松岡さんのすべて

宵川三澄

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時間と絆とその結末

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翌日、由多花はビジネスホテルから出社した。素泊まり一週間プランがあったので、それに変更してもらった。
泣きはらした目は散々だったが、日常はそれくらいスルーしてくれる許容量があった。
沙菜にはことの次第を電話して、ゆっくり話を聞いてもらうことにした。
これからのことは由多花の中では白紙だった。
松岡さんからは、林さんの見舞いに向かう旨、メールがあった。
深くため息が落ちたが、そのまま、メールを削除した。

ゆっくりと、由多花は心の整理をすればいい。
そう、思っていた。
それから、次の土曜まで毎日 松岡さんからメールが届く。
他愛ない今日のこと、そして、最後に会いたい、と書いてある。
由多花は素直に嬉しい、と思った。
けれど、その嬉しいという飲み込んだ言葉ごと、メールを削除する。

少しづつ。

恋心とおさらばするのだ、と。


人生は苦くてスパイシー。
それが、当たり前のことなのだ。
天変地異なんて起きなかった。
松岡さんは、一生、松岡さんだけのもの。――由多花のものには、ならなかった。





病室で、彼女は母親に髪を梳いてもらっていた。
細くなってしまった娘の肩に、母親は涙声になる。
個室を用意してもらったのは、いつも来るあの男をなじる様子を他人に見られたくなかったからだ。
娘はやめてと言うが母親は我慢がならなかった。
大人しい娘を捨てて、今は別の女と暮らしているというではないか。
いきなり、携帯もつながらなくなり、それから娘がどれほど不安な日を過ごしたか、あの男に思い知らさねば気が済まない。
正式な婚約や、結納を済ませていなかったとは言え、娘と男は結婚を約したのだ。その法的な罰は受けてしかるべきだ。

病室のドアがノックされた。
娘は、七穂はハッとした顔をする。彼女の母親は硬い面持ちでドアを開けた。
そこには、松岡涼が立っている。
母親が初日に頬につけた痣はさすがに小さくなっていた。

「どうぞ」

母親が中に入るよう促したとき、松岡涼は驚いた面持ちでベッドを見ている。母親もそれに怪訝な顔して振り返った。

娘がベッドの上で正座して、頭を下げていた。

「な、なにしているの、七穂…!」
母親は狼狽する。娘がなぜ頭を下げねばならないのか。
「お母さん、黙って」
大人しい娘が母親を一瞥もせず言葉を放った。
松岡涼はドアを閉めて、ベッドに近寄り よしてくれ、と彼女に頭をあげるように促した。
しかし、七穂は聞かない。

「――もう、来ないでください。……私たち、綺麗に別れましょう……。貴方は」
七穂が震えている。
「……貴方は私の不貞を見逃せなかった……。もう、私も、貴方を責めません……。いえ、責める権利はありません」

娘の言葉に母親は驚いた。
不貞? それはいったい、どういうことだ、と娘に、いや、松岡涼に問うた。彼は答えない。

「…お母さん、黙っていてごめんなさい…。私、私が浮気したの。それで、涼に別れを突きつけられたのに、…受け入れられなかった。ただ、それだけなの、私たち…」
「う、浮気って、あなた、他に好きな人がいたっていうの!?」

好きな人ですら――ない、と七穂の言葉は母親を戸惑わせる。

「私、貴方がこうして私を見舞い続けるなんて思っていなかった…。欠片も…」
彼女は嗚咽を漏らした。ポツリともらしたその言葉は本音だったのだろう。
「ごめんなさい、涼…。…私は、貴方を多分、ずっと信じられなかったの…。だから、あんな形で試してしまった」
私は、貴方が私をどこまで許してくれるか知りたかったのかもしれない――と。
「もう、充分…。充分、貴方は誠実でした。ずっと――誠実だった。私、貴方のことが本当に好きならそれで満足すべきだった…」

松岡涼は目を伏せる。
悪かった、と言った。

彼は手にしていた小さな見舞いの花束を母親に渡し、ゆっくり、彼女に頭を下げた。
混乱している母親は はぁ、と間抜けな声で それを受け取ったが、娘の声で正気に帰る。
松岡涼は その相貌に苦い笑みを乗せて、母親にお元気で、と言った。
それから、七穂に向かうと、きみも、ともう一度頭を下げた。
娘はそれを見て肩を震わせたが、二度とメールもしません、と言って彼女もまた深くお辞儀した。
松岡涼は そのまま、その病室をあとにする。

二人の間にあったのは。

彼は誠実であったが、恋ではなかった。
彼女は恋していたが己の誠実さを裏切った。
だが、時間という絆はそれを見合った形で彼らに返してくれた。別れ――という結末を。



病院から帰り、松岡涼はキーボードを叩いた。だが、集中出来なかった。
リビングのソファに座り、ピンクのクッションをポスンと叩く。
いつもそれを抱えて座っている女の子はいなかった。
彼は携帯を取り出し、いつものメールを打つ。
何度も消して、結局送信したのは、会いたい、とただ書いただけのメールだった。
いつものように、返信はなかった。

そして、彼は立ち上がった。
クローゼットからいくつか着替えを選び、引き出しからパスポートを取り出す。
口だけ動かし、行き先を呟き、そして旅行用のスーツケースを手にして、その部屋をあとにした。
ドアの閉まったその部屋は、由多花と松岡さんの我が家だったが、今はただの空間にすぎなかった。
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