4 / 9
第一章
第三話
しおりを挟む
次の日。図書委員を終えたユキが、体育館に入る少し前。廊下を曲がったところで、乾いた音がした。
――ドン。
床が鳴る音。空気が揺れる音。胸の奥が、反射で縮む。ユキは足を止める。体育館の扉の向こうから、何かがぶつかる気配が続けて二つ、三つ。
(……なに?)
嫌な想像が先に立つ。誰かが痛い目にあっているという想像。ユキはそういう想像だけが、異様に速い。
扉の隙間から見えたのは、リングだった。レンが、叩きつけられるように倒れこむ。正確には、ロープ際で踏ん張れずに尻もちをついて、背中がロープに弾かれた。
その一瞬が、ユキの目には乱暴に見えた。
相手は――ライ。幼なじみの北条ライが、リングの上に立っている。グローブは付けている。ヘッドギアもしている。形式はスパーだ。なのに、空気が違った。
ライの目が、競技の目じゃない。レンは床に座ったまま、舌打ちを飲み込むみたいに息をする。ライは一歩だけ近づいて、低い声で言う。
「あいつに、余計なこと言ってるらしいな」
ユキは扉を開きかけて凍りつく。あいつーーユキのことだと、すぐに分かった。レンは肩をすくめた。無表情のまま、わざと軽く言う。
「だる……さすが副会長。耳が早いっすね」
「今のままでいいんだよ、アイツは」
ライの言葉が、リングの上から落ちてきた。その瞬間、ユキの胸がきゅっと縮む。安心と、情けなさが同時に来る。守られるのは温かいのに、守られ方が“檻”みたいに感じることがある。
レンが鼻で笑った。
「……今のままでいい、って。誰が決めるんすか。俺の線の中なら安心、って」
「は?」
ライの声が、さらに低くなる。
「納得してねぇ顔だな。……立てよ」
レンはゆっくり立ち上がり、グローブを構える。
「過保護。分からせてくださいよ」
挑発っぽい言葉なのに、声はやっぱり平らで、静かだった。
ライは短く息を吐く。
「……いいよ。後悔すんなよ」
その「いいよ」は、後輩の相手をしてやる先輩、じゃない。同じリングに立つ相手に、真正面から受ける「いいよ」だった。二人が構え直した瞬間、体育館の空気が変わった。
リングのきしむ音。シューズがキャンバスを擦る音。
ユキは扉のそばで固まったまま、目を離せなかった。
レンが、先に踏み込む。軽いジャブ。ライはそれを小さくスウェーしてかわしながら、自分の距離を測る。
「……っ」
レンのジャブが一瞬だけ重くなる。ミットに打ち込んできたときと同じ、「ふと」の強さ。
ライの表情がわずかに変わる。いつもの競技者の顔から、何かを押し殺す顔へ。
(いやだ……)
ユキの喉が、ひゅっと鳴る。声は出ない。
ライが、踏み込んだ。ワン、ツー。教科書みたいなリズムなのに、さっきまでより明らかに速い。
――ドン。
ストレートが、レンのガードの隙間を抜けて頬をとらえた。ヘッドギア越しでも分かる、きれいな一発。レンの頭がわずかにのけぞり、ロープが背中に触れる。
「……っ」
レンの息が漏れる。その一瞬だけ、目が泳いだ。ライの顔に、感情が浮かぶ。怒りとも、悔しさともつかない、見慣れない影。レンが、口元を歪めた。
「……副会長、そういう顔もできるんすね」
言いながら、ふらつきながらもジャブを返す。軽くじゃない、ちゃんと「刺す」ジャブ。ライはそれをブロックしながら、低く返した。
「ここで副会長って呼ぶな」
ライとして殴っている、という線引き。ユキには、その言葉の意味が真っ先に刺さる。
(二人とも……やめて)
心の中で何度も言うのに、身体は動かない。目が、リングから離れない。レンが前に出る。ライも引かない。距離が詰まるたびに、グローブとグローブがぶつかる音、腕と腕が擦れる音がする。
ワンツー。
ボディ。
ショートの打ち合い。
それは、約束したコンビネーションの交換じゃない。二人の意地がぶつかり合う音だった。
ライの右が、もう一度入る。今度は少し浅く。次の瞬間、レンのジャブがライの頬をかすめた。
「……チッ」
ライが短く舌打ちする。珍しい。いつもなら飲み込む音。ユキの鼓動がうるさい。リングに近づきたいのに、足が震えて動かない。
――パン。
ライのストレートが、レンのガードごと押し込んだ。レンの身体がロープに叩きつけられる。
ガードが下がったところにライの右フックが……
「ライ!」
ユキの悲鳴が響く。
ライははっとしたように後ろへ下がる。胸が大きく上下している。「幼なじみを守りたい」の呼吸と、「部活の先輩」の呼吸が、胸の中でぶつかっているみたいだ。
レンはロープにもたれたまま、数回瞬きをした。遅れて、顔の痛みに気づいたように顔をしかめる。
――ドン。
床が鳴る音。空気が揺れる音。胸の奥が、反射で縮む。ユキは足を止める。体育館の扉の向こうから、何かがぶつかる気配が続けて二つ、三つ。
(……なに?)
嫌な想像が先に立つ。誰かが痛い目にあっているという想像。ユキはそういう想像だけが、異様に速い。
扉の隙間から見えたのは、リングだった。レンが、叩きつけられるように倒れこむ。正確には、ロープ際で踏ん張れずに尻もちをついて、背中がロープに弾かれた。
その一瞬が、ユキの目には乱暴に見えた。
相手は――ライ。幼なじみの北条ライが、リングの上に立っている。グローブは付けている。ヘッドギアもしている。形式はスパーだ。なのに、空気が違った。
ライの目が、競技の目じゃない。レンは床に座ったまま、舌打ちを飲み込むみたいに息をする。ライは一歩だけ近づいて、低い声で言う。
「あいつに、余計なこと言ってるらしいな」
ユキは扉を開きかけて凍りつく。あいつーーユキのことだと、すぐに分かった。レンは肩をすくめた。無表情のまま、わざと軽く言う。
「だる……さすが副会長。耳が早いっすね」
「今のままでいいんだよ、アイツは」
ライの言葉が、リングの上から落ちてきた。その瞬間、ユキの胸がきゅっと縮む。安心と、情けなさが同時に来る。守られるのは温かいのに、守られ方が“檻”みたいに感じることがある。
レンが鼻で笑った。
「……今のままでいい、って。誰が決めるんすか。俺の線の中なら安心、って」
「は?」
ライの声が、さらに低くなる。
「納得してねぇ顔だな。……立てよ」
レンはゆっくり立ち上がり、グローブを構える。
「過保護。分からせてくださいよ」
挑発っぽい言葉なのに、声はやっぱり平らで、静かだった。
ライは短く息を吐く。
「……いいよ。後悔すんなよ」
その「いいよ」は、後輩の相手をしてやる先輩、じゃない。同じリングに立つ相手に、真正面から受ける「いいよ」だった。二人が構え直した瞬間、体育館の空気が変わった。
リングのきしむ音。シューズがキャンバスを擦る音。
ユキは扉のそばで固まったまま、目を離せなかった。
レンが、先に踏み込む。軽いジャブ。ライはそれを小さくスウェーしてかわしながら、自分の距離を測る。
「……っ」
レンのジャブが一瞬だけ重くなる。ミットに打ち込んできたときと同じ、「ふと」の強さ。
ライの表情がわずかに変わる。いつもの競技者の顔から、何かを押し殺す顔へ。
(いやだ……)
ユキの喉が、ひゅっと鳴る。声は出ない。
ライが、踏み込んだ。ワン、ツー。教科書みたいなリズムなのに、さっきまでより明らかに速い。
――ドン。
ストレートが、レンのガードの隙間を抜けて頬をとらえた。ヘッドギア越しでも分かる、きれいな一発。レンの頭がわずかにのけぞり、ロープが背中に触れる。
「……っ」
レンの息が漏れる。その一瞬だけ、目が泳いだ。ライの顔に、感情が浮かぶ。怒りとも、悔しさともつかない、見慣れない影。レンが、口元を歪めた。
「……副会長、そういう顔もできるんすね」
言いながら、ふらつきながらもジャブを返す。軽くじゃない、ちゃんと「刺す」ジャブ。ライはそれをブロックしながら、低く返した。
「ここで副会長って呼ぶな」
ライとして殴っている、という線引き。ユキには、その言葉の意味が真っ先に刺さる。
(二人とも……やめて)
心の中で何度も言うのに、身体は動かない。目が、リングから離れない。レンが前に出る。ライも引かない。距離が詰まるたびに、グローブとグローブがぶつかる音、腕と腕が擦れる音がする。
ワンツー。
ボディ。
ショートの打ち合い。
それは、約束したコンビネーションの交換じゃない。二人の意地がぶつかり合う音だった。
ライの右が、もう一度入る。今度は少し浅く。次の瞬間、レンのジャブがライの頬をかすめた。
「……チッ」
ライが短く舌打ちする。珍しい。いつもなら飲み込む音。ユキの鼓動がうるさい。リングに近づきたいのに、足が震えて動かない。
――パン。
ライのストレートが、レンのガードごと押し込んだ。レンの身体がロープに叩きつけられる。
ガードが下がったところにライの右フックが……
「ライ!」
ユキの悲鳴が響く。
ライははっとしたように後ろへ下がる。胸が大きく上下している。「幼なじみを守りたい」の呼吸と、「部活の先輩」の呼吸が、胸の中でぶつかっているみたいだ。
レンはロープにもたれたまま、数回瞬きをした。遅れて、顔の痛みに気づいたように顔をしかめる。
0
あなたにおすすめの小説
失恋したのに離してくれないから友達卒業式をすることになった人たちの話
雷尾
BL
攻のトラウマ描写あります。高校生たちのお話。
主人公(受)
園山 翔(そのやまかける)
攻
城島 涼(きじまりょう)
攻の恋人
高梨 詩(たかなしうた)
俺の指をちゅぱちゅぱする癖が治っていない幼馴染
海野
BL
唯(ゆい)には幼いころから治らない癖がある。それは寝ている間無意識に幼馴染である相馬の指をくわえるというものだ。相馬(そうま)はいつしかそんな唯に自分から指を差し出し、興奮するようになってしまうようになり、起きる直前に慌ててトイレに向かい欲を吐き出していた。
ある日、いつもの様に指を唯の唇に当てると、彼は何故か狸寝入りをしていて…?
楽な片恋
藍川 東
BL
蓮見早良(はすみ さわら)は恋をしていた。
ひとつ下の幼馴染、片桐優一朗(かたぎり ゆういちろう)に。
それは一方的で、実ることを望んでいないがゆえに、『楽な片恋』のはずだった……
早良と優一朗は、母親同士が親友ということもあり、幼馴染として育った。
ひとつ年上ということは、高校生までならばアドバンテージになる。
平々凡々な自分でも、年上の幼馴染、ということですべてに優秀な優一朗に対して兄貴ぶった優しさで接することができる。
高校三年生になった早良は、今年が最後になる『年上の幼馴染』としての立ち位置をかみしめて、その後は手の届かない存在になるであろう優一朗を、遠くから片恋していくつもりだった。
優一朗のひとことさえなければ…………
陰キャ系腐男子はキラキラ王子様とイケメン幼馴染に溺愛されています!
はやしかわともえ
BL
閲覧ありがとうございます。
まったり書いていきます。
2024.05.14
閲覧ありがとうございます。
午後4時に更新します。
よろしくお願いします。
栞、お気に入り嬉しいです。
いつもありがとうございます。
2024.05.29
閲覧ありがとうございます。
m(_ _)m
明日のおまけで完結します。
反応ありがとうございます。
とても嬉しいです。
明後日より新作が始まります。
良かったら覗いてみてください。
(^O^)
日本一のイケメン俳優に惚れられてしまったんですが
五右衛門
BL
月井晴彦は過去のトラウマから自信を失い、人と距離を置きながら高校生活を送っていた。ある日、帰り道で少女が複数の男子からナンパされている場面に遭遇する。普段は関わりを避ける晴彦だが、僅かばかりの勇気を出して、手が震えながらも必死に少女を助けた。
しかし、その少女は実は美男子俳優の白銀玲央だった。彼は日本一有名な高校生俳優で、高い演技力と美しすぎる美貌も相まって多くの賞を受賞している天才である。玲央は何かお礼がしたいと言うも、晴彦は動揺してしまい逃げるように立ち去る。しかし数日後、体育館に集まった全校生徒の前で現れたのは、あの時の青年だった──
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる