臆病な僕と、リングの約束 ーAパート 放課後サイドー

叶畑シュウ

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第一章

第八話

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 体育館の階段を降りると、下のフロアの少し奥、サンドバッグの前に、部長――中道なかみちアレセンがいた。
 黙々と、同じリズムでバッグを叩いている。ドス、ドス、と低い音。派手さはないのに、一発ごとにバッグの鎖がきしむ。ボクシング部、唯一のミドル級。母親はどこか遠くの国の人らしい。ユキは、その大きな背中をしばらく遠くから見ていた。
 物語の中の人みたいだと思う。同じ部活なのに、ほとんど言葉を交わしたことがない。でも、今日は。
 
(縄跳びとジャブ……)
 
 陸さんの言葉が背中を押す。ユキは、アレセンの近くまで行った。

「部長……」

 一発、二発。アレセンはすぐには振り向かない。ワンツーを打ち切ってから、ようやく手を止めた。

「……ユキか、どうした?」

 息は上がっていない。静かな目でこちらを見据える。ユキは、喉が乾くのを感じながら言った。

「俺、ちょっとだけ……ボクシング、教わろうかなって思ってます」

 言ってから、教わるって誰にだろう、と自分でおかしくなる。でも言葉はもう出てしまっていて、何を付け足していいか分からない。
 アレセンは、すぐには何も言わなかった。ユキの顔を一度見て、それから軽く息を吐く。

「ボクシングは」

 短く区切ってから、はっきりと言う。

「誰かにやらされるもんじゃないぞ」

 ユキの胸が、どきっとする。レンの「臆病」と同じくらい、まっすぐ刺さる言葉だった。アレセンは、サンドバッグから完全に身体を離して、こちらを向く。

あおられるなよ」

 視線が、ユキの頬をかすめる。ライとレンの殴り合い、そしてユキとレンの会話を知っている目だ。ユキは慌てて首を振った。

「ちが……その」

 言葉を探して、やっと繋ぐ。

「俺、ずっと見てるだけだったから……ライが見てる景色、ちょっとでも理解できたらいいなって、思って」

 殴りたいじゃなくて、理解したい。それが自分らしいと分かっているからこそ、どこか恥ずかしい。
 アレセンは、ふっと目を細めた。

「理解、か」

 一拍いっぱく置いてから、短く笑う。声には出ない、喉の奥で転がるみたいな笑い。

「……お前らしい」

 その言い方が、責めてもいないし、持ち上げてもいない。そういうやつだと分かっているという、ただの確認に聞こえる。ユキは、少しだけ肩の力が抜けた。アレセンは、ちらりとリングの方と、反対側のスペースを見る。普段、縄跳びをしている場所。

「とりあえず、ロープとジャブ、か」

 ユキがきょとんとすると、アレセンは淡々と続けた。

「さっき、陸さんと話してただろ。あの人なら、そう言う」

 ユキの顔が一気に熱くなる。
 
(見られてた……)

「……はい。縄跳びと、ジャブ。ライに教えてもらおうと思ってます」

 正直に言うと、アレセンは小さく頷いた。

「それでいい。ライなら安心だ」

 それだけ言ってから、サンドバッグに向き直る。グローブを構えながら、付け足すようにぽつり。

「どうせ、お前のこと、放っとかねぇから」

 次の瞬間には、もうバッグにワンツーを打ち込んでいた。話は終わり、という合図みたいに。ドス、ドス、とさっきと同じリズム。でもユキには、その音が少し違って聞こえた。

(……誰かに言われてやるもんじゃない、か)

 胸の中で、陸さんの「すぐ決めなくていい」と、アレセンの「煽られるなよ」が、重なっていく。ユキは小さく頭を下げた。

「ありがとうございます」

 声はサンドバッグの音にかき消されたかもしれない。でも、言えたことだけが、自分の中で大きかった。
 顔を上げると、ちょうどライが現れるところだった。
 ユキは息を吸って、そちらへ歩き出した。縄跳びと、ジャブの軌道きどうの向こうに――ライとレンが見ている景色の、いちばん手前だけでも、触れられる気がした。
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