臆病な僕と、リングの約束 ーAパート 放課後サイドー

叶畑シュウ

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第一章

第一話

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 高校の図書室は、いつも同じ匂いがした。紙と、インクと、少し乾いた埃。静けさの底で、時計の秒針だけが規則正しく刻んでいる。
 青戸あおとユキはカウンターの内側で、返却された本の背を撫でた。ラベルのシールが指先に当たる。たったそれだけの感触が、妙に安心する。

「今日は一時間だけカウンター当番?」

 背後から、司書担当の先生がやさしく声をかけた。ユキは振り返って、小さく頷く。

「そうです。あとはボクシング部のマネージャーで」

 口にした途端、言葉が少しだけ重くなる。“マネージャー”。いつもそう名乗ってきた。自分がリングの上にいない理由を、その一語が支えてくれるみたいに。

「一緒の北条ほうじょうライ君だっけ。頼もしいよね、副会長」

 先生は、この場にはいないライの名前を出す。

「ずっと、甘えっぱなしです」

 ユキは笑って言った。

「一年生も入ったんですよ」

「へえ、もう? 早いね」

「だから今日は一時間だけ……戻ったら、また手伝います」

 先生は「優しい。無理しないでね」と笑いかける。

 ユキは「はい」とだけ答えて、貸出カードの束を整えた。きれいに揃った角が、呼吸を整えてくれる。“無理するな”は、ユキには曖昧な言葉だった。自分のしんどさに気づくのが遅いから。無理をしているかどうかを、自分が一番わかっていないことがあるから。
 外の光はすっかり傾いていた。ユキは桜の花びらのなかを体育館に向かう。

 扉を開けた瞬間、世界の音が変わる。床を擦るシューズ、縄跳びの乾いた打音、ミットを打つパンチのリズム。図書室では聞いたことのない種類の“強さ”が、空気の中に浮いていた。
 ユキはまず、荷物の置き場を確認して、ボトルの数を数える。誰が何を忘れているか。どこがいつもと違うか。自分がいる意味は、そういうところにある。

「ユキ、おつかれ」

 声の方を見ると、北条ライがいた。汗で前髪が少し額に張り付いていて、それでも所作はきれいで、呼吸が整っている。副会長、王子――呼び方はいろいろあるけれど、ユキにとってはただの幼馴染だ。

「図書室、終わった?」

「うん。一時間だけ」

「調子はどう?」

 ライはいつも、そう聞く。“まだやれる”じゃなくて、“今どうか”。ユキがいちばん欲しい確認の仕方を、ライだけは最初から知っている。

「大丈夫。……今日、一年生のミット見てあげるって言ったよね」

「ああ、レン。経験者。人数少ないから、助かる。」
 
 頼りにしてる、と言外ににじませてライは微笑む。ユキは頷いて、ミットを手に取った。

(……大丈夫)

 “俺なら大丈夫”。そう言えるように練習してきた言葉を、喉の奥で転がしてから、ユキはリングの方へ向かった。

 リングの下に、ひとりだけの一年生がいた。雨宮あまみやレン。ゆるい癖毛。整った顔は無表情に近く、気だるげに目を伏せている。

「雨宮くん、ミットいける?」

 声をかけると、レンは「はい」と短く答えて歩み寄る。足取りが軽い。慣れている、と思う。
 ユキはパンチングミットを構える。肩の力を抜く。受け止める角度を作る。
 ミットを持つだけなら、身体が勝手に動く。小学生のころから、ライの自主練に付き合って何度も構えてきた姿勢だ。
 いつも通りのはずなのに、レンの前だと、少しだけ神経が研ぎ澄まされる。理由はわからない。

「軽めで、リズムからね」

 レンは頷く。
 パン。パン。
 リズムがいい。ミットの中心を迷わず打ち抜いてくる。ユキの腕が揺れる程度で、痛くはない。ちょうどいい。

(上手い)

 感心した瞬間——
 ふと、とつぜん、パンチが強くなる。

 バシッ。

 受け止めたユキの身体が、半歩だけ後ろへ引かれた。リングの端に踵が触れる前で止まる。それでも、腕の奥がじん、と痺れる。

「……っ」

 驚きが声に出そうになるのを、ユキは飲み込む。先輩は慌ててはいけないから。慌てた瞬間、相手も不安になる。不安を隠して、尋ねる。

「どうしたの、急に」

 レンは無表情のまま、グローブを下ろした。

「もっといけるんじゃないかと思って」

 言い方は淡々としている。悪びれた感じも、威張る感じもない。その無感情さが、ユキには余計に怖い。

「本気の顔、見たくて」

 ユキはミットを持ち直しながら、言葉を繰り返してしまう。

「本気の……顔……?」

 レンは首をかしげることもなく、続けた。

「深い意味じゃないんすけど。ユキ先輩、いつも笑ってるじゃないですか」

 言われて、ユキは自分の口元に触れそうになる。笑ってる? いまも?癖みたいに?

「怒ったらどんな感じかなって」

 その言葉が、体育館の空気を掻き回すみたいだった。ユキの胸の奥、触れられたくないところが、きゅっと縮む。

「……怒るよ」

 言い返したつもりなのに、声は小さかった。レンは即答する。

「嘘」

 ユキは笑って、受け流そうとする。いつも通りに、場を和ますために。

「嘘じゃない。びっくりしただけだよ。練習だから、急に強くしないで。受ける側、怖いから」

 言いながら、ユキは自分の胸の中を確かめる。怖い?いま自分は、本当に怖いと思ってる?
 レンの視線が、ユキの顔をなでた。視線だけなのに、皮膚の上を指先でなぞられたみたいに落ち着かない。

「……びっくりした顔は、見られた」

 レンが薄く笑って言う。冗談みたいな言葉なのに、目は笑っていない。“見たい”という欲が、静かにそこにある。ユキは苦笑した。喉の奥が少し乾く。

「それは、見なくていいやつ」

 レンの口元が、ほんの少しだけ形を変えた。笑ったのか、笑うふりをしたのか、ユキには判別できない。
 そのとき、リング下から声が飛んできた。

「レン。今の、相手に失礼」

 ライだった。汗を拭きながら、でも目だけはまっすぐ、レンを見ている。レンは振り向きもしないで言う。

「失礼、って」

「逃げられないからね。受ける側が我慢すれば成立するのは、練習として良くない」

 ライの声は丁寧だ。それでも、線を引く時だけ低くなる。ユキが一番知っている声。ユキは、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。

(……また、甘えてる)

 守られる側に置かれるたび、安心より先に、情けなさが来る。

「ごめん、俺がちゃんと言えば――」

 ユキが言いかけた瞬間、ライが遮った。

「ユキは悪くない」

 即答。レンが、ようやくライの方を向いた。無表情。でも目の奥だけが、少しだけ硬くなる。

「ライ先輩は、そういうとこ優しいっすよね」さすが王子、と小さくつぶやく。

「優しいんじゃない。線を引いてるだけ」

 最後の一言は聞こえなかったふりをして、ライは淡々と言う。線の内側に、ユキがいることも、言外に含めて。

「線、ね」

 レンは、口元だけで笑う。皮肉っぽいのに、どこか楽しそうで、ユキの背筋がぞわりとした。

「じゃあ、ライ先輩の線の中にいる人は、ずっと安全なんすか」

 体育館の音が、ほんの少し遠のいた気がした。ライは、返事を急がない。急がないまま、目だけでレンを制した。

「安全かどうかは、本人が決める」

「……ですって、ユキ先輩」

 レンは短く言って、ユキを見る。
 見られた瞬間、ユキは反射的に口角を上げてしまう。
 “場を丸くする笑い”。
 “安心させる笑い”。
 自分の中のスイッチが勝手に入る。
 ――出ちゃった。そう思うのに止められない。止めようとするほど、笑い方が不自然になる。その笑いが、レンの目を少しだけ冷たくした。

「ユキ先輩、今の顔」

 レンは淡々と言う。責めるでも、怒るでもない。ただ、見つけたものを指さすみたいに。
 ユキは笑いを整えようとして、喉がひっかかった。息が、変なところで止まる。レンは軽い調子で続ける。

「安心させるやつ」

 言葉の温度は軽いのに、視線は離れない。ユキの顔の、逃げ道だけを塞いでくる。

「……別に、悪いって言ってないっすよ」

 一拍。その一拍だけ、レンの声が落ちる。

「ほんとは怖かったんでしょ」

 ユキの心臓が跳ねた。咄嗟に「違う」と言おうとしたのに、舌がうまく動かない。自分の胸の奥が、勝手に答えを探してしまう。怖いのは、パンチじゃない。見抜かれること。笑って誤魔化してきた感情に名前がつくこと。
 レンは、ユキが言葉を作る前に、すぐ元の温度へ戻った。

「ま、別にいいんすけど」

 レンは、最後にひとつだけ、楽しそうに言った。

「平気なふり、うまいっすね」

 その言葉が、柔らかいのに鋭くて、ユキの胸の奥をゆっくり押した。押されて、押されて――戻れないところまで行きそうになる。
 ユキはミットを握り直した。革がきしむ音が、やけに大きく聞こえる。

「……ライ、ごめん。大丈夫だから。雨宮君、練習、続けよ」

 自分の声が、少しだけ硬い。ライは何か言いたそうに、でも言葉を呑み込む。レンは小さく頷いた。
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