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6 ラストラまでの二人旅
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アルノ川の霧が晴れるころ、私たちはピサ(※都市)へ通じる街道を西へ進んでいた。
フィレンツェとピサを結ぶ主要路のひとつで、16世紀の今も、商人や巡礼者、軍隊、外交使節などが通る重要な道だ。
街道はアルノ川の西岸に沿って延び、川舟の往来と並んで都市の血管のような役目を果たしている。
「寒くないか」
隣を歩くルカが、ふいに言った。
声の調子はいつも通りぶっきらぼうなのに、歩幅を少しだけ私に合わせていることに気づく。
アルノ川に沿う道は風が強く、朝は霧が濃い。
川が谷みたいなものだから、北から吹く風が、すぐここに落ちてくる。
「……大丈夫です。宮殿の石の床より、ずっとあたたかいわ」
城壁が遠ざかり、人の気配も馬車のきしむ音も消える。
あるのは風の音と、牧草地で草を食む羊の鈴の音だけ。
「本当に、俺をつれていくつもりなのか」
ルカは歩きながら問いかけた。
鎧の肩にかけた外套が冷たい風に揺れる。
声には苛立ちではなく、確かめるような色があった。
私は頷いた。
「ええ。私の家の領地は、フィレンツェの北西、アルノ川にそそぐ支流沿い――ラストラ・ア・シーニャの丘の上です」
ラストラは、フィレンツェ中心部から西におよそ10~15キロメートル行った場所にある丘で、現代でも町として存続している。
私たちがいる現在地からだと、およそ半日から一日の道のり。
この街道を西へ進めば、馬なら数時間、徒歩でも陽の傾くころには着くはずだ。
「領地で……私は最初からやり直します。貴族の娘が、領民の前で“やり直す”と言ったら、笑われてしまうかもしれませんが……」
「……強いんだな」
「強いふりを、しているだけです」
その一言に、ルカはわずかに目を伏せた。
私は、馬を引く彼の隣を、黙って歩き続ける。
馬車も召使いも取り上げられ、歩いて領地に戻るしかないと告げられた身だ。
舗装されていない土の道を歩くと、靴底は湿った泥を吸い、すぐに重くなる。
イタリアは伝統的に『革の産地』なので、専門の靴職人が作る革靴を一般的に履いているけれど、この時代の革靴は防水処理がほとんどされていない。
だから、川沿いの道を歩けば、革底は水を吸いまくるのだ。
やがてルカは短く息を吐き、馬の手綱を引いた。
「――乗れ。歩けば日が暮れる」
「でも……」
「丘まではまだかなりある。馬は、俺の一頭しか残っていない」
貴族令嬢が男の馬に同乗するのは、礼に反する行為だった。
ルカは、淡々と言葉を重ねる。
「追放された身に、礼儀も形式もいらん。凍えて倒れたいなら好きにしろ。ただ、森で襲ってくるのは人間だけとは限らない」
「……わかりました。では、おねがいします」
差し出された手に、私はそっと指先を重ねた。
鎧の手甲越しに、革の固い感触が伝わる。
私は鞍の上へ引き上げられた。
馬の首が上下に一瞬だけ揺れ、地面が静かに遠ざかる。
馬上に座った瞬間、背後から外套がふわりとかけられた。
つぎに、ルカが私のうしろに乗ってきた。
16世紀イタリアでは、男性が前で、貴婦人が後ろに乗るやりかたが一般的だ。
でも、落馬を防ぐためなのか、彼は後ろから私の腰をしっかりと支えられる位置に座る。
背中越しに感じる、硬い胸板の温かさ。
鉄と革の匂い、そして彼の鼓動。
風の音にまぎれて、それらが不思議なほど近く聞こえる。
「怖いか」
「……少し。でも、あなたがいるから平気です」
ルカは答えず、馬を進ませた。
蹄の音が、まだ残る霧の中に吸い込まれていく。
馬が歩むたび、鞍が揺れ、体が彼の背にかすかに触れる。
アルノ川の霧は次第に晴れ、かわりに冬の風が肌を刺した。
フィレンツェとピサを結ぶ主要路のひとつで、16世紀の今も、商人や巡礼者、軍隊、外交使節などが通る重要な道だ。
街道はアルノ川の西岸に沿って延び、川舟の往来と並んで都市の血管のような役目を果たしている。
「寒くないか」
隣を歩くルカが、ふいに言った。
声の調子はいつも通りぶっきらぼうなのに、歩幅を少しだけ私に合わせていることに気づく。
アルノ川に沿う道は風が強く、朝は霧が濃い。
川が谷みたいなものだから、北から吹く風が、すぐここに落ちてくる。
「……大丈夫です。宮殿の石の床より、ずっとあたたかいわ」
城壁が遠ざかり、人の気配も馬車のきしむ音も消える。
あるのは風の音と、牧草地で草を食む羊の鈴の音だけ。
「本当に、俺をつれていくつもりなのか」
ルカは歩きながら問いかけた。
鎧の肩にかけた外套が冷たい風に揺れる。
声には苛立ちではなく、確かめるような色があった。
私は頷いた。
「ええ。私の家の領地は、フィレンツェの北西、アルノ川にそそぐ支流沿い――ラストラ・ア・シーニャの丘の上です」
ラストラは、フィレンツェ中心部から西におよそ10~15キロメートル行った場所にある丘で、現代でも町として存続している。
私たちがいる現在地からだと、およそ半日から一日の道のり。
この街道を西へ進めば、馬なら数時間、徒歩でも陽の傾くころには着くはずだ。
「領地で……私は最初からやり直します。貴族の娘が、領民の前で“やり直す”と言ったら、笑われてしまうかもしれませんが……」
「……強いんだな」
「強いふりを、しているだけです」
その一言に、ルカはわずかに目を伏せた。
私は、馬を引く彼の隣を、黙って歩き続ける。
馬車も召使いも取り上げられ、歩いて領地に戻るしかないと告げられた身だ。
舗装されていない土の道を歩くと、靴底は湿った泥を吸い、すぐに重くなる。
イタリアは伝統的に『革の産地』なので、専門の靴職人が作る革靴を一般的に履いているけれど、この時代の革靴は防水処理がほとんどされていない。
だから、川沿いの道を歩けば、革底は水を吸いまくるのだ。
やがてルカは短く息を吐き、馬の手綱を引いた。
「――乗れ。歩けば日が暮れる」
「でも……」
「丘まではまだかなりある。馬は、俺の一頭しか残っていない」
貴族令嬢が男の馬に同乗するのは、礼に反する行為だった。
ルカは、淡々と言葉を重ねる。
「追放された身に、礼儀も形式もいらん。凍えて倒れたいなら好きにしろ。ただ、森で襲ってくるのは人間だけとは限らない」
「……わかりました。では、おねがいします」
差し出された手に、私はそっと指先を重ねた。
鎧の手甲越しに、革の固い感触が伝わる。
私は鞍の上へ引き上げられた。
馬の首が上下に一瞬だけ揺れ、地面が静かに遠ざかる。
馬上に座った瞬間、背後から外套がふわりとかけられた。
つぎに、ルカが私のうしろに乗ってきた。
16世紀イタリアでは、男性が前で、貴婦人が後ろに乗るやりかたが一般的だ。
でも、落馬を防ぐためなのか、彼は後ろから私の腰をしっかりと支えられる位置に座る。
背中越しに感じる、硬い胸板の温かさ。
鉄と革の匂い、そして彼の鼓動。
風の音にまぎれて、それらが不思議なほど近く聞こえる。
「怖いか」
「……少し。でも、あなたがいるから平気です」
ルカは答えず、馬を進ませた。
蹄の音が、まだ残る霧の中に吸い込まれていく。
馬が歩むたび、鞍が揺れ、体が彼の背にかすかに触れる。
アルノ川の霧は次第に晴れ、かわりに冬の風が肌を刺した。
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