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27 出発の朝
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次に私は、防具を取り出した。
胸だけをおおう鋼の胸甲――ブレストプレートだ。
16世紀初頭のイタリアでは、全身甲冑が徐々に軽量化されていき、胸部のみを覆う「軽装胸甲」が登場していた。
傭兵や騎兵が、弩や火縄銃の弾丸(弾鉛)に対する防護として用いることもある防具だ。
いま私の手もとにあるこの鎧は、父や祖先がかつて都市国家の軍に仕えた証として、屋敷に飾られていたものだ。
定期的に油を引かれ、錆を落とされてきたため、年月を経てもまだ使える。
アレッシオ公子の役人や兵士による没収をまぬがれた、数少ない遺品でもある。
「魔法科学をほどこしましたので、布のように軽いけれど、魔法障壁を張れます。火矢も、刃も、一撃なら防げるはず」
私は指先で軽く鎧を撫でる。
そのたびに、表面に刻まれた魔法陣が淡く光を帯びた。
「これを着て、私を守ってくれますか?」
そう問いかけてみると、ルカはやさしく笑った。
「頼まれなくても、そのつもりだ。
それにしても……、傭兵のためにこんなすごいものを作る女は初めて見たな」
「あなたにしか渡したくなかったんです。だから、気持ちをこめて魔法科学をほどこしました」
その言葉に、彼の動きがほんの一瞬止まる。
ルカの手が胸甲の縁をなぞり、やがて彼の表情はゆっくりとした微笑みに変わった。
「……ルッカ共和国まで、長い旅になりそうだな」
「ええ。けれど、あなたがいれば、きっと行けます」
暖炉に残った火が小さく爆ぜ、火の粉が舞う。
揺れる橙色の光の中で、二人の影が寄り添うように、静かに重なった。
◇
翌朝。
まだ陽が昇りきらない薄明の中、領館の中庭には白い朝もやが漂っていた。
濡れた石畳の上に、馬のひづめが軽く響く。
傭兵隊長ルカの栗毛の軍馬は、丈夫な鞍に革袋と水筒、刃文の光る剣を収めた鞘を左右に吊り、静かに待っていた。
鞍革はよく油を吸い、長旅に耐えるよう補強されている。
私は、馬の背中に塩を詰めた小樽を四つ積む。
見た目はせいぜい一樽二十リブラ(約七キロ)ほどにしか見えない。
しかし――実際の中身は、合わせて塩が二トン。
本来ならラバ十頭でも重すぎる量だ。
けれど私は、樽の内側に刻んだ魔法科学陣で体積を圧縮し、背負い枠には「重量軽減の術式」を組み込んでいた。
馬の背骨に一点集中しないよう、荷重は左右へ均等に分散されている。
だから、馬が感じる重さはわずか八十キログラム――二百三十リブラほどに抑えられている。
栗毛の馬が鼻を鳴らす。
私は首筋を撫でながら囁いた。
「心配しないで。あなたが感じる荷の重さは、穀物袋ひとつぶんくらいよ」
傭兵隊長ルカは、腕を組んでその作業を黙って見ていた。
「……本当に、そこに塩が二千リブラ(※約二トン)も入っているのか?」
「信じられないなら、樽を開けて中身を確認してみますか?」
「いや、いい。せっかく荷物をつめおわったのに、そんな手間をかけさせるわけにはいかないからな。
……しかし、いつも思うが、あんたは腕のいい魔術師にしか見えないな。たまに、貴族の娘だってことを忘れそうになる」
ルカは感心したように苦笑しながら言ったあと、馬の手綱を取った。
「馬に負担はかかっていないみたいだな。これなら、ルッカ共和国まで馬が持つかもしれん」
朝露を吸った麦畑の向こうで、ローマ街道の石畳が、夜明けの光を受けてうっすらと白く輝き始めていた。
古代から続くその道は、商人と兵と巡礼者の足音を、幾世紀も受け止めてきた道だ。
いまから、このローマ街道を馬で進んでいき、ルッカ共和国をめざす。
この時代では、現代とはちがい、旅というのは危険がともなう。
天候予報なし、地図は不正確で、情報がないためすべての行動は自己責任となってしまう。
だからこそ、私には同行者であるルカの存在が重要だった。
それと、私が外出しているあいだ、留守を執事ひとりにすべてまかせてしまうことになる。
それは『気楽な留守番』ではなく、小さな領地を丸ごと背負う仕事でもあった。
私はマントの縁を握りしめながら、振り返る。
館の玄関前には、老執事ドメニコが直立し、背筋を伸ばしてこちらを見つめていた。
白髪まじりの口ひげがかすかに震え、それでも表情はいつものように厳しく整っている。
「お嬢様……どうか、ご武運を」
執事の声は低く、朝の冷気に白く溶けた。
それだけで胸の奥に熱いものがこみあげ、私は小さく頷くしかできなかった。
胸だけをおおう鋼の胸甲――ブレストプレートだ。
16世紀初頭のイタリアでは、全身甲冑が徐々に軽量化されていき、胸部のみを覆う「軽装胸甲」が登場していた。
傭兵や騎兵が、弩や火縄銃の弾丸(弾鉛)に対する防護として用いることもある防具だ。
いま私の手もとにあるこの鎧は、父や祖先がかつて都市国家の軍に仕えた証として、屋敷に飾られていたものだ。
定期的に油を引かれ、錆を落とされてきたため、年月を経てもまだ使える。
アレッシオ公子の役人や兵士による没収をまぬがれた、数少ない遺品でもある。
「魔法科学をほどこしましたので、布のように軽いけれど、魔法障壁を張れます。火矢も、刃も、一撃なら防げるはず」
私は指先で軽く鎧を撫でる。
そのたびに、表面に刻まれた魔法陣が淡く光を帯びた。
「これを着て、私を守ってくれますか?」
そう問いかけてみると、ルカはやさしく笑った。
「頼まれなくても、そのつもりだ。
それにしても……、傭兵のためにこんなすごいものを作る女は初めて見たな」
「あなたにしか渡したくなかったんです。だから、気持ちをこめて魔法科学をほどこしました」
その言葉に、彼の動きがほんの一瞬止まる。
ルカの手が胸甲の縁をなぞり、やがて彼の表情はゆっくりとした微笑みに変わった。
「……ルッカ共和国まで、長い旅になりそうだな」
「ええ。けれど、あなたがいれば、きっと行けます」
暖炉に残った火が小さく爆ぜ、火の粉が舞う。
揺れる橙色の光の中で、二人の影が寄り添うように、静かに重なった。
◇
翌朝。
まだ陽が昇りきらない薄明の中、領館の中庭には白い朝もやが漂っていた。
濡れた石畳の上に、馬のひづめが軽く響く。
傭兵隊長ルカの栗毛の軍馬は、丈夫な鞍に革袋と水筒、刃文の光る剣を収めた鞘を左右に吊り、静かに待っていた。
鞍革はよく油を吸い、長旅に耐えるよう補強されている。
私は、馬の背中に塩を詰めた小樽を四つ積む。
見た目はせいぜい一樽二十リブラ(約七キロ)ほどにしか見えない。
しかし――実際の中身は、合わせて塩が二トン。
本来ならラバ十頭でも重すぎる量だ。
けれど私は、樽の内側に刻んだ魔法科学陣で体積を圧縮し、背負い枠には「重量軽減の術式」を組み込んでいた。
馬の背骨に一点集中しないよう、荷重は左右へ均等に分散されている。
だから、馬が感じる重さはわずか八十キログラム――二百三十リブラほどに抑えられている。
栗毛の馬が鼻を鳴らす。
私は首筋を撫でながら囁いた。
「心配しないで。あなたが感じる荷の重さは、穀物袋ひとつぶんくらいよ」
傭兵隊長ルカは、腕を組んでその作業を黙って見ていた。
「……本当に、そこに塩が二千リブラ(※約二トン)も入っているのか?」
「信じられないなら、樽を開けて中身を確認してみますか?」
「いや、いい。せっかく荷物をつめおわったのに、そんな手間をかけさせるわけにはいかないからな。
……しかし、いつも思うが、あんたは腕のいい魔術師にしか見えないな。たまに、貴族の娘だってことを忘れそうになる」
ルカは感心したように苦笑しながら言ったあと、馬の手綱を取った。
「馬に負担はかかっていないみたいだな。これなら、ルッカ共和国まで馬が持つかもしれん」
朝露を吸った麦畑の向こうで、ローマ街道の石畳が、夜明けの光を受けてうっすらと白く輝き始めていた。
古代から続くその道は、商人と兵と巡礼者の足音を、幾世紀も受け止めてきた道だ。
いまから、このローマ街道を馬で進んでいき、ルッカ共和国をめざす。
この時代では、現代とはちがい、旅というのは危険がともなう。
天候予報なし、地図は不正確で、情報がないためすべての行動は自己責任となってしまう。
だからこそ、私には同行者であるルカの存在が重要だった。
それと、私が外出しているあいだ、留守を執事ひとりにすべてまかせてしまうことになる。
それは『気楽な留守番』ではなく、小さな領地を丸ごと背負う仕事でもあった。
私はマントの縁を握りしめながら、振り返る。
館の玄関前には、老執事ドメニコが直立し、背筋を伸ばしてこちらを見つめていた。
白髪まじりの口ひげがかすかに震え、それでも表情はいつものように厳しく整っている。
「お嬢様……どうか、ご武運を」
執事の声は低く、朝の冷気に白く溶けた。
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