松岡さんのすべて

宵川三澄

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賭け

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由多花はホテルに戻り、荷物をまとめた。
一週間プランの残りをキャンセルし、清算して駅に戻った。
いつもの地下街。人の通り。決まった流れに身を任せ、あのいつもの入り口から由多花は歩き出す。
手にはスーパーで買った野菜と魚。

――そして、手放さなかった鍵で、もう一度、松岡さんと由多花の寝床に戻った。


簡単に掃除をして、魚の煮付けを作った。一人で食べた。
日曜もそうして掃除に明け暮れた。位牌は元に戻して花を供える。それから、お風呂の準備をして松岡さんがいるときは嫌がる薔薇のバブルバスを堪能した。

結局月曜から金曜まで、会社とマンションを行き来して、同じような日常を送った。

掃除用具のクイックルワイパーの柄にさらに定規で長くして、いつも松岡さんが使っている緑のクッションを その先に紐でぐるぐる巻きにして付けて柄を倒す。
クッションがあるので柄がぶつかっても痛くないはず。
これを玄関に置いて、松岡さんの帰りを迎えよう。ささやかな悪戯だ。
とりあえず、毎日魚の煮つけを作って食べた。さすがに飽きるが いつ帰ってくるかわからないから仕方ない。



一人で食べているとあのアパートの生活を思い出す。
あれはあれで悪くない毎日だった。
父と母が生きていたとき、やっぱり一人で食べていて、母は視線を合わせないようTVを見ながらそれでも娘が食卓にいる間、ずっと話しかけてきていた。
じわ、とそれを思い出して時々泣いた。

それで、いいじゃないか、と思った。

一緒に食べられなければ、家族じゃないと思っているなら話は別だが、そうじゃないなら、折り合いをつけることも出来るだろう。 それが、家族で生きるってことだろう。
もしも旅行に別な女が一緒なら殴ってそのまま、また出て行こう。
けれど、由多花は今 そうじゃない方に賭けている。
きっと勝率は高いはず。それが思い上がりなら、やっぱり殴って走り去るわ。
いずれにせよ、松岡さんは由多花に殴られる運命だ。こればっかりは享受してもらう。

そろそろ涼しくなってしまう。この地方都市の秋は訪れが早い。
まだ、九月に入ったばかりなのに、と思いながら帰宅した。

会社から異動を申し渡され、希望の経理にめでたく移る。
あれから、夏が終わる前に退院してきた林さんは結局会社を辞めた。
今北が何度かお見舞いに行ったが丁重にお断りされたそうだ。これはスピーカーさん談。
辞める間際、彼女がこちらに視線を寄越したので 人気のない階段で少し話した。
話、と言っても由多花に改めて頭を下げただけなのだけど。
特になにも思わないようにはした。
ある意味、お互い様だし、彼女は沢山のものを失ったのだし。父母を車でひいた人にも言ったことを口にしただけだった。

「二度と同じ過ちはしないで」

それだけ。
由多花は自分は全然、優しくない、と思った。

その日は落ち込んだ。あんな偉そうなこと、由多花は言える人間ではないのだ。
――あのバカ、早く帰ってくればいいのに。
由多花が秋の雨降る中、暗くなった外を眺めて ぼう、と携帯でいつものアイドルグループのまとめサイトに行く。
押しのアリスちゃんは今日も元気だ。ホッとする。なんだか、自分の妹が頑張っているみたいで、やっぱり嬉しい。
けれど、その安堵の顔が次のページを繰った途端、ひきつった。

『マミナ卒業』

動揺した。
え、と大きな声をあげた。

詳細を見たが、卒業公演もなされず、唐突に卒業の文字だけがそこにあった。

たいてい、このグループの子は劇場で卒業公演をするものだと思っていたのに…。


ガツンと後ろから殴られた気がした。
愛情という薄氷は、こちら側からのものだとばかり思い込んでいた。

ああ、違う。違う、違う。
彼女もこちらに愛があったのだ。
だから、ああして、頑張ってくれていたのだ。
けれど、還ってこないものに やはり彼女の愛も途切れないはずはなく。

――見捨てられた、と思った。
特に押しでもないのに、由多花がこんなに衝撃を受ける権利はない。それはわかりすぎるほどわかっていた。
けれど、それでも、ショックが大きい。

――これ、松岡さんも見たよね…?

そわそわとした。 携帯は今もつながらないのだろうか。あれから、こちらからは電話もメールもしていない。
そう思うと背中に冷や水を浴びせられたような気がした。
本当に、彼が他の誰かと旅行に出ていてもおかしくないのだ。
由多花は彼になにをしてあげたのだろう?
彼がなにも辛くないはずないのに…。

自分のことばかりなのは、由多花も一緒だ。

思うと情けなさで涙が溢れた。
手に持っていた携帯を一度閉めたが、意を決してもう一度開く。

そして、短いメールを打った。
何度も何度も書き直して、結局その内容になったのだ。

『会いたい』――と。

送信して、静かに携帯を閉じ、由多花も夜に飲み込まれた。




朝からビーフシチューの仕込みをしていた。さすがに魚の煮付けは飽きていたので。
二日前の夜にメールをしたが、松岡さんからの返信はなかった。
なので、今日は携帯は見ていない。
土曜だが、今日は沙菜は彼氏の実家に遊びに行くとのことなので、約束は取り付けなかった。
親友の結婚が現実味を帯びてきたな、と思う。
赤ワインを とぽとぽ入れると火をかけた。半日以上煮込めるな、と時計を見て深くソファに身をゆだねた。
今日もいつもと同じ。
由多花の息づく音だけする空間。
他に誰もいない空間。
ただ、窓の外に高く飛ぶ鳥がときに影を見せるだけ……。



うつらうつらしてきたとき、玄関のドアからカチャリと――鍵を開ける音がした。

由多花はバッと跳ね起きる。
帰りの歓迎の準備をずっとしてきたのだ。
だから、絶対、成功するはずだったのだが、それはパタンと軽い音立てて、その、待ち人から遠く離れた場所に意味なく倒れた。

待ち人、松岡さんは小脇にピンクのクッションを抱えて、それを呆然と見送った。

――おかしい。
入ってきたところに、このワイパーの柄につけたクッションが松岡さんの頭にヒットするはずだったのに…!

だが、由多花は玄関のドアが手前に引かれることを忘れていた。
二週間もの間、なぜ気づかなかったか不思議すぎる。
そして、松岡さんは、そこにそんな抜けた出迎えをする由多花が存在するとは思ってもみなかったようだ。
その、抱えていたピンクのクッションを ぽと、と落とした。

「…おかえり」
「ただいま…」

二週間ぶりの由多花と松岡さんの再会は、ひどく間抜けな二人になった。

――ただ、確かに由多花は賭けに勝った。松岡さんが落としたピンクのクッションがその証だった。
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