19世紀イングランド風の異世界。未来で悪役になる貴族の息子を、メイドの私が溺愛して運命を変えます

ねこまんまる

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クック夫人は、石畳の階段に片膝をついた。

冬の冷気が吹き込む階段踊り場は、屋敷の中でも人目が少ない場所だ。
壁にはすすけたブロンズの燭台がひとつあるだけで、19世紀の大邸宅らしい陰鬱さがただよっている。

「……ど、どうして……」

「魔力は、全部覚えているんです」

私は、階段の高い段から彼女を見下ろした。

使用人同士とはいえ、階段では“上に立つ者”が圧倒的に優位になる。
それは、この時代の屋敷で知られた心理的な構図だ。

声を落とし、私は淡々と言う。

「侯爵さまに報告することもできますが……
あなたにはご家族がいますね。故郷に、お子さんも」

この時代、使用人の不祥事は“家名”への深刻な汚点になる。
とくに乳母は「母代わり」として信頼される職で、虐待や怠慢は犯罪者と同じ烙印を押され、噂が広がれば田舎の村までその名誉を打ち砕く。

クック夫人の肩が大きく震え、視線が階段に落ちた。

「……お願い。だれにも言わないで……」

「条件があります。
二度と、レオン坊ちゃまの前に姿を見せないこと。
そして今日中に、侯爵様へ“辞める”と告げること」

使用人の契約はほぼ口頭で行われ、辞表のような書面は貴族邸ではほとんど用いられなかった。
屋敷の主か執事に“口頭で辞意を告げる”のが、この時代の常識だ。

クック夫人は唇をかみ、震えた声でうなずいた。

「……わかったわ」

ゆっくり階段を降りていく背中は、以前の威圧感をすっかり失っていた。
足元の煤けたランナー(※階段用の敷物)が弱々しく沈む。


乳母の姿が消えると、私は静かにレオンの部屋の前へ戻った。

ドアの陰で、小さな影が震えていた。

「坊ちゃま……聞いていましたか?」

私が問いかけると、ためらいがちに顔をのぞかせたレオンは、涙にぬれた青灰色の瞳で私を見上げた。

「エマ……」

泣きすぎて声がひっかかり、喉がしゃくりあげている。

肩は小刻みに震え、薄手の子ども用ナイトガウンの前紐がほどけかけていた。
この階層は、暖炉の熱が届きにくい上階の子ども部屋区画で、冬はとくに冷える。

私は反射的にレオンを抱きしめた。

メイドが主人の子を抱きしめるのは、この時代では作法違反だ。
でも、泣いている子どもを静めるための軽い抱擁は黙認されている。
その限界ぎりぎりの範囲で、私はレオンを腕に迎え入れた。

「大丈夫ですよ。もう、怖いことはありません」

レオンは私の胸元に顔を埋め、必死に言葉をしぼり出す。

「エマ……ぼく、聞こえてた……。乳母が……ぼくのこと……また……化け物って……」

この世界の上流社会では、子どもの異常な行動や魔法の暴走は、時に家の名誉に関わる“恥事”としてあつかわれた。
だからこそ乳母は、レオンの存在を恐れ、怒り、憎んだのだ。

「そんなこと、二度と誰にも言わせません。
あなたは化け物なんかじゃない。どこに出しても恥ずかしくない、立派な侯爵家の息子です」

私はゆっくりとレオンの背を撫でた。
これは19世紀の“スージング”と呼ばれた、幼児を落ち着かせる正式な方法だ。

レオンの呼吸が次第に整い、震えが弱まっていく。

「……ぼく……こわかった……。でも……エマが……来てくれた……」

胸が、しめつけられた。
この子を守れるのは、いまは私しかいない。

「大丈夫ですよ、坊ちゃま。
あなたを守る者なら、ちゃんとここにいます」

レオンは涙をぬぐい、幼い笑みを浮かべた。

「……エマ……。ぼく、エマがいれば……こわくないよ」

それは、幼い依存そのものだった。
私は、自分がそれを拒めていないことを理解している。

「さあ、お部屋に戻りましょう。
今日の読み書きの練習をいたしましょうね」

レオンは小さくうなずき、私のうしろに静かに歩く。
彼の足取りはまだ弱いが、その影はもう、先ほどよりもずっとまっすぐだった。
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