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12話
しおりを挟む温室では煉瓦色の髪の、美しい侯爵令嬢が先に来てお茶を楽しんでいた。
「お待たせして申し訳ありませんっ」
扉を慌てて開けて 息を切らしたイルネギィアが言う。
侯爵令嬢バレリーはしんなり笑って いいのよ、と告げる。
なんて、優美なのかしら、とイルネギィアは彼女にうっとりとしてしまう。
キースが彼女に頼んでイルネギィアの淑女教育を始めて一週間。男爵家ではご令嬢の話し相手も勤めていたというのでイルネギィアは思ったより礼儀作法を習得していた。少しそそっかしいところが難点だが頭だって悪くない。仕草にもう少し優雅さが出せればいいが、とも思ったが別段貴族の真似事が出来ればいいのだ。殿方を陥落させる手段までは身に着ける必要はないだろう、とバレリーは彼女に少し甘いつもりでいた。
実際はイルネギィア本人からしてみたらば完璧主義のバレリーの教育は大変厳しいものだったけれど。
それでも、こんな美しい人に教えてもらえるなんて、とイルネギィアはこの侯爵令嬢が大好きだった。
バレリーの方もイルネギィアに好意的だった。最初はキースに掴まった可哀相な蝶だと思ったが本人が前向きなのが好ましかった。
キースから話を聞けば、田舎暮らしであまり人づきあいも多くなかったらしいので人を疑うことがないらしい。
それに、自分の印象を変えていたというのを聞いていたので、きっと、目立つことなく、嫉妬や足を引っ張られるような、他人の悪意にさらされることなく過ごしてきたのだろうと思う。
ただ、これからはきっとそうもいかないだろう。
キースが彼女をどう扱うかわからないが、少なくとも彼は一番自分に近い位置に置く。「仕事」に同伴する、ということはそういうつもりだ。
確かに上流社会でのキースの立ち位置は微妙だが、だからといって全く相手にされていないわけでもない。むしろ、野心家の女性はテオよりキースを選ぶだろう。
王室直属の〝魔法使い〟。
そんなキースの子を産む、ということはこれ以上ない栄誉だ。
次世代の王室付きの〝魔法使い〟の母になれる、ということなのだから。
おまけに商才のある、父たる公爵の後ろ盾のあるキースは商取引でも成功している。彼が伯爵位を継いでから、オーティス家の資産は着実に増えているし、まだ公爵が健在で、爵位を持っていないテオより、伯爵家の主に修まっているキースを狙う子女から きっと、身分のないイルネギィアは糾弾される。そう思うとバレリーは彼女の無邪気さが歯がゆくも感じるのだ。
…この子は大丈夫なのかしら。キースは自分の〝魔力庫〟に使う、と言っていたけれど、本来は軍に所属して王国の暗部、秘密裏の「仕事」をするはず。もしも、キースがこの子を手放さなくてはならなくなったら、この子は後ろ盾を失うことになる。そうしたら、〝魔法使い〟として独り立ちしなくてはならないのよ。そんな、人の心の裏側を読み、操る仕事、この子に出来るのかしら?
バレリーは優雅にカップの珈琲を飲み下す。
そんな仕草も素敵だなぁ、と暢気に見ているイルネギィアは またバレリーに叱られてしまう、あの無防備な笑顔を向けてしまうのだ。
夏。
緑さわめく季節に彼らの思惑は踊る。その軽やかなステップの終着点は見えない。
さあ、お手を、と言っても肝心の運命はなかなかその手を取らないのだから。
マキュスは港町だ。活気ある港の風景と青い空が印象的な、上流階級にとっても魅惑的な社交の場となっている。高台には素晴らしい見晴らしの丘があり、そこに彼ら貴族の別荘が建ち並ぶ。
勿論、広い敷地を擁しているので下町のように軒先を並べているわけではない。
「潮の匂い…」
慣れない香りにイルネギィアは珍しそうに馬車の外を見る。青々とした草地に可憐なひるがおのような花が顔を見せている。
「この先に公爵家の別荘があるよ」
馬車に伴に乗っているのはイルネギィアとキース、それにバレリーだ。
「バレリー、きみ こちらに乗ってよかったの?」
キースがバレリーを見やって言う。
イルネギィアはその空色の瞳をキースに向ける。バレリーは本当に無神経な人、と毒づいた。
連なる馬車の列の一台にテオドールは従僕と、そして己の母親といる。彼女はいつも本当に美しい。だが、テオドールにとって、この母親は他人に近い。いや、そう思いたいのだ。人から羨ましがられるほどの身分と教養、麗しさ。そして、人望となにもかも揃っている彼に一滴の劣等感を思い起こさせるのはこの母と、そして同じ顔した弟だから。
公爵夫人は面白くなさそうに扇で口元を隠した。
決して、彼女はこの長男坊を嫌っているわけではない。むしろ、才覚ある公爵に似た とても良い跡継ぎだと期待している。ただ、彼女はあくまでオーティス伯爵家を守るために結婚をした。その魔法の力を守るために。たまたま、オーティス伯爵を名乗るに次男が適任で、なので、愛情が偏ってしまっただけなのだ、と思っている。
それがテオドールの人格形成に影響を与えてしまったのだが、それを別段彼女は気にしない。
だが、結婚問題は別だ。
一度、この長男の婚約では問題が起きて流れている。
オーティス家を救ってくれた大恩ある公爵に、なんの憂いもない老後を過ごして頂くためにもこの兄弟には立派な妻を娶らせなくてはならない。
彼女は彼女なりに息子達を愛しているのだ。
「久しぶりね、マーティン。腰の具合はどう?」
別荘番の爺やに公爵夫人は気さくに声をかける。テオドールも公爵家の人間だが身内に向けてはあまり貴族らしくはない。勿論、キースもそうだ。私は田舎者だもの、と公爵夫人はその美しい声でころころと笑う。
使用人たちに好かれるはずだ、とイルネギィアは思った。
馬車からキースに手を引かれて降り、公爵夫人とテオドールに挨拶をした。そして、一度 皆それぞれの私室に入る。
イルネギィアはキースの使用人なので、彼の部屋の続き部屋をあてがわれた。
立場としては侍女兼、コンパニオン-話し相手-だ。
愛人にしておこうか? と聞かれたが花嫁を探している人がそういう態度は良くないと思うと反論した。
「いいんだよ。今回はテオの結婚相手探しだからね」
バルコニーからは海が望める。広く開けてキースは外に出る。黒い髪が風に舞って気持ち良さそうだ。
この部屋付の侍女を退がらせキースの世話はイルネギィアが引き受けることにした。
館で世話になっている間 学んだことのひとつ。
それは、あまり、キースは他人が好きではない、ということだ。
無音が心地良い、と言っていたのは多分、人が多いと気を張ってしまうのだろう。思わぬ心の声を聴いてしまうこともあるのかもしれない。なので、支配下にあるイルネギィアのように、信用している人間だけが傍らにいた方がいいのだろう。
察したイルネギィアになにも言わないところを見るとこれで正解だったようだ。キースは機嫌よく彼女の淹れた珈琲を飲む。イルネギィアはその間、彼の荷物と自分の荷物をといてそれぞれのクローゼットに入れた。キースの着替えは従僕に任せることにして、一息つくことにした。
与えられた部屋は白い壁に青と赤の小花のクッションとソファが添えられて夏らしい爽やかな内装だった。バルコニーもキースの部屋と続いている。
同じように海が見え、白い帆船が活気ある港へ入っていく様が見える。わぁ、と彼女は声をあげる。
「珍しい?」
いつの間にか、キースが珈琲を手にして彼女の傍らに立っていた。はい、と素直に頷き返す。
「お祖父ちゃんとは森に住んでいたので、海を見るのは初めてです。湖と全然違う…。こんなに広いんですね!」
思わずはしゃいでしまう。
そう、とキースは目を細めた。晩餐の前に少し歩こうかと提案してくれた。はいっと彼女は返事をしたあと、あ、と気がつく。
「バレリー様は?」
「テオに任せる」
「お連れしたのはキース様なのに」
「明日には母上の選んだテオの花嫁候補たちが集うからね。バレリーがテオを独占出来るのは今日だけだよ。だから、今日はイリーもバレリーに纏わりつかないように」
纏わりついてなんかいませんっと反論しようとしたが、庭をテオドールと親しげに腕を組み歩むバレリーの姿を見つけて、ああ、と納得した。
あの、いつも凛とした人が頬を赤らめているのがなんとも愛らしい。
ケティの言葉が蘇る。
――バレリー様はテオドール様に好意を抱いていらっしゃるんですよ。
そして、キースのあとについて部屋に戻り、彼女はそっとバルコニーの扉を閉めた。
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