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6月20日、午後3時
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一.
祖母の葬儀が終わって三日が過ぎても、菜月の胸には実感が湧かなかった。
線香の匂いと弔問客の声が遠のいて、ようやく静寂が戻った古い家で、彼女は一人遺品の整理を続けていた。母は仕事で東京に戻り、父は手続きのため役場を回っている。この山奥の村に残されたのは菜月だけだった。
畳の上に積まれた段ボール箱の中から、色褪せたアルバムが出てきた。表紙には「昭和四十三年度 三年松組」と丁寧な筆文字で書かれている。祖母の鶴子が小学校教師をしていた頃のものだろう。
ぱらぱらとページをめくると、白黒の集合写真に子どもたちの笑顔が並んでいる。どの子も今では菜月の親世代になっているはずだった。祖母は写真の隅で、若々しい顔立ちで子どもたちを見守っている。
その時、アルバムの間から一枚の小さな紙切れがひらりと落ちた。
拾い上げると、それは便箋を四つ折りにしたもので、祖母の筆跡でこう記されていた。
『6月20日 午後3時 教室で待っています』
日付はない。いつ書かれたものかも分からない。だが、明日が6月20日だということに菜月は気づいた。
教室、という言葉が心に引っかかった。祖母が勤めていた椿野小学校は、過疎化の波に押され、今年度末で廃校が決まっている。既に子どもたちは隣町の学校に統合され、校舎は空っぽのはずだった。
菜月は紙切れを見つめた。祖母の几帳面な性格を知っている。意味もなくこんなメモを残すとは思えない。
窓の外では、夕暮れが山の向こうに沈もうとしていた。
二.
翌日の午後2時半、菜月は椿野小学校の正門に立っていた。
錆びた鉄製の門扉は半分開いたまま動かなくなっている。「椿野小学校」と刻まれた石の表札は苔に覆われ、読み取るのがやっとだった。
校舎は築五十年を超える木造建築で、外壁の塗装は剥がれ、窓ガラスの一部にはひびが入っている。校庭の隅には錆びた鉄棒とブランコが、使われることなく雨風に晒されていた。
職員室の窓に明かりが見えた。廃校の手続きを進めている職員が常駐しているらしい。菜月は職員室のドアをノックした。
「はい」という声がして、五十代ほどの男性が現れた。
「すみません、突然お邪魔して。私、村田鶴子の孫の菜月と申します」
男性の目が少し丸くなった。
「鶴子先生の。私は木村です。昔、鶴子先生に教わりました」
木村と名乗った男性は、菜月を職員室に招き入れた。古いストーブの上でやかんが湯気を上げている。
「お悔やみ申し上げます。鶴子先生には、本当にお世話になりました」
「ありがとうございます。あの、お聞きしたいことがあるのですが」
菜月は例の紙切れを見せた。木村さんは眉をひそめて、しばらくそれを見つめていた。
「6月20日、ですか」
「今日なんです。何かご存じありませんか」
木村さんは困ったような表情を浮かべた。
「正直に申し上げると、何かはあるんでしょう。でも私には分からない。ただ」
彼は窓の外を見た。
「鶴子先生が最後に勤務されたのは三年松組でした。あの教室です」
指差す方向に、二階の一室が見えた。
「今でも入れるんですか」
「ええ。施錠はしていますが、職員室に鍵があります。でも」
木村さんは躊躇うように言葉を区切った。
「何もないかもしれませんよ」
「それでも、行ってみたいんです」
木村さんは少し考えてから、机の引き出しから古い真鍮の鍵を取り出した。
「三年松組の教室です。何か異常があったら、すぐに戻ってきてください」
菜月は鍵を受け取り、お礼を言って職員室を出た。
三.
木造の廊下は、足音が響くたびにきしんだ。壁には子どもたちの作品を貼った跡があちこちに残り、画鋲の穴が無数に開いている。
階段を上がると、廊下の奥に「三年松組」と書かれた木の札が見えた。菜月は鍵穴に鍵を差し込み、ゆっくりと回した。
ガチャリという音とともに、扉が開いた。
教室の中は薄暗く、夕陽が西向きの窓から斜めに差し込んでいる。机と椅子は整然と並べられ、まるで今でも授業が行われているかのようだった。
黒板の上には大きな時計が掛かっている。針は2時40分を指したまま止まっていた。
菜月は教室に足を踏み入れた。床板がミシリと鳴る。
前方の教卓には、まだチョークが置かれている。黒板には薄っすらと文字の跡が残っていた。よく見ると「6月20日」と書かれているようだった。
午後3時まで、あと20分。
菜月は窓際の席に座り、外を眺めた。山の緑が風に揺れ、遠くで鳥の声がしている。
ふと、教室に人の気配を感じた。
振り返ると、いくつかの机に子どもたちが座っていた。
菜月の心臓が跳ね上がった。しかし、恐怖よりも困惑が先に立った。子どもたちは音もなく、まるで最初からそこにいたかのように座っている。
男の子が二人、女の子が三人。年齢は8歳から9歳くらいだろうか。みな昭和の子どもらしい服装をしている。男の子は白いシャツに半ズボン、女の子は紺色のワンピースに白い襟。
だが、彼らは透けていた。夕陽が体を素通りして、机に影を落としている。
菜月は立ち上がろうとしたが、足がすくんで動けなかった。子どもたちは彼女を見ているようで見ていない。何かを待っているような、じっと前を向いた姿勢を保っている。
やがて、時計の針が動いた。
カチ、カチ、カチ。
長い間止まっていたはずの時計が、ゆっくりと時を刻み始めた。
2時45分、2時50分、2時55分。
そして、午後3時ちょうどに時計の針が重なった時、教室の扉が静かに開いた。
現れたのは若い頃の祖母だった。
菜月が知っている皺の刻まれた顔ではなく、アルバムで見た二十代の鶴子だった。紺色のスーツに白いブラウス、髪を後ろで結んだ清楚な姿。
祖母は教卓に向かい、振り返って子どもたちに微笑みかけた。
「みなさん、よく来てくれました」
優しい声だった。菜月の記憶にある祖母の声に間違いない。
子どもたちは一斉に立ち上がり、お辞儀をした。
「鶴子先生」
小さな声で、みんなが呼んだ。
祖母は黒板に向かい、チョークで何かを書き始めた。
『ありがとう』
大きな、丁寧な文字だった。
「みなさんに、お礼を言いたくて」
祖母は振り返った。
「あの日、私は皆さんを守れませんでした。でも、皆さんは最後まで私を信じてくれた。それがどれほど嬉しかったか」
子どもたちの中で、一人の女の子が手を挙げた。
「先生、私たちは先生が大好きでした」
「私たちは怖くなかったです」
「先生がいてくれたから」
次々と、子どもたちが口を開いた。
菜月には状況が掴めなかった。何の話をしているのか。「あの日」とは何を指すのか。
祖母は涙を浮かべていた。
「ありがとう。でも、もう大丈夫です。皆さんは自由になっていいんです」
「でも先生」
一人の男の子が言った。
「先生が一人になっちゃいます」
祖母は首を横に振った。
「私には、家族がいます。大切な孫がいます」
その時、祖母の視線が菜月に向けられた。
「菜月」
菜月の名前を呼んだ。
「ここにいるのね」
菜月は動けなかった。声も出なかった。
「この子たちはね、50年間ずっと私を待っていてくれたの。私が年老いて、この世を去る時まで」
祖母は菜月に近づいてきた。
「あの日、大雨で川が氾濫して、この子たちは帰れなくなった。私は一晩中、この教室でみんなと過ごしたの。朝になって救助が来るまで」
菜月の記憶が甦った。祖母から聞いた話だ。昭和43年の豪雨災害。多くの家屋が浸水し、道路が寸断された。
「でも、この子たちの家族は」
祖母の声が震えた。
「みんな、濁流に飲まれてしまった。この子たちだけが、学校にいたから助かったはずだったのに」
菜月は息を呑んだ。
「助かったはず、というのは」
「翌朝、この子たちは姿を消していたの。きっと家族を探しに行ったのでしょう。そして」
祖母は振り返り、子どもたちを見つめた。
「みんな、見つからなかった」
子どもたちは静かに立っていた。悲しそうでも、寂しそうでもない。ただ、祖母を見つめている。
「私はずっと自分を責めていた。どうして止めなかったのかって。どうして一緒についていかなかったのかって」
祖母は菜月の手を取った。温かかった。
「でも、この子たちは私を恨んでいなかった。ずっと、私のそばにいてくれた。見えない所で、私を支えてくれていた」
菜月は気づいた。祖母が一人で暮らしていた時も、決して寂しそうではなかった理由を。時々、誰かと話をしているような気配があった理由を。
「先生」
子どもたちが口を揃えて言った。
「私たちは、先生と一緒にいられて幸せでした」
「でも、もう行きます」
「家族が呼んでいます」
「ようやく、会えそうです」
子どもたちの体が、少しずつ光っていった。
祖母は深くお辞儀をした。
「ありがとう。本当に、ありがとう」
子どもたちも、最後のお辞儀をした。
そして、一人ずつ、光の中に消えていった。
最後に残った女の子が、菜月に微笑みかけた。
「お姉ちゃん、鶴子先生をよろしくね」
その声は風のように軽やかで、やがて聞こえなくなった。
教室には、菜月と祖母だけが残された。
「おばあちゃん」
ようやく、菜月は声を出せた。
「どうして、私に分かるように残してくれたの」
祖母は微笑んだ。
「あなたなら、きっと来てくれると思ったから。そして、この子たちを見ても、逃げ出さずにいてくれると思ったから」
「どうして?」
「あなたは優しい子だから。本当は、とても優しい子だということを、私は知っているから」
菜月の目に涙が浮かんだ。
「私、おばあちゃんにちゃんとお礼を言えなかった。いつも素っ気なくして、迷惑ばかりかけて」
「迷惑だなんて」
祖母は首を振った。
「あなたが来てくれるだけで、私は嬉しかった。夏休みに一人でやってきて、宿題を一緒にやったり、川で魚を取ったり。あの時間が、私にはかけがえのない宝物だった」
菜月は声を上げて泣いた。
「おばあちゃん」
「私も、もう行かなくちゃ」
祖母の体も、薄っすらと光り始めていた。
「でも、寂しくないの。あの子たちが、向こうで待っていてくれているから」
「私は?」
「あなたは、これからたくさんの人と出会って、たくさんの経験をするの。そして、いつか誰かの記憶の中で生き続ける人になる」
祖母は菜月の頬に手を当てた。
「記憶は、愛なのよ。誰かを想う気持ちが、その人を永遠にするの」
光が強くなった。
「さようなら、菜月。大好きよ」
「おばあちゃん、私も。私も大好き」
祖母の姿が光の中に溶けていく。
「忘れないで。みんなのことを」
最後の言葉が、風に乗って届いた。
そして、教室に静寂が戻った。
時計は再び止まっていた。針は午後3時を指したまま。
黒板には、『ありがとう』の文字が残っていた。
四.
木村さんが心配して迎えに来た時、菜月は窓際の席で静かに座っていた。
「どうでしたか」
「おばあちゃんに会えました」
木村さんは何も言わずに頷いた。
「そうですか」
教室を出る前に、菜月は黒板を見上げた。『ありがとう』の文字は薄くなっていたが、まだ読み取れた。
「木村さん」
「はい」
「昭和43年の豪雨の時、行方不明になった子どもたちのことを教えてください」
木村さんは長い息を吐いた。
「やはり、ご存じでしたか」
職員室で、木村さんは古いファイルを取り出した。
「田中雄一君、佐藤花子さん、山田次郎君、鈴木美和さん、高橋三郎君。5人の子どもたちです。皆、鶴子先生の教え子でした」
菜月は名前を心に刻んだ。
「遺体は?」
「結局、見つからなかった。川が山から海まで流れているので、どこに流されたか」
木村さんは写真を見せてくれた。白黒の集合写真の中で、5人の子どもたちが笑っている。
「鶴子先生は、最後まで自分を責めていました。私たち教え子が大人になってから、よく話をしたんです。『あの子たちを止められなかった』って、何度も」
「でも、先生は悪くない」
「分かっています。私たちも、そう言い続けました。でも、先生は」
木村さんは窓の外を見た。
「最後まで、あの子たちのことを忘れなかった」
菜月は立ち上がった。
「ありがとうございます。おばあちゃんのこと、よく知ることができました」
職員室を出る時、木村さんが声をかけた。
「菜月さん」
「はい」
「鶴子先生は、きっと安らかになられたと思います」
菜月は振り返って、深くお辞儀をした。
五.
一週間後、菜月は再び椿野小学校を訪れた。今度は、花束を持って。
校門の前で、石に刻まれた小さな慰霊碑を見つけた。「昭和四十三年豪雨災害犠牲者追悼」と書かれている。その下に、5人の名前が刻まれていた。
菜月は花束を供え、手を合わせた。
「田中雄一君、佐藤花子さん、山田次郎君、鈴木美和さん、高橋三郎君」
一人ずつ、名前を呼んだ。
「おばあちゃんが、皆さんのことを教えてくれました。皆さんがいてくれたから、おばあちゃんは一人じゃなかった。ありがとうございました」
風が頬を撫でていった。どこか懐かしい匂いがした。
菜月は立ち上がり、校舎を見上げた。二階の三年松組の窓が夕陽を反射して光っている。
その時、窓の向こうに人影が見えた気がした。
手を振っている小さな影が、五つ。
菜月も手を振り返した。
影はゆらゆらと揺れて、やがて見えなくなった。
でも、菜月は確信していた。もう彼らは、あの教室にはいない。家族の元に帰ったのだ。そして、祖母も。
帰り道、菜月は母に電話をかけた。
「お疲れさま。どう、片付けは進んでる?」
「うん。もう少しで終わる」
「そう。無理しないでよ」
「お母さん」
「何?」
「おばあちゃんの話、もっと聞かせて」
電話の向こうで、母が少し驚いたような声を出した。
「急にどうしたの?」
「おばあちゃんのこと、ちゃんと知りたいの。どんな人だったか、どんな先生だったか」
「そうね。いつでも話すわ。おばあちゃんは、本当に素敵な人だった」
菜月は空を見上げた。夕陽が山の向こうに沈もうとしている。
「ありがとう」
その言葉は、母にも、祖母にも、そして見えない誰かにも向けられていた。
椿野小学校は、予定通り取り壊される。でも、そこにあった記憶は、菜月の心の中で生き続ける。
人の記憶は、愛によって継がれていく。
祖母が教えてくれた、大切な真実だった。
---
一年後、菜月は大学の推薦入試の面接で、将来の夢を聞かれた。
「教師になりたいです」
面接官が理由を尋ねた。
「私の祖母が教師でした。祖母から、教育の大切さを学びました」
それは嘘ではなかった。
あの日、三年松組の教室で、菜月は本当の授業を受けたのだから。
記憶を継ぐこと。愛を伝えること。誰かの心に灯を点すこと。
それが、教師の仕事なのだと。
面接が終わって外に出ると、風が頬を撫でていった。
どこか懐かしい匂いがした。
菜月は空を見上げて、小さく微笑んだ。
きっと、どこかで見守ってくれている。
祖母も、あの子どもたちも。
そして、いつか菜月も、誰かの記憶の中で生き続けるのだろう。
その時まで、大切に生きていこう。
たくさんの人を愛して、たくさんの人に愛されて。
記憶という名の、永遠の教室で。
祖母の葬儀が終わって三日が過ぎても、菜月の胸には実感が湧かなかった。
線香の匂いと弔問客の声が遠のいて、ようやく静寂が戻った古い家で、彼女は一人遺品の整理を続けていた。母は仕事で東京に戻り、父は手続きのため役場を回っている。この山奥の村に残されたのは菜月だけだった。
畳の上に積まれた段ボール箱の中から、色褪せたアルバムが出てきた。表紙には「昭和四十三年度 三年松組」と丁寧な筆文字で書かれている。祖母の鶴子が小学校教師をしていた頃のものだろう。
ぱらぱらとページをめくると、白黒の集合写真に子どもたちの笑顔が並んでいる。どの子も今では菜月の親世代になっているはずだった。祖母は写真の隅で、若々しい顔立ちで子どもたちを見守っている。
その時、アルバムの間から一枚の小さな紙切れがひらりと落ちた。
拾い上げると、それは便箋を四つ折りにしたもので、祖母の筆跡でこう記されていた。
『6月20日 午後3時 教室で待っています』
日付はない。いつ書かれたものかも分からない。だが、明日が6月20日だということに菜月は気づいた。
教室、という言葉が心に引っかかった。祖母が勤めていた椿野小学校は、過疎化の波に押され、今年度末で廃校が決まっている。既に子どもたちは隣町の学校に統合され、校舎は空っぽのはずだった。
菜月は紙切れを見つめた。祖母の几帳面な性格を知っている。意味もなくこんなメモを残すとは思えない。
窓の外では、夕暮れが山の向こうに沈もうとしていた。
二.
翌日の午後2時半、菜月は椿野小学校の正門に立っていた。
錆びた鉄製の門扉は半分開いたまま動かなくなっている。「椿野小学校」と刻まれた石の表札は苔に覆われ、読み取るのがやっとだった。
校舎は築五十年を超える木造建築で、外壁の塗装は剥がれ、窓ガラスの一部にはひびが入っている。校庭の隅には錆びた鉄棒とブランコが、使われることなく雨風に晒されていた。
職員室の窓に明かりが見えた。廃校の手続きを進めている職員が常駐しているらしい。菜月は職員室のドアをノックした。
「はい」という声がして、五十代ほどの男性が現れた。
「すみません、突然お邪魔して。私、村田鶴子の孫の菜月と申します」
男性の目が少し丸くなった。
「鶴子先生の。私は木村です。昔、鶴子先生に教わりました」
木村と名乗った男性は、菜月を職員室に招き入れた。古いストーブの上でやかんが湯気を上げている。
「お悔やみ申し上げます。鶴子先生には、本当にお世話になりました」
「ありがとうございます。あの、お聞きしたいことがあるのですが」
菜月は例の紙切れを見せた。木村さんは眉をひそめて、しばらくそれを見つめていた。
「6月20日、ですか」
「今日なんです。何かご存じありませんか」
木村さんは困ったような表情を浮かべた。
「正直に申し上げると、何かはあるんでしょう。でも私には分からない。ただ」
彼は窓の外を見た。
「鶴子先生が最後に勤務されたのは三年松組でした。あの教室です」
指差す方向に、二階の一室が見えた。
「今でも入れるんですか」
「ええ。施錠はしていますが、職員室に鍵があります。でも」
木村さんは躊躇うように言葉を区切った。
「何もないかもしれませんよ」
「それでも、行ってみたいんです」
木村さんは少し考えてから、机の引き出しから古い真鍮の鍵を取り出した。
「三年松組の教室です。何か異常があったら、すぐに戻ってきてください」
菜月は鍵を受け取り、お礼を言って職員室を出た。
三.
木造の廊下は、足音が響くたびにきしんだ。壁には子どもたちの作品を貼った跡があちこちに残り、画鋲の穴が無数に開いている。
階段を上がると、廊下の奥に「三年松組」と書かれた木の札が見えた。菜月は鍵穴に鍵を差し込み、ゆっくりと回した。
ガチャリという音とともに、扉が開いた。
教室の中は薄暗く、夕陽が西向きの窓から斜めに差し込んでいる。机と椅子は整然と並べられ、まるで今でも授業が行われているかのようだった。
黒板の上には大きな時計が掛かっている。針は2時40分を指したまま止まっていた。
菜月は教室に足を踏み入れた。床板がミシリと鳴る。
前方の教卓には、まだチョークが置かれている。黒板には薄っすらと文字の跡が残っていた。よく見ると「6月20日」と書かれているようだった。
午後3時まで、あと20分。
菜月は窓際の席に座り、外を眺めた。山の緑が風に揺れ、遠くで鳥の声がしている。
ふと、教室に人の気配を感じた。
振り返ると、いくつかの机に子どもたちが座っていた。
菜月の心臓が跳ね上がった。しかし、恐怖よりも困惑が先に立った。子どもたちは音もなく、まるで最初からそこにいたかのように座っている。
男の子が二人、女の子が三人。年齢は8歳から9歳くらいだろうか。みな昭和の子どもらしい服装をしている。男の子は白いシャツに半ズボン、女の子は紺色のワンピースに白い襟。
だが、彼らは透けていた。夕陽が体を素通りして、机に影を落としている。
菜月は立ち上がろうとしたが、足がすくんで動けなかった。子どもたちは彼女を見ているようで見ていない。何かを待っているような、じっと前を向いた姿勢を保っている。
やがて、時計の針が動いた。
カチ、カチ、カチ。
長い間止まっていたはずの時計が、ゆっくりと時を刻み始めた。
2時45分、2時50分、2時55分。
そして、午後3時ちょうどに時計の針が重なった時、教室の扉が静かに開いた。
現れたのは若い頃の祖母だった。
菜月が知っている皺の刻まれた顔ではなく、アルバムで見た二十代の鶴子だった。紺色のスーツに白いブラウス、髪を後ろで結んだ清楚な姿。
祖母は教卓に向かい、振り返って子どもたちに微笑みかけた。
「みなさん、よく来てくれました」
優しい声だった。菜月の記憶にある祖母の声に間違いない。
子どもたちは一斉に立ち上がり、お辞儀をした。
「鶴子先生」
小さな声で、みんなが呼んだ。
祖母は黒板に向かい、チョークで何かを書き始めた。
『ありがとう』
大きな、丁寧な文字だった。
「みなさんに、お礼を言いたくて」
祖母は振り返った。
「あの日、私は皆さんを守れませんでした。でも、皆さんは最後まで私を信じてくれた。それがどれほど嬉しかったか」
子どもたちの中で、一人の女の子が手を挙げた。
「先生、私たちは先生が大好きでした」
「私たちは怖くなかったです」
「先生がいてくれたから」
次々と、子どもたちが口を開いた。
菜月には状況が掴めなかった。何の話をしているのか。「あの日」とは何を指すのか。
祖母は涙を浮かべていた。
「ありがとう。でも、もう大丈夫です。皆さんは自由になっていいんです」
「でも先生」
一人の男の子が言った。
「先生が一人になっちゃいます」
祖母は首を横に振った。
「私には、家族がいます。大切な孫がいます」
その時、祖母の視線が菜月に向けられた。
「菜月」
菜月の名前を呼んだ。
「ここにいるのね」
菜月は動けなかった。声も出なかった。
「この子たちはね、50年間ずっと私を待っていてくれたの。私が年老いて、この世を去る時まで」
祖母は菜月に近づいてきた。
「あの日、大雨で川が氾濫して、この子たちは帰れなくなった。私は一晩中、この教室でみんなと過ごしたの。朝になって救助が来るまで」
菜月の記憶が甦った。祖母から聞いた話だ。昭和43年の豪雨災害。多くの家屋が浸水し、道路が寸断された。
「でも、この子たちの家族は」
祖母の声が震えた。
「みんな、濁流に飲まれてしまった。この子たちだけが、学校にいたから助かったはずだったのに」
菜月は息を呑んだ。
「助かったはず、というのは」
「翌朝、この子たちは姿を消していたの。きっと家族を探しに行ったのでしょう。そして」
祖母は振り返り、子どもたちを見つめた。
「みんな、見つからなかった」
子どもたちは静かに立っていた。悲しそうでも、寂しそうでもない。ただ、祖母を見つめている。
「私はずっと自分を責めていた。どうして止めなかったのかって。どうして一緒についていかなかったのかって」
祖母は菜月の手を取った。温かかった。
「でも、この子たちは私を恨んでいなかった。ずっと、私のそばにいてくれた。見えない所で、私を支えてくれていた」
菜月は気づいた。祖母が一人で暮らしていた時も、決して寂しそうではなかった理由を。時々、誰かと話をしているような気配があった理由を。
「先生」
子どもたちが口を揃えて言った。
「私たちは、先生と一緒にいられて幸せでした」
「でも、もう行きます」
「家族が呼んでいます」
「ようやく、会えそうです」
子どもたちの体が、少しずつ光っていった。
祖母は深くお辞儀をした。
「ありがとう。本当に、ありがとう」
子どもたちも、最後のお辞儀をした。
そして、一人ずつ、光の中に消えていった。
最後に残った女の子が、菜月に微笑みかけた。
「お姉ちゃん、鶴子先生をよろしくね」
その声は風のように軽やかで、やがて聞こえなくなった。
教室には、菜月と祖母だけが残された。
「おばあちゃん」
ようやく、菜月は声を出せた。
「どうして、私に分かるように残してくれたの」
祖母は微笑んだ。
「あなたなら、きっと来てくれると思ったから。そして、この子たちを見ても、逃げ出さずにいてくれると思ったから」
「どうして?」
「あなたは優しい子だから。本当は、とても優しい子だということを、私は知っているから」
菜月の目に涙が浮かんだ。
「私、おばあちゃんにちゃんとお礼を言えなかった。いつも素っ気なくして、迷惑ばかりかけて」
「迷惑だなんて」
祖母は首を振った。
「あなたが来てくれるだけで、私は嬉しかった。夏休みに一人でやってきて、宿題を一緒にやったり、川で魚を取ったり。あの時間が、私にはかけがえのない宝物だった」
菜月は声を上げて泣いた。
「おばあちゃん」
「私も、もう行かなくちゃ」
祖母の体も、薄っすらと光り始めていた。
「でも、寂しくないの。あの子たちが、向こうで待っていてくれているから」
「私は?」
「あなたは、これからたくさんの人と出会って、たくさんの経験をするの。そして、いつか誰かの記憶の中で生き続ける人になる」
祖母は菜月の頬に手を当てた。
「記憶は、愛なのよ。誰かを想う気持ちが、その人を永遠にするの」
光が強くなった。
「さようなら、菜月。大好きよ」
「おばあちゃん、私も。私も大好き」
祖母の姿が光の中に溶けていく。
「忘れないで。みんなのことを」
最後の言葉が、風に乗って届いた。
そして、教室に静寂が戻った。
時計は再び止まっていた。針は午後3時を指したまま。
黒板には、『ありがとう』の文字が残っていた。
四.
木村さんが心配して迎えに来た時、菜月は窓際の席で静かに座っていた。
「どうでしたか」
「おばあちゃんに会えました」
木村さんは何も言わずに頷いた。
「そうですか」
教室を出る前に、菜月は黒板を見上げた。『ありがとう』の文字は薄くなっていたが、まだ読み取れた。
「木村さん」
「はい」
「昭和43年の豪雨の時、行方不明になった子どもたちのことを教えてください」
木村さんは長い息を吐いた。
「やはり、ご存じでしたか」
職員室で、木村さんは古いファイルを取り出した。
「田中雄一君、佐藤花子さん、山田次郎君、鈴木美和さん、高橋三郎君。5人の子どもたちです。皆、鶴子先生の教え子でした」
菜月は名前を心に刻んだ。
「遺体は?」
「結局、見つからなかった。川が山から海まで流れているので、どこに流されたか」
木村さんは写真を見せてくれた。白黒の集合写真の中で、5人の子どもたちが笑っている。
「鶴子先生は、最後まで自分を責めていました。私たち教え子が大人になってから、よく話をしたんです。『あの子たちを止められなかった』って、何度も」
「でも、先生は悪くない」
「分かっています。私たちも、そう言い続けました。でも、先生は」
木村さんは窓の外を見た。
「最後まで、あの子たちのことを忘れなかった」
菜月は立ち上がった。
「ありがとうございます。おばあちゃんのこと、よく知ることができました」
職員室を出る時、木村さんが声をかけた。
「菜月さん」
「はい」
「鶴子先生は、きっと安らかになられたと思います」
菜月は振り返って、深くお辞儀をした。
五.
一週間後、菜月は再び椿野小学校を訪れた。今度は、花束を持って。
校門の前で、石に刻まれた小さな慰霊碑を見つけた。「昭和四十三年豪雨災害犠牲者追悼」と書かれている。その下に、5人の名前が刻まれていた。
菜月は花束を供え、手を合わせた。
「田中雄一君、佐藤花子さん、山田次郎君、鈴木美和さん、高橋三郎君」
一人ずつ、名前を呼んだ。
「おばあちゃんが、皆さんのことを教えてくれました。皆さんがいてくれたから、おばあちゃんは一人じゃなかった。ありがとうございました」
風が頬を撫でていった。どこか懐かしい匂いがした。
菜月は立ち上がり、校舎を見上げた。二階の三年松組の窓が夕陽を反射して光っている。
その時、窓の向こうに人影が見えた気がした。
手を振っている小さな影が、五つ。
菜月も手を振り返した。
影はゆらゆらと揺れて、やがて見えなくなった。
でも、菜月は確信していた。もう彼らは、あの教室にはいない。家族の元に帰ったのだ。そして、祖母も。
帰り道、菜月は母に電話をかけた。
「お疲れさま。どう、片付けは進んでる?」
「うん。もう少しで終わる」
「そう。無理しないでよ」
「お母さん」
「何?」
「おばあちゃんの話、もっと聞かせて」
電話の向こうで、母が少し驚いたような声を出した。
「急にどうしたの?」
「おばあちゃんのこと、ちゃんと知りたいの。どんな人だったか、どんな先生だったか」
「そうね。いつでも話すわ。おばあちゃんは、本当に素敵な人だった」
菜月は空を見上げた。夕陽が山の向こうに沈もうとしている。
「ありがとう」
その言葉は、母にも、祖母にも、そして見えない誰かにも向けられていた。
椿野小学校は、予定通り取り壊される。でも、そこにあった記憶は、菜月の心の中で生き続ける。
人の記憶は、愛によって継がれていく。
祖母が教えてくれた、大切な真実だった。
---
一年後、菜月は大学の推薦入試の面接で、将来の夢を聞かれた。
「教師になりたいです」
面接官が理由を尋ねた。
「私の祖母が教師でした。祖母から、教育の大切さを学びました」
それは嘘ではなかった。
あの日、三年松組の教室で、菜月は本当の授業を受けたのだから。
記憶を継ぐこと。愛を伝えること。誰かの心に灯を点すこと。
それが、教師の仕事なのだと。
面接が終わって外に出ると、風が頬を撫でていった。
どこか懐かしい匂いがした。
菜月は空を見上げて、小さく微笑んだ。
きっと、どこかで見守ってくれている。
祖母も、あの子どもたちも。
そして、いつか菜月も、誰かの記憶の中で生き続けるのだろう。
その時まで、大切に生きていこう。
たくさんの人を愛して、たくさんの人に愛されて。
記憶という名の、永遠の教室で。
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「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
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