19世紀イングランド風の異世界。未来で悪役になる貴族の息子を、メイドの私が溺愛して運命を変えます

ねこまんまる

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8 おいしいごはん

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私は廊下で足を止め、盆の中身を見つめた。

「……これでは、だめよね」

誰にも聞こえないほど小さくつぶやき、石畳の冷たい床を踏んで厨房へ引き返した。

上流階級の屋敷で、メイドが勝手な判断で料理の内容を変えることはタブーだ。
このとき、私はその一線をこえる覚悟をきめた。

厨房の扉を押くと、暖炉の炎の赤が視界に入り、肉と野菜の煮える匂いが鼻をくすぐった。

上流階級の屋敷の厨房は、使用人階級の中でも“別世界”だ。
熱気と油煙、ナイフの音、煮込み鍋の蒸気。
表階の静けさとは似ても似つかない、生活の匂いに満ちている。

大鍋の前には、白い三角帽子と汚れのついた前掛けを身につけたブランチ料理長が腕を組み、そのそばでキッチンメイドが山積みのカブの皮をむいていた。

私は木盆を抱えたまま、料理長に声をかけた。

「あの、ミスター・ブランチ」

「何の用だい、エマ?」

「次男のレオンさまのお食事を……。いただいた分では、あまりにも……」

「そりゃ、あの方――夫人のご指示だろう。私らが逆らうわけにはいかないさ」

料理長は、軍人のような口調で即答した。
上流階級の屋敷では、料理長とて雇われの身で、侯爵夫人の命令には絶対だ。

私は軽く頭を下げ、厨房をあとにした。

どうしよう……。

この時代、食材は家令によって厳重に管理され、無断使用は“窃盗”として処罰される。

けれど、厨房のあまった食材を使用人がつまみぐいするのは、どこの屋敷でも黙認される日常の知恵だった。
食材が少しくらい減っても、大丈夫よね。

私は、こっそり魔法で風をそっと動かし、残りものの野菜片や、今まさに切り落とされたパンの端をかき集める。
それだけなら、料理長にも不審がられないはず。

正式なメニューはつくれないけれど、残り物を温め直し、野菜を足し、香りを少し立たせて食べられる形にする程度なら、魔法があれば十分だ。

「今日くらいは、ちゃんと食べさせてあげなきゃ」

私は、小さなミルク粥、パン、具の増えたスープ、少しの果物を木盆にのせ、屋敷の奥へ歩き出した。


レオンの部屋へ続く廊下は、表階の華やかな廊下とは違い、薄暗い。

使用人が普段使わない側廊なので、ランプもまばらで、壁紙は古く擦り切れた赤茶色。

私は木盆を胸に抱えて、足音を殺しながら歩いた。

ドアを軽く叩くが、返事はない。

「入りますね」

そっと扉を押す。
冷えた空気と、埃の匂いがふわりと流れ出た。
日当たりの悪い部屋は、石造りの壁が冷気をためこんでいる。

部屋の隅には、痩せた次男が膝を抱え、暗がりからこちらを見ていた。

私は膝をつき、微笑んだ。

「お食事を持ってきました。今日は、温かいスープがありますよ」

木盆を置くと、ほんのり立ちのぼる湯気が、レオンの頬をかすめた。

彼はまばたきし、伸ばしかけた手を一度引っ込める。
“あたえられること”に慣れていない子ども特有の、悲しいためらいだ。

「……これ、ぼくに?」

「ええ。厨房のあまりですけど、具がたくさん入ってます」

差し出すと、ようやく両手で器を受け取った。
指先は骨ばって震えていて、栄養不足の子ども特有の冷たさがあった。

白いロールパンも渡す。
彼はそれを抱きしめるように胸に寄せ、宝物のように大切に持った。

「こんな……いいの?」

「もちろんです。あなたのお食事ですよ」

レオンは、まだ信じられないようにしばらく固まっていた。
そして、恐る恐るスープをひと口。

「……おいしい」

「毎日は無理かもしれませんけど……
私ができる限り、ごはんを持ってきます。だから、あなたはひとりじゃありませんよ」

レオンは言葉を発さず、小さく頷きながらスープを続けてすくった。

スープを飲むたびに頬が赤くなり、やわらかな表情が少しずつ戻っていく。
痩せてはいるけれど、その顔立ちには、家族の誰よりも繊細で上品な気配があった。
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