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5 フィレンツェから出発
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霧の中、ルカはしばらく黙っていた。
でもやがて、静かにつぶやく。
「……そんな誓いを立てる女は、俺の知る貴族にはいない」
「私はもう、ただの“貴族の娘”ではありませんから」
私は小さく笑ったあとに言った。
「これから私は、自分の実家の領地へ行くつもりです。
私の家であるロレンツィ家には、地方領地や荘園があります。
フィレンツェの支配下にある領地ですが、市街のなかに住む権利をうばわれただけなので、実家に戻っても公子から文句は言われないでしょう」
追放された身である私は、もうフィレンツェ市民ではない。
だから、市壁の外にある領地で暮らすしかなかった。
「ルカ、あなたに一緒に来てほしいのです」
彼の動きが止まる。
その瞳には、ほんの少しだけ驚きが混じっているように見えた。
「……あんた、自分が何を言ってるかわかってるのか?
俺は追放者で、傭兵だ。もともと貴族の護衛じゃない。盾にも飾りにもならん」
「それでも構いません」
風でマントが揺れるのも構わず、私は続けた。
「フィレンツェに居場所がないのは、私も、あなたも同じです。
だったら――いっそ、同じ道を歩きませんか?
あなたの剣と、私の知識。……それが一緒になれば、きっと道は開けます」
ルカはしばらく言葉を失ったまま、私を見つめた。
やがて、彼はかすかに苦笑を浮かべる。
「貴族の娘が、傭兵に“共に来い”と口にするとはな。……正気の沙汰じゃない」
「いいえ。これは正気の決断です。
あなたは私を命懸けでかばいました。――次は私の番です。
私の領地に同行し、屋敷の守備・治安・兵の訓練を担ってください。
やがて“ロレンツィ家の戦力”として認められるはずですよ」
実際に、16世紀のヨーロッパでは、没落貴族・追放傭兵が地方領主の“家臣・戦力”になる例は多い。
少しの沈黙の後、ルカは深く息を吐き、馬の鼻先を私の方へ向けた。
「……勝手に後悔するなよ、令嬢」
その頃、東の空がわずかに白み始めていた。
私たちは馬を押しながら、この都市から出るためにプラート門へ向かった。
分厚い石積みのプラート門は、夜明け前の冷気を含んで石が湿っている。
門の向こうへ抜けると、空気がいっきに変わった。
城壁内の石畳は終わり、外には露をまとった土の道、朝靄に沈む小さな畑、早起きの農夫たちの気配がある。
門番の姿も遠く、誰も私たちを引き止めない。
その解放感と、追放者の現実が、同時に胸に落ちた。
「……もう、私たちはフィレンツェ市民ではなくなるんですね」
私がつぶやくと、ルカは静かに答えた。
「だが、生きる場所は自分で選べる」
その言葉に背を押されるように、私は前を見る。
城壁周辺の工房街を抜け、アルノ川沿いの道へと出ると、朝霧の向こうに、ヴェッキオ橋が姿をあらわした。
ヴェッキオ橋は、アルノ川にかかる中世の石橋だ。
橋の左右の両側に、金細工商の家々が、そのまま張り付くように並んでいる。
橋の入口は霧で白み、石畳は夜露で薄く濡れて、足元がひんやりした。
まだ商店の扉は閉まっていて、橋の上には私とルカしかおらず、ゆるい水音だけが聞こえる。
橋を渡りきると、フィレンツェの喧噪とは別世界の、やわらかな丘陵が広がっていった。
向こうに見えるのは、キャンティ地方の葡萄畑。
葉に朝露が光り、オリーブの樹々が銀色に揺れる。
農民の鍬の音、馬の白い息、土と青草の匂い。
ここはもう、フィレンツェではない。
振り返ると、フィレンツェ大聖堂の巨大なドームや、ヴェッキオ宮殿の塔が、霧のなかで淡くぼやけて見えた。
「……行きましょう、ルカ」
「ああ。令嬢の領地へな」
私たちは並んで歩き出した。
城壁の向こうでパンを焼く煙がのぼっても、もう誰も私たちを市民とは呼ばない。
けれど、この道は確かに未来へ続いていた。
でもやがて、静かにつぶやく。
「……そんな誓いを立てる女は、俺の知る貴族にはいない」
「私はもう、ただの“貴族の娘”ではありませんから」
私は小さく笑ったあとに言った。
「これから私は、自分の実家の領地へ行くつもりです。
私の家であるロレンツィ家には、地方領地や荘園があります。
フィレンツェの支配下にある領地ですが、市街のなかに住む権利をうばわれただけなので、実家に戻っても公子から文句は言われないでしょう」
追放された身である私は、もうフィレンツェ市民ではない。
だから、市壁の外にある領地で暮らすしかなかった。
「ルカ、あなたに一緒に来てほしいのです」
彼の動きが止まる。
その瞳には、ほんの少しだけ驚きが混じっているように見えた。
「……あんた、自分が何を言ってるかわかってるのか?
俺は追放者で、傭兵だ。もともと貴族の護衛じゃない。盾にも飾りにもならん」
「それでも構いません」
風でマントが揺れるのも構わず、私は続けた。
「フィレンツェに居場所がないのは、私も、あなたも同じです。
だったら――いっそ、同じ道を歩きませんか?
あなたの剣と、私の知識。……それが一緒になれば、きっと道は開けます」
ルカはしばらく言葉を失ったまま、私を見つめた。
やがて、彼はかすかに苦笑を浮かべる。
「貴族の娘が、傭兵に“共に来い”と口にするとはな。……正気の沙汰じゃない」
「いいえ。これは正気の決断です。
あなたは私を命懸けでかばいました。――次は私の番です。
私の領地に同行し、屋敷の守備・治安・兵の訓練を担ってください。
やがて“ロレンツィ家の戦力”として認められるはずですよ」
実際に、16世紀のヨーロッパでは、没落貴族・追放傭兵が地方領主の“家臣・戦力”になる例は多い。
少しの沈黙の後、ルカは深く息を吐き、馬の鼻先を私の方へ向けた。
「……勝手に後悔するなよ、令嬢」
その頃、東の空がわずかに白み始めていた。
私たちは馬を押しながら、この都市から出るためにプラート門へ向かった。
分厚い石積みのプラート門は、夜明け前の冷気を含んで石が湿っている。
門の向こうへ抜けると、空気がいっきに変わった。
城壁内の石畳は終わり、外には露をまとった土の道、朝靄に沈む小さな畑、早起きの農夫たちの気配がある。
門番の姿も遠く、誰も私たちを引き止めない。
その解放感と、追放者の現実が、同時に胸に落ちた。
「……もう、私たちはフィレンツェ市民ではなくなるんですね」
私がつぶやくと、ルカは静かに答えた。
「だが、生きる場所は自分で選べる」
その言葉に背を押されるように、私は前を見る。
城壁周辺の工房街を抜け、アルノ川沿いの道へと出ると、朝霧の向こうに、ヴェッキオ橋が姿をあらわした。
ヴェッキオ橋は、アルノ川にかかる中世の石橋だ。
橋の左右の両側に、金細工商の家々が、そのまま張り付くように並んでいる。
橋の入口は霧で白み、石畳は夜露で薄く濡れて、足元がひんやりした。
まだ商店の扉は閉まっていて、橋の上には私とルカしかおらず、ゆるい水音だけが聞こえる。
橋を渡りきると、フィレンツェの喧噪とは別世界の、やわらかな丘陵が広がっていった。
向こうに見えるのは、キャンティ地方の葡萄畑。
葉に朝露が光り、オリーブの樹々が銀色に揺れる。
農民の鍬の音、馬の白い息、土と青草の匂い。
ここはもう、フィレンツェではない。
振り返ると、フィレンツェ大聖堂の巨大なドームや、ヴェッキオ宮殿の塔が、霧のなかで淡くぼやけて見えた。
「……行きましょう、ルカ」
「ああ。令嬢の領地へな」
私たちは並んで歩き出した。
城壁の向こうでパンを焼く煙がのぼっても、もう誰も私たちを市民とは呼ばない。
けれど、この道は確かに未来へ続いていた。
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