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28 ローマ街道
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ルカが、馬のたてがみをなでながら「出発するぞ」と私に言う。
傭兵が乗る馬なので、たてがみは貴族の行列用や祝祭用とはちがい、もつれ防止と汗・汚れ対策で短めにととのえれている。
「準備はできた。荷はすべて馬に積ませてある。
……イザベラ、途中で屋敷に引き返したくなったら言え。今ならまだ間に合う」
冗談めかした声音の奥に、本気の心配がにじんでいる。
私は微笑んで、差し出されたルカの手を取った。
革の手袋越しでも、指先の温かさが伝わる。
「戻りたいなんて言いませんから、大丈夫ですよ」
「わかった。なら、俺が必ず送り届ける。ルッカ共和国までは、古代ローマ街道とフランチジェナ街道のルートを通る。途中には丘陵地と森林が多い。初日はピストイア近辺で一泊だ」
「わかりました」
ピストイアは、フィレンツェとルッカ共和国のあいだにある実在した城塞都市だ。
中世からルネサンス期にかけて重要だった場所であり、現在のイタリア・トスカーナ州に位置する。
私は馬の前に進み、鐙に足をかけようとした。
でも裾がからまり、体のバランスを崩して思わず肩で息をつく。
「……っ、むずかしいですね」
馬に乗れないわけではない。
けれど、慣れているわけでもなかった。
日常的に乗馬するのは男性の役割だったので、この時代の上流令嬢は馬車で移動することが多く、乗馬ができる人は少数派だ。
なかなか馬に乗れないでいたら、ルカが手伝ってくれる。
「ほら、足をここに。手は鞍の前じゃなくて、俺の腕を持て」
言われるままに腕をつかむと、ルカが無言で私の腰を支え、左足を鐙に導いた。
そして、軽々と馬上に引き上げられる。
息を詰めたまま鞍に腰をおろすと、馬が小さく鼻を鳴らした。
視界が高くなり、風が頬を打つ。
つぎにルカは、軽やかに鞍へ飛び乗った。
彼の背中がすぐ目の前にある。
「サイドサドル(※横乗り用サドル)をつけたほうがいいか? スカートだと、馬にまたがるのはつらいだろ」
「いえ、大丈夫です。私が横乗りをしたら、馬の安定性が低くなって、スピードを出せなくなるでしょう?
それに、いま私が着ているのはスカートじゃないので、心配することはないですよ」
いまの私の服装は、乗馬用に仕立て直された外出服。
正面から見ると完全にスカートだけど、馬にまたがった場合、脚の部分が左右に分かれるようになっている。
これは、ズボンに見えにくい“分割スカート(スプリット・スカート)なのだ。
この時代では、女性がズボンを着用することは下品だとみなされてしまうため、貴族令嬢は乗馬するときはこういったものをはく。
ルカが、納得したような表情をした。
「とりあえず、落ちないように気をつけろよ。移動中は、俺の腰に手を回せ」
「わ、わかりました」
言われて、私は彼の胴に腕を回した。
革の胸甲の感触と、体温が彼の背中から伝わってくる。
「怖いなら離すな。転ぶよりはましだ」
「は、はい……!」
ルカが手綱を軽く引くと、馬は湿った土の道へと蹄を踏み出す。
太陽がのぼり、朝霧の向こう、トスカーナの丘陵地帯が薄金色に染まりはじめていた。
振り返れば、領館の塔が小さくなっていく。
だけど、ルカの背越しに見る風景は不思議と恐ろしくはなかった。
◇
私たちを乗せた馬は、まだ朝露の残る石畳を進んでいく。
ここから先は、古代ローマ人の築いた街道――カッシア街道の古い区間だった。
古代ローマ時代の街道で、ルネサンス期にも主要ルートの一部として使われていた。
雨風で角のすり減った石畳が、丘陵に沿って続いている。
荷車がとおったのか、車輪の跡がうっすらときざまれ、かつて軍団や巡礼者が行きかった名残をとどめていた。
石と土がまだらに続く灰色の道は、何百年もの旅人の足跡をのこしながら、ゆるやかにトスカーナの丘陵へと消えていく。
風はひんやりとしていて、オリーブの葉が細かく鳴った。
馬上の傭兵隊長ルカは、黙って前を見つめ、私が乗りやすいように馬の歩調をゆるめてくれる。
街道の両脇には、石積みの低い塀がつづき、その向こうにブドウ畑と羊の群れが広がる。
その先には、ルッカ共和国へ続くフランチジェナ街道がある。
巡礼者も商人も傭兵も、同じ道をたどっていく。
ルカの背にしがみつくたび、私の胸の奥で鼓動が跳ねた。
旅装のマント越しに感じる体温は、あたたかい。
振り返らずに、ルカが言う。
「もう少し掴まれ。風が強くなる」
私は、背に回した腕を少しだけ強くした。
ルカの肩越しに見えるのは、遠くの山並み――ピストイアの丘。
その先に、私たちの目指すルッカ共和国がある。
傭兵が乗る馬なので、たてがみは貴族の行列用や祝祭用とはちがい、もつれ防止と汗・汚れ対策で短めにととのえれている。
「準備はできた。荷はすべて馬に積ませてある。
……イザベラ、途中で屋敷に引き返したくなったら言え。今ならまだ間に合う」
冗談めかした声音の奥に、本気の心配がにじんでいる。
私は微笑んで、差し出されたルカの手を取った。
革の手袋越しでも、指先の温かさが伝わる。
「戻りたいなんて言いませんから、大丈夫ですよ」
「わかった。なら、俺が必ず送り届ける。ルッカ共和国までは、古代ローマ街道とフランチジェナ街道のルートを通る。途中には丘陵地と森林が多い。初日はピストイア近辺で一泊だ」
「わかりました」
ピストイアは、フィレンツェとルッカ共和国のあいだにある実在した城塞都市だ。
中世からルネサンス期にかけて重要だった場所であり、現在のイタリア・トスカーナ州に位置する。
私は馬の前に進み、鐙に足をかけようとした。
でも裾がからまり、体のバランスを崩して思わず肩で息をつく。
「……っ、むずかしいですね」
馬に乗れないわけではない。
けれど、慣れているわけでもなかった。
日常的に乗馬するのは男性の役割だったので、この時代の上流令嬢は馬車で移動することが多く、乗馬ができる人は少数派だ。
なかなか馬に乗れないでいたら、ルカが手伝ってくれる。
「ほら、足をここに。手は鞍の前じゃなくて、俺の腕を持て」
言われるままに腕をつかむと、ルカが無言で私の腰を支え、左足を鐙に導いた。
そして、軽々と馬上に引き上げられる。
息を詰めたまま鞍に腰をおろすと、馬が小さく鼻を鳴らした。
視界が高くなり、風が頬を打つ。
つぎにルカは、軽やかに鞍へ飛び乗った。
彼の背中がすぐ目の前にある。
「サイドサドル(※横乗り用サドル)をつけたほうがいいか? スカートだと、馬にまたがるのはつらいだろ」
「いえ、大丈夫です。私が横乗りをしたら、馬の安定性が低くなって、スピードを出せなくなるでしょう?
それに、いま私が着ているのはスカートじゃないので、心配することはないですよ」
いまの私の服装は、乗馬用に仕立て直された外出服。
正面から見ると完全にスカートだけど、馬にまたがった場合、脚の部分が左右に分かれるようになっている。
これは、ズボンに見えにくい“分割スカート(スプリット・スカート)なのだ。
この時代では、女性がズボンを着用することは下品だとみなされてしまうため、貴族令嬢は乗馬するときはこういったものをはく。
ルカが、納得したような表情をした。
「とりあえず、落ちないように気をつけろよ。移動中は、俺の腰に手を回せ」
「わ、わかりました」
言われて、私は彼の胴に腕を回した。
革の胸甲の感触と、体温が彼の背中から伝わってくる。
「怖いなら離すな。転ぶよりはましだ」
「は、はい……!」
ルカが手綱を軽く引くと、馬は湿った土の道へと蹄を踏み出す。
太陽がのぼり、朝霧の向こう、トスカーナの丘陵地帯が薄金色に染まりはじめていた。
振り返れば、領館の塔が小さくなっていく。
だけど、ルカの背越しに見る風景は不思議と恐ろしくはなかった。
◇
私たちを乗せた馬は、まだ朝露の残る石畳を進んでいく。
ここから先は、古代ローマ人の築いた街道――カッシア街道の古い区間だった。
古代ローマ時代の街道で、ルネサンス期にも主要ルートの一部として使われていた。
雨風で角のすり減った石畳が、丘陵に沿って続いている。
荷車がとおったのか、車輪の跡がうっすらときざまれ、かつて軍団や巡礼者が行きかった名残をとどめていた。
石と土がまだらに続く灰色の道は、何百年もの旅人の足跡をのこしながら、ゆるやかにトスカーナの丘陵へと消えていく。
風はひんやりとしていて、オリーブの葉が細かく鳴った。
馬上の傭兵隊長ルカは、黙って前を見つめ、私が乗りやすいように馬の歩調をゆるめてくれる。
街道の両脇には、石積みの低い塀がつづき、その向こうにブドウ畑と羊の群れが広がる。
その先には、ルッカ共和国へ続くフランチジェナ街道がある。
巡礼者も商人も傭兵も、同じ道をたどっていく。
ルカの背にしがみつくたび、私の胸の奥で鼓動が跳ねた。
旅装のマント越しに感じる体温は、あたたかい。
振り返らずに、ルカが言う。
「もう少し掴まれ。風が強くなる」
私は、背に回した腕を少しだけ強くした。
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