14 / 40
14 屋敷の庭
しおりを挟む
二人で、薄暗い廊下へ出た。
階段は冷たい木製で、レオンは手すりを握る指を小刻みに震わせる。
彼が初めて二階から降りるような足取りであることは、すぐにわかった。
「……知らない音がする」
「これは厨房のストーブの音です。今は食事の支度をしているころで」
現代のストーブとはかなり違い、貴族の屋敷にある厨房ストーブは、料理人が複数人同時に調理の作業ができる設計となっていた。
煮る・焼く・炒める、オーブン調理などを厨房ストーブで行っていたのだ。
厨房ストーブからは、石炭が燃える『パチ…パチ…』という乾いた小さな爆ぜ音や、煙突の『ゴウッ』という低い通風音が聞こえてくる。
レオンは、それらの音を興味深そうに聞いていた。
彼の世界は、部屋の中だけだった。
その事実が痛ましくて、私は胸の奥をしめつけたまま歩く。
一階の使用人廊下は、朝のあわただしさで少しだけざわついていたけれど、次男の姿に驚いたメイドたちが道を空けた。
裏口の前で、レオンが立ち止まる。
「この先……ぼく、行ったことない」
「ここから先は、ベイワース家のお庭です。レオンさまのお屋敷の一部ですよ」
私はノブに手をかけ、ゆっくりと扉を押し開けた。
冷たい冬の空気が流れ込み、外光がレオンの髪を照らす。
広々とした芝が朝露で輝き、古いオークの木が長い影を落としていた。
レオンは足を踏み出すのをためらい、そっと私のスカートの端をつまんだ。
19世紀では、決して許される行動ではない。
でも私は気づかないふりをした。
景色を眺めたレオンが、目をかがやかせる。
「……すごいね」
「ええ。レオンさまが、もっと強くなれるところですよ」
私は、彼が離さないスカートの端をそのままに、ゆっくりと歩き出した。
レオンは初めて、自分の足で外へ踏み出した。
それは、長く閉ざされた世界からの、小さな解放だった。
「太陽って……あったかい」
そのささやきを聞いた瞬間、私の胸は痛いほど、しめつけられた。
ロンドンは高緯度(※北緯51度)にあるため、太陽高度が低く、雲や石炭の煙が多いこともあり、太陽の光は刺すような強さはない。
太陽高度が低い(※太陽が低い位置にある)と、光が斜めに当たるので、地面や建物を温めにくい。
日向に立っても、ぽかぽかというより冷えた体が少しだけゆるむ程度だ。
それでも、これまで冷たい部屋におしこめられていたレオンにとっては、十分あたたかく感じるらしい。
――この子は、どれほど奪われてきたのだろう。
私は振り返らず、ただ静かに言った。
「レオンさま。今日から、少しずつ外を歩きましょう。ここなら、誰にも邪魔されませんから」
レオンは、ほんの少しだけ私の後ろで、かすかな足音を立てながら歩き始めた。
その一歩は、彼にとって世界へ向かう最初の一歩だった。
芝の上を歩くと、小さな足音がしずかについてくる。
19世紀のフランス貴族の庭園は、現代のような全面芝生ではない。
芝生がある部分と、ない部分がある。
敷地全体を芝で覆うのは、英国式庭園の影響で、フランスは本来、このような整形式庭園の伝統が強かった。
砂利敷きの小道を歩けば、足音がよくひびく。
これは、貴族の庭の特徴だ。
ほかに、季節の花を植えた花壇や噴水、彫像、並木道などがある。
芝生は痛みやすいため、立ち入り禁止の区画も多い。
貴族屋敷では当時、芝生に子どもを走らせるのはマナー違反で、芝生は観賞用のため、私たちは砂利の道を歩いた。
レオンは時おり立ち止まり、木の枝や霜をかぶった石を興味深そうに見つめた。
どれも、彼にとっては初めて触れる“外の世界”だった。
ひゅう、と風が通り抜け、レオンの焦げ茶色の髪を揺らした。
彼はほんの少しだけ、初めて見る世界に心をひらいたようだった。
私は、そっとレオンの肩に手を添える。
19世紀のメイドが許される、ぎりぎりの、しかし確かな優しさで。
「大丈夫ですよ、坊ちゃま。私がついていますから」
階段は冷たい木製で、レオンは手すりを握る指を小刻みに震わせる。
彼が初めて二階から降りるような足取りであることは、すぐにわかった。
「……知らない音がする」
「これは厨房のストーブの音です。今は食事の支度をしているころで」
現代のストーブとはかなり違い、貴族の屋敷にある厨房ストーブは、料理人が複数人同時に調理の作業ができる設計となっていた。
煮る・焼く・炒める、オーブン調理などを厨房ストーブで行っていたのだ。
厨房ストーブからは、石炭が燃える『パチ…パチ…』という乾いた小さな爆ぜ音や、煙突の『ゴウッ』という低い通風音が聞こえてくる。
レオンは、それらの音を興味深そうに聞いていた。
彼の世界は、部屋の中だけだった。
その事実が痛ましくて、私は胸の奥をしめつけたまま歩く。
一階の使用人廊下は、朝のあわただしさで少しだけざわついていたけれど、次男の姿に驚いたメイドたちが道を空けた。
裏口の前で、レオンが立ち止まる。
「この先……ぼく、行ったことない」
「ここから先は、ベイワース家のお庭です。レオンさまのお屋敷の一部ですよ」
私はノブに手をかけ、ゆっくりと扉を押し開けた。
冷たい冬の空気が流れ込み、外光がレオンの髪を照らす。
広々とした芝が朝露で輝き、古いオークの木が長い影を落としていた。
レオンは足を踏み出すのをためらい、そっと私のスカートの端をつまんだ。
19世紀では、決して許される行動ではない。
でも私は気づかないふりをした。
景色を眺めたレオンが、目をかがやかせる。
「……すごいね」
「ええ。レオンさまが、もっと強くなれるところですよ」
私は、彼が離さないスカートの端をそのままに、ゆっくりと歩き出した。
レオンは初めて、自分の足で外へ踏み出した。
それは、長く閉ざされた世界からの、小さな解放だった。
「太陽って……あったかい」
そのささやきを聞いた瞬間、私の胸は痛いほど、しめつけられた。
ロンドンは高緯度(※北緯51度)にあるため、太陽高度が低く、雲や石炭の煙が多いこともあり、太陽の光は刺すような強さはない。
太陽高度が低い(※太陽が低い位置にある)と、光が斜めに当たるので、地面や建物を温めにくい。
日向に立っても、ぽかぽかというより冷えた体が少しだけゆるむ程度だ。
それでも、これまで冷たい部屋におしこめられていたレオンにとっては、十分あたたかく感じるらしい。
――この子は、どれほど奪われてきたのだろう。
私は振り返らず、ただ静かに言った。
「レオンさま。今日から、少しずつ外を歩きましょう。ここなら、誰にも邪魔されませんから」
レオンは、ほんの少しだけ私の後ろで、かすかな足音を立てながら歩き始めた。
その一歩は、彼にとって世界へ向かう最初の一歩だった。
芝の上を歩くと、小さな足音がしずかについてくる。
19世紀のフランス貴族の庭園は、現代のような全面芝生ではない。
芝生がある部分と、ない部分がある。
敷地全体を芝で覆うのは、英国式庭園の影響で、フランスは本来、このような整形式庭園の伝統が強かった。
砂利敷きの小道を歩けば、足音がよくひびく。
これは、貴族の庭の特徴だ。
ほかに、季節の花を植えた花壇や噴水、彫像、並木道などがある。
芝生は痛みやすいため、立ち入り禁止の区画も多い。
貴族屋敷では当時、芝生に子どもを走らせるのはマナー違反で、芝生は観賞用のため、私たちは砂利の道を歩いた。
レオンは時おり立ち止まり、木の枝や霜をかぶった石を興味深そうに見つめた。
どれも、彼にとっては初めて触れる“外の世界”だった。
ひゅう、と風が通り抜け、レオンの焦げ茶色の髪を揺らした。
彼はほんの少しだけ、初めて見る世界に心をひらいたようだった。
私は、そっとレオンの肩に手を添える。
19世紀のメイドが許される、ぎりぎりの、しかし確かな優しさで。
「大丈夫ですよ、坊ちゃま。私がついていますから」
0
あなたにおすすめの小説
(自称)我儘令嬢の奮闘、後、それは誤算です!
みん
恋愛
双子の姉として生まれたエヴィ。双子の妹のリンディは稀な光の魔力を持って生まれた為、体が病弱だった。両親からは愛されているとは思うものの、両親の関心はいつも妹に向いていた。
妹は、病弱だから─と思う日々が、5歳のとある日から日常が変わっていく事になる。
今迄関わる事のなかった異母姉。
「私が、お姉様を幸せにするわ!」
その思いで、エヴィが斜め上?な我儘令嬢として奮闘しているうちに、思惑とは違う流れに─そんなお話です。
最初の方はシリアスで、恋愛は後程になります。
❋主人公以外の他視点の話もあります。
❋独自の設定や、相変わらずのゆるふわ設定なので、ゆるーく読んでいただけると嬉しいです。ゆるーく読んで下さい(笑)。
【完結】婚約破棄寸前の悪役令嬢は7年前の姿をしている
五色ひわ
恋愛
ドラード王国の第二王女、クラウディア・ドラードは正体不明の相手に襲撃されて子供の姿に変えられてしまった。何とか逃げのびたクラウディアは、年齢を偽って孤児院に隠れて暮らしている。
初めて経験する貧しい暮らしに疲れ果てた頃、目の前に現れたのは婚約破棄寸前の婚約者アルフレートだった。
『悪役令嬢』は始めません!
月親
恋愛
侯爵令嬢アデリシアは、日本から異世界転生を果たして十八年目になる。そんな折、ここ数年ほど抱いてきた自身への『悪役令嬢疑惑』が遂に確信に変わる出来事と遭遇した。
突き付けられた婚約破棄、別の女性と愛を語る元婚約者……前世で見かけたベタ過ぎる展開。それを前にアデリシアは、「これは悪役令嬢な自分が逆ざまぁする方の物語では」と判断。
と、そこでアデリシアはハッとする。今なら自分はフリー。よって、今まで想いを秘めてきた片想いの相手に告白できると。
アデリシアが想いを寄せているレンは平民だった。それも二十も年上で子持ちの元既婚者という、これから始まると思われる『悪役令嬢物語』の男主人公にはおよそ当て嵌まらないだろう人。だからレンに告白したアデリシアに在ったのは、ただ彼に気持ちを伝えたいという思いだけだった。
ところがレンから来た返事は、「今日から一ヶ月、僕と秘密の恋人になろう」というものだった。
そこでアデリシアは何故『一ヶ月』なのかに思い至る。アデリシアが暮らすローク王国は、婚約破棄をした者は一ヶ月、新たな婚約を結べない。それを逆手に取れば、確かにその間だけであるならレンと恋人になることが可能だと。
アデリシアはレンの提案に飛び付いた。
そして、こうなってしまったからには悪役令嬢の物語は始めないようにすると誓った。だってレンは男主人公ではないのだから。
そんなわけで、自分一人で立派にざまぁしてみせると決意したアデリシアだったのだが――
※この作品は、『小説家になろう』様でも公開しています。
モブが乙女ゲームの世界に生まれてどうするの?【完結】
いつき
恋愛
リアラは貧しい男爵家に生まれた容姿も普通の女の子だった。
陰険な意地悪をする義母と義妹が来てから家族仲も悪くなり実の父にも煙たがられる日々
だが、彼女は気にも止めず使用人扱いされても挫ける事は無い
何故なら彼女は前世の記憶が有るからだ
聖女だと呼び出しておいて無能ですか?〜捨てられた私は魔王様に溺愛される〜
みおな
恋愛
学校帰りにいきなり眩い光に包まれて連れて来られたのは異世界でした。
王子はこんなちんちくりんは聖女ではないと言い放ち、私を王宮から追い出しました。
元の世界に帰る方法は、魔王の持つ帰還の指輪が必要と言われ、途方にくれた私の前に現れたのは、美形の魔王でした。
異世界で悪役令嬢として生きる事になったけど、前世の記憶を持ったまま、自分らしく過ごして良いらしい
千晶もーこ
恋愛
あの世に行ったら、番人とうずくまる少女に出会った。少女は辛い人生を歩んできて、魂が疲弊していた。それを知った番人は私に言った。
「あの子が繰り返している人生を、あなたの人生に変えてください。」
「………はぁああああ?辛そうな人生と分かってて生きろと?それも、繰り返すかもしれないのに?」
でも、お願いされたら断れない性分の私…。
異世界で自分が悪役令嬢だと知らずに過ごす私と、それによって変わっていく周りの人達の物語。そして、その物語の後の話。
※この話は、小説家になろう様へも掲載しています
捨てた騎士と拾った魔術師
吉野屋
恋愛
貴族の庶子であるミリアムは、前世持ちである。冷遇されていたが政略でおっさん貴族の後妻落ちになる事を懸念して逃げ出した。実家では隠していたが、魔力にギフトと生活能力はあるので、王都に行き暮らす。優しくて美しい夫も出来て幸せな生活をしていたが、夫の兄の死で伯爵家を継いだ夫に捨てられてしまう。その後、王都に来る前に出会った男(その時は鳥だった)に再会して国を左右する陰謀に巻き込まれていく。
【完結】ここって天国?いいえBLの世界に転生しました
三園 七詩
恋愛
麻衣子はBL大好きの腐りかけのオタク、ある日道路を渡っていた綺麗な猫が車に引かれそうになっているのを助けるために命を落とした。
助けたその猫はなんと神様で麻衣子を望む異世界へと転生してくれると言う…チートでも溺愛でも悪役令嬢でも望むままに…しかし麻衣子にはどれもピンと来ない…どうせならBLの世界でじっくりと生でそれを拝みたい…
神様はそんな麻衣子の願いを叶えてBLの世界へと転生させてくれた!
しかもその世界は生前、麻衣子が買ったばかりのゲームの世界にそっくりだった!
攻略対象の兄と弟を持ち、王子の婚約者のマリーとして生まれ変わった。
ゲームの世界なら王子と兄、弟やヒロイン(男)がイチャイチャするはずなのになんかおかしい…
知らず知らずのうちに攻略対象達を虜にしていくマリーだがこの世界はBLと疑わないマリーはそんな思いは露知らず…
注)BLとありますが、BL展開はほぼありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる