8 / 9
第一章
第七話
しおりを挟む
土曜日は、体育館が少し広く見える。
人が少ないせいかもしれないし、心臓がそわそわしているからかもしれない。ユキは、いつもより早く体育館に入った。下足箱の周りをホウキで掃きながら、入り口の向こうに頻繁に目をやる。
(……今日、来てくれるかな)
扉が、がらりと開いた。
「おはようございます」
ふわっとした声と一緒に、長身の青年が入ってくる。ゆるいパーマ、ラフなパーカー。肩から下げたスポーツバッグが、いつもの“土曜コーチ”の印だ。土曜コーチ、陸さん。普段は県庁で働いて、土曜日だけみんなの指導をしてくれる。この高校ボクシング部のOB。
「おはようございます」
ユキが挨拶すると陸さんは目尻を下げて笑う。
「おはようございます。……ユキ君、今日は早いんですね」
「はい。なんか、早く目が覚めちゃって」
自分でも苦しい言い訳だと思うのに、陸さんは「そういう日、ありますよ」とやさしく頷く。
「頭の中に、ちょっとした気になること、がある日ですね」
「……あります」
即答してしまって、ユキは苦笑した。陸さんは、その表情を確認してから、体育館の二階観覧席を指さす。
「少しだけ、上で話しましょうか。皆が来る前に」
◇◇◇
二階の長いベンチに並んで腰を下ろす。
下には、まだ誰もいないリングがぽつんと立っている。
「その、県庁、お休みなんですか、今日は」
口火を探して、ユキはつい分かりきったことを聞く。陸さんは「はい、土日は基本お休みですね」と笑う。
「その代わり、ここに出勤してる感じです」
「……すみません、いつも」
「いえいえ。本当に、けっこう楽しみなんですよ。ここに来るの」
社交辞令じゃない声だった。一呼吸おいて、陸さんが身を屈めるようにして、ユキの目をのぞきこむ。
「で。早起きユキ君の、今日の気になることは何でしょう」
逃げ道を塞がない言い方。それでもユキは言い淀む。
「……俺、」
指先を組む。親指と親指が押し合う感触で、なんとか声をつなぐ。
「ライと、雨宮君が……リングの上で殴り合ってるの、見て。こないだ」
「はい」陸さんは、知っている、という顔をした。顧問から、後から話だけ聞いたあの件だ。
「怖かったです。見てて。止めてほしいって思ったし、ああいうのは嫌だって思って」
「うん」
「でも、同時に……目が離せなくて」
ユキは、リングを見下ろす。
「二人が見てる景色、っていうか。リングの中から見える体育館とか、相手の顔とか……俺、ミット持って下から見てるだけで」
言いながら、自分でも何を言いたいのか分からなくなりそうになる。
「怖いし、向いてないなって、ずっと思ってたんですけど……あのとき、ちょっとだけ、あの景色、俺も1回くらい見てみたいなって思って」
言った瞬間、顔が熱くなった。野次馬みたいで嫌だな、とどこかで思う。陸さんは「ふむ」と小さく相槌を打つ。
「殴り合いたいじゃなくて、見てみたい、なんですね」
「……はい」
そこだけはハッキリしていた。
「勝ちたいとか、強くなりたいとかよりも……ライと雨宮君が見てるものを、ちょっとだけ同じ場所から見てみたい、みたいな」
自分で言って、苦笑いが出る。
「すごい勝手な気もしますけど」
陸さんは、すぐに否定も肯定もしなかった。しばらくリングを見てから、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「勝手、ではないと思いますよ」
「そうでしょうか……」
「誰かが見ている景色を、自分も見たいって思うのは、わりと自然なことです。特に、その誰かのことをすごいなとか、かっこいいなって感じてたら、なおさら」
ユキは、胸がどきっとする。レンの頬に絆創膏を貼ったときの、あの感覚がよみがえる。陸さんは、そこで少しだけ真面目なトーンに戻る。
「ただ、それと試合に出る、はまた別の話ですね」
「……ですよね」
ユキは、少し肩を落とした。自分でも分かっていた。“見てみたい”と“出たい”の間には、深くて怖い溝がある。陸さんは、そこでふっと笑った。
「試合に出るかどうかは、すぐ決めなくていいと思いますよ。ユキ君のマネージャー、僕から見ても、とっても助かってますし」
「……助かってますかね」
「ええ。かなり。水の用意も、怪我のチェックも、空気の読み方も。安全担当がいてくれるおかげで、僕らは安心して打ち込めますから」
さらっとそう言われて、ユキは胸の奥がじんとする。
(俺、いてもいいんだ)
リングの外側にいる役割が、ちゃんと仕事として認められた気がした。陸さんは続ける。
「だから、リングに上がる話は、いつかそうしたくなったらまた相談する、でいいと思います」
「……いつか」
「はい。今すぐ決めないっていう選択も、ちゃんと一つの決定ですから」
ユキは、そこで初めて少し肩の力が抜けた。
「じゃあ、今日はどうするか、だけ決めてみませんか」
「今日、ですか」
「そうです。例えば――」
陸さんは、下に見えるフロアを顎で指し示した。
「とりあえず、今日はロープと、ライ君にジャブを教わってみるのはどうでしょう?」
にっこり笑う。
「いきなり試合に出るかどうかじゃなくて、リングの中でちゃんと立つために必要な一歩だけ、試してみる。それぐらいなら、怖さも少し軽くなりませんか」
縄跳び、ユキが苦手なやつ。
「……へたくそなの、バレちゃう」
思わず本音が漏れると、陸さんは「もうバレてる気もしますけど」とおどけた。
「へたくそでもいいんですよ。上手く飛ぶのが目的じゃないですし」
「じゃあ、なんのために……?」
「しんどいときにどう呼吸するかを覚えるためですね」
さらっと、とんでもなくそれっぽいことを言う。
「ロープに限らず、リングでも、人生でも、しんどいときって急に来るじゃないですか。そのとき、あ、今しんどいなって気づいて、息を整える練習になるんです」
ユキは、思わず笑ってしまった。
「人生まで入っちゃうんですね」
陸さんも笑う。
「それから、ライ君のジャブ。あれは怖がりな子のための武器でもあるので、ユキ君が覚えるのは悪くないと思いますよ」
「怖がりな子のための……」
「そう。相手を遠くに置ける技術です。怖くても、ここから先には入れないよって線を引ける」
ユキは、指先をぎゅっと握った。境界線。自分には、いちばん薄いと思っていたものだ。
「……やってみても、いいですか」
「もちろん」
陸さんは、すぐに頷いた。
「ロープで息を整えてから、ライ君にジャブを教わってください。リングで見てみたい景色にちょっとだけ近づく練習です」
リングを見下ろす。さっきより、ほんの少しだけ、リングが“檻”じゃなく“囲い”に見えた。
「それで十分ですよ。今日は、それだけで」
陸さんの言葉に、ユキは息を吐いた。
「……はい」
怖さは消えない。でも、今すぐ決めなくていいという言葉が、胸の中に小さな足場を作ってくれる。ユキは立ち上がった。
「じゃあ……縄跳び、してきます」
「行ってらっしゃい」
陸さんが手を振る。それを背中に感じながら、ユキは体育館の階段を降りた。縄跳びの音が、今日から少しだけ違う意味を持つ――そんな予感がした。
人が少ないせいかもしれないし、心臓がそわそわしているからかもしれない。ユキは、いつもより早く体育館に入った。下足箱の周りをホウキで掃きながら、入り口の向こうに頻繁に目をやる。
(……今日、来てくれるかな)
扉が、がらりと開いた。
「おはようございます」
ふわっとした声と一緒に、長身の青年が入ってくる。ゆるいパーマ、ラフなパーカー。肩から下げたスポーツバッグが、いつもの“土曜コーチ”の印だ。土曜コーチ、陸さん。普段は県庁で働いて、土曜日だけみんなの指導をしてくれる。この高校ボクシング部のOB。
「おはようございます」
ユキが挨拶すると陸さんは目尻を下げて笑う。
「おはようございます。……ユキ君、今日は早いんですね」
「はい。なんか、早く目が覚めちゃって」
自分でも苦しい言い訳だと思うのに、陸さんは「そういう日、ありますよ」とやさしく頷く。
「頭の中に、ちょっとした気になること、がある日ですね」
「……あります」
即答してしまって、ユキは苦笑した。陸さんは、その表情を確認してから、体育館の二階観覧席を指さす。
「少しだけ、上で話しましょうか。皆が来る前に」
◇◇◇
二階の長いベンチに並んで腰を下ろす。
下には、まだ誰もいないリングがぽつんと立っている。
「その、県庁、お休みなんですか、今日は」
口火を探して、ユキはつい分かりきったことを聞く。陸さんは「はい、土日は基本お休みですね」と笑う。
「その代わり、ここに出勤してる感じです」
「……すみません、いつも」
「いえいえ。本当に、けっこう楽しみなんですよ。ここに来るの」
社交辞令じゃない声だった。一呼吸おいて、陸さんが身を屈めるようにして、ユキの目をのぞきこむ。
「で。早起きユキ君の、今日の気になることは何でしょう」
逃げ道を塞がない言い方。それでもユキは言い淀む。
「……俺、」
指先を組む。親指と親指が押し合う感触で、なんとか声をつなぐ。
「ライと、雨宮君が……リングの上で殴り合ってるの、見て。こないだ」
「はい」陸さんは、知っている、という顔をした。顧問から、後から話だけ聞いたあの件だ。
「怖かったです。見てて。止めてほしいって思ったし、ああいうのは嫌だって思って」
「うん」
「でも、同時に……目が離せなくて」
ユキは、リングを見下ろす。
「二人が見てる景色、っていうか。リングの中から見える体育館とか、相手の顔とか……俺、ミット持って下から見てるだけで」
言いながら、自分でも何を言いたいのか分からなくなりそうになる。
「怖いし、向いてないなって、ずっと思ってたんですけど……あのとき、ちょっとだけ、あの景色、俺も1回くらい見てみたいなって思って」
言った瞬間、顔が熱くなった。野次馬みたいで嫌だな、とどこかで思う。陸さんは「ふむ」と小さく相槌を打つ。
「殴り合いたいじゃなくて、見てみたい、なんですね」
「……はい」
そこだけはハッキリしていた。
「勝ちたいとか、強くなりたいとかよりも……ライと雨宮君が見てるものを、ちょっとだけ同じ場所から見てみたい、みたいな」
自分で言って、苦笑いが出る。
「すごい勝手な気もしますけど」
陸さんは、すぐに否定も肯定もしなかった。しばらくリングを見てから、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「勝手、ではないと思いますよ」
「そうでしょうか……」
「誰かが見ている景色を、自分も見たいって思うのは、わりと自然なことです。特に、その誰かのことをすごいなとか、かっこいいなって感じてたら、なおさら」
ユキは、胸がどきっとする。レンの頬に絆創膏を貼ったときの、あの感覚がよみがえる。陸さんは、そこで少しだけ真面目なトーンに戻る。
「ただ、それと試合に出る、はまた別の話ですね」
「……ですよね」
ユキは、少し肩を落とした。自分でも分かっていた。“見てみたい”と“出たい”の間には、深くて怖い溝がある。陸さんは、そこでふっと笑った。
「試合に出るかどうかは、すぐ決めなくていいと思いますよ。ユキ君のマネージャー、僕から見ても、とっても助かってますし」
「……助かってますかね」
「ええ。かなり。水の用意も、怪我のチェックも、空気の読み方も。安全担当がいてくれるおかげで、僕らは安心して打ち込めますから」
さらっとそう言われて、ユキは胸の奥がじんとする。
(俺、いてもいいんだ)
リングの外側にいる役割が、ちゃんと仕事として認められた気がした。陸さんは続ける。
「だから、リングに上がる話は、いつかそうしたくなったらまた相談する、でいいと思います」
「……いつか」
「はい。今すぐ決めないっていう選択も、ちゃんと一つの決定ですから」
ユキは、そこで初めて少し肩の力が抜けた。
「じゃあ、今日はどうするか、だけ決めてみませんか」
「今日、ですか」
「そうです。例えば――」
陸さんは、下に見えるフロアを顎で指し示した。
「とりあえず、今日はロープと、ライ君にジャブを教わってみるのはどうでしょう?」
にっこり笑う。
「いきなり試合に出るかどうかじゃなくて、リングの中でちゃんと立つために必要な一歩だけ、試してみる。それぐらいなら、怖さも少し軽くなりませんか」
縄跳び、ユキが苦手なやつ。
「……へたくそなの、バレちゃう」
思わず本音が漏れると、陸さんは「もうバレてる気もしますけど」とおどけた。
「へたくそでもいいんですよ。上手く飛ぶのが目的じゃないですし」
「じゃあ、なんのために……?」
「しんどいときにどう呼吸するかを覚えるためですね」
さらっと、とんでもなくそれっぽいことを言う。
「ロープに限らず、リングでも、人生でも、しんどいときって急に来るじゃないですか。そのとき、あ、今しんどいなって気づいて、息を整える練習になるんです」
ユキは、思わず笑ってしまった。
「人生まで入っちゃうんですね」
陸さんも笑う。
「それから、ライ君のジャブ。あれは怖がりな子のための武器でもあるので、ユキ君が覚えるのは悪くないと思いますよ」
「怖がりな子のための……」
「そう。相手を遠くに置ける技術です。怖くても、ここから先には入れないよって線を引ける」
ユキは、指先をぎゅっと握った。境界線。自分には、いちばん薄いと思っていたものだ。
「……やってみても、いいですか」
「もちろん」
陸さんは、すぐに頷いた。
「ロープで息を整えてから、ライ君にジャブを教わってください。リングで見てみたい景色にちょっとだけ近づく練習です」
リングを見下ろす。さっきより、ほんの少しだけ、リングが“檻”じゃなく“囲い”に見えた。
「それで十分ですよ。今日は、それだけで」
陸さんの言葉に、ユキは息を吐いた。
「……はい」
怖さは消えない。でも、今すぐ決めなくていいという言葉が、胸の中に小さな足場を作ってくれる。ユキは立ち上がった。
「じゃあ……縄跳び、してきます」
「行ってらっしゃい」
陸さんが手を振る。それを背中に感じながら、ユキは体育館の階段を降りた。縄跳びの音が、今日から少しだけ違う意味を持つ――そんな予感がした。
0
あなたにおすすめの小説
失恋したのに離してくれないから友達卒業式をすることになった人たちの話
雷尾
BL
攻のトラウマ描写あります。高校生たちのお話。
主人公(受)
園山 翔(そのやまかける)
攻
城島 涼(きじまりょう)
攻の恋人
高梨 詩(たかなしうた)
俺の指をちゅぱちゅぱする癖が治っていない幼馴染
海野
BL
唯(ゆい)には幼いころから治らない癖がある。それは寝ている間無意識に幼馴染である相馬の指をくわえるというものだ。相馬(そうま)はいつしかそんな唯に自分から指を差し出し、興奮するようになってしまうようになり、起きる直前に慌ててトイレに向かい欲を吐き出していた。
ある日、いつもの様に指を唯の唇に当てると、彼は何故か狸寝入りをしていて…?
楽な片恋
藍川 東
BL
蓮見早良(はすみ さわら)は恋をしていた。
ひとつ下の幼馴染、片桐優一朗(かたぎり ゆういちろう)に。
それは一方的で、実ることを望んでいないがゆえに、『楽な片恋』のはずだった……
早良と優一朗は、母親同士が親友ということもあり、幼馴染として育った。
ひとつ年上ということは、高校生までならばアドバンテージになる。
平々凡々な自分でも、年上の幼馴染、ということですべてに優秀な優一朗に対して兄貴ぶった優しさで接することができる。
高校三年生になった早良は、今年が最後になる『年上の幼馴染』としての立ち位置をかみしめて、その後は手の届かない存在になるであろう優一朗を、遠くから片恋していくつもりだった。
優一朗のひとことさえなければ…………
陰キャ系腐男子はキラキラ王子様とイケメン幼馴染に溺愛されています!
はやしかわともえ
BL
閲覧ありがとうございます。
まったり書いていきます。
2024.05.14
閲覧ありがとうございます。
午後4時に更新します。
よろしくお願いします。
栞、お気に入り嬉しいです。
いつもありがとうございます。
2024.05.29
閲覧ありがとうございます。
m(_ _)m
明日のおまけで完結します。
反応ありがとうございます。
とても嬉しいです。
明後日より新作が始まります。
良かったら覗いてみてください。
(^O^)
日本一のイケメン俳優に惚れられてしまったんですが
五右衛門
BL
月井晴彦は過去のトラウマから自信を失い、人と距離を置きながら高校生活を送っていた。ある日、帰り道で少女が複数の男子からナンパされている場面に遭遇する。普段は関わりを避ける晴彦だが、僅かばかりの勇気を出して、手が震えながらも必死に少女を助けた。
しかし、その少女は実は美男子俳優の白銀玲央だった。彼は日本一有名な高校生俳優で、高い演技力と美しすぎる美貌も相まって多くの賞を受賞している天才である。玲央は何かお礼がしたいと言うも、晴彦は動揺してしまい逃げるように立ち去る。しかし数日後、体育館に集まった全校生徒の前で現れたのは、あの時の青年だった──
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる