晩中、この教室でみんなと過ごしたの。朝になって救助が来るまで」

 菜月の記憶が甦った。祖母から聞いた話だ。昭和43年の豪雨災害。多くの家屋が浸水し、道路が寸断された。

「でも、この子たちの家族は」

 祖母の声が震えた。

「みんな、濁流に飲まれてしまった。この子たちだけが、学校にいたから助かったはずだったのに」

 菜月は息を呑んだ。

「助かったはず、というのは」

「翌朝、この子たちは姿を消していたの。きっと家族を探しに行ったのでしょう。そして」

 祖母は振り返り、子どもたちを見つめた。

「みんな、見つからなかった」

 子どもたちは静かに立っていた。悲しそうでも、寂しそうでもない。ただ、祖母を見つめている。

「私はずっと自分を責めていた。どうして止めなかったのかって。どうして一緒についていかなかったのかって」

 祖母は菜月の手を取った。温かかった。

「でも、この子たちは私を恨んでいなかった。ずっと、私のそばにいてくれた。見えない所で、私を支えてくれていた」

 菜月は気づいた。祖母が一人で暮らしていた時も、決して寂しそうではなかった理由を。時々、誰かと話をしているような気配があった理由を。

「先生」

 子どもたちが口を揃えて言った。

「私たちは、先生と一緒にいられて幸せでした」

「でも、もう行きます」

「家族が呼んでいます」

「ようやく、会えそうです」

 子どもたちの体が、少しずつ光っていった。

 祖母は深くお辞儀をした。

「ありがとう。本当に、ありがとう」

 子どもたちも、最後のお辞儀をした。

 そして、一人ずつ、光の中に消えていった。

 最後に残った女の子が、菜月に微笑みかけた。

「お姉ちゃん、鶴子先生をよろしくね」

 その声は風のように軽やかで、やがて聞こえなくなった。

 教室には、菜月と祖母だけが残された。

「おばあちゃん」

 ようやく、菜月は声を出せた。

「どうして、私に分かるように残してくれたの」

 祖母は微笑んだ。

「あなたなら、きっと来てくれると思ったから。そして、この子たちを見ても、逃げ出さずにいてくれると思ったから」

「どうして?」

「あなたは優しい子だから。本当は、とても優しい子だということを、私は知っているから」

 菜月の目に涙が浮かんだ。

「私、おばあちゃんにちゃんとお礼を言えなかった。いつも素っ気なくして、迷惑ばかりかけて」

「迷惑だなんて」

 祖母は首を振った。

「あなたが来てくれるだけで、私は嬉しかった。夏休みに一人でやってきて、宿題を一緒にやったり、川で魚を取ったり。あの時間が、私にはかけがえのない宝物だった」

 菜月は声を上げて泣いた。

「おばあちゃん」

「私も、もう行かなくちゃ」

 祖母の体も、薄っすらと光り始めていた。

「でも、寂しくないの。あの子たちが、向こうで待っていてくれているから」

「私は?」

「あなたは、これからたくさんの人と出会って、たくさんの経験をするの。そして、いつか誰かの記憶の中で生き続ける人になる」

 祖母は菜月の頬に手を当てた。

「記憶は、愛なのよ。誰かを想う気持ちが、その人を永遠にするの」

 光が強くなった。

「さようなら、菜月。大好きよ」

「おばあちゃん、私も。私も大好き」

 祖母の姿が光の中に溶けていく。

「忘れないで。みんなのことを」

 最後の言葉が、風に乗って届いた。

 そして、教室に静寂が戻った。

 時計は再び止まっていた。針は午後3時を指したまま。

 黒板には、『ありがとう』の文字が残っていた。


四.

 木村さんが心配して迎えに来た時、菜月は窓際の席で静かに座っていた。

「どうでしたか」

「おばあちゃんに会えました」

 木村さんは何も言わずに頷いた。

「そうですか」

 教室を出る前に、菜月は黒板を見上げた。『ありがとう』の文字は薄くなっていたが、まだ読み取れた。

「木村さん」

「はい」

「昭和43年の豪雨の時、行方不明になった子どもたちのことを教えてください」

 木村さんは長い息を吐いた。

「やはり、ご存じでしたか」

 職員室で、木村さんは古いファイルを取り出した。

「田中雄一君、佐藤花子さん、山田次郎君、鈴木美和さん、高橋三郎君。5人の子どもたちです。皆、鶴子先生の教え子でした」

 菜月は名前を心に刻んだ。

「遺体は?」

「結局、見つからなかった。川が山から海まで流れているので、どこに流されたか」

 木村さんは写真を見せてくれた。白黒の集合写真の中で、5人の子どもたちが笑っている。

「鶴子先生は、最後まで自分を責めていました。私たち教え子が大人になってから、よく話をしたんです。『あの子たちを止められなかった』って、何度も」

「でも、先生は悪くない」

「分かっています。私たちも、そう言い続けました。でも、先生は」

 木村さんは窓の外を見た。

「最後まで、あの子たちのことを忘れなかった」

 菜月は立ち上がった。

「ありがとうございます。おばあちゃんのこと、よく知ることができました」

 職員室を出る時、木村さんが声をかけた。

「菜月さん」

「はい」

「鶴子先生は、きっと安らかになられたと思います」

 菜月は振り返って、深くお辞儀をした。


五.

 一週間後、菜月は再び椿野小学校を訪れた。今度は、花束を持って。

 校門の前で、石に刻まれた小さな慰霊碑を見つけた。「昭和四十三年豪雨災害犠牲者追悼」と書かれている。その下に、5人の名前が刻まれていた。

 菜月は花束を供え、手を合わせた。

「田中雄一君、佐藤花子さん、山田次郎君、鈴木美和さん、高橋三郎君」

 一人ずつ、名前を呼んだ。

「おばあちゃんが、皆さんのことを教えてくれました。皆さんがいてくれたから、おばあちゃんは一人じゃなかった。ありがとうございました」

 風が頬を撫でていった。どこか懐かしい匂いがした。

 菜月は立ち上がり、校舎を見上げた。二階の三年松組の窓が夕陽を反射して光っている。

 その時、窓の向こうに人影が見えた気がした。

 手を振っている小さな影が、五つ。

 菜月も手を振り返した。

 影はゆらゆらと揺れて、やがて見えなくなった。

 でも、菜月は確信していた。もう彼らは、あの教室にはいない。家族の元に帰ったのだ。そして、祖母も。

 帰り道、菜月は母に電話をかけた。

「お疲れさま。どう、片付けは進んでる?」

「うん。もう少しで終わる」

「そう。無理しないでよ」

「お母さん」

「何?」

「おばあちゃんの話、もっと聞かせて」

 電話の向こうで、母が少し驚いたような声を出した。

「急にどうしたの?」

「おばあちゃんのこと、ちゃんと知りたいの。どんな人だったか、どんな先生だったか」

「そうね。いつでも話すわ。おばあちゃんは、本当に素敵な人だった」

 菜月は空を見上げた。夕陽が山の向こうに沈もうとしている。

「ありがとう」

 その言葉は、母にも、祖母にも、そして見えない誰かにも向けられていた。

 椿野小学校は、予定通り取り壊される。でも、そこにあった記憶は、菜月の心の中で生き続ける。

 人の記憶は、愛によって継がれていく。

 祖母が教えてくれた、大切な真実だった。

 ---

 一年後、菜月は大学の推薦入試の面接で、将来の夢を聞かれた。

「教師になりたいです」

 面接官が理由を尋ねた。

「私の祖母が教師でした。祖母から、教育の大切さを学びました」

 それは嘘ではなかった。

 あの日、三年松組の教室で、菜月は本当の授業を受けたのだから。

 記憶を継ぐこと。愛を伝えること。誰かの心に灯を点すこと。

 それが、教師の仕事なのだと。

 面接が終わって外に出ると、風が頬を撫でていった。

 どこか懐かしい匂いがした。

 菜月は空を見上げて、小さく微笑んだ。

 きっと、どこかで見守ってくれている。

 祖母も、あの子どもたちも。

 そして、いつか菜月も、誰かの記憶の中で生き続けるのだろう。

 その時まで、大切に生きていこう。

 たくさんの人を愛して、たくさんの人に愛されて。

 記憶という名の、永遠の教室で。
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