19世紀イングランド風の異世界。未来で悪役になる貴族の息子を、メイドの私が溺愛して運命を変えます

ねこまんまる

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30 ひみつの時間

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「坊ちゃま、いかがなさいました?」

「……なんでもない。ただ……エマの姿が見えたから、会いたくなっただけだ」

以前よりも深い声で、ためらいがちに言うレオン。
その言い方に、胸がつい熱くなる。

「いけません。私は今、仕事の途中で――」

「エマは……僕を求めてはくれないのか?」

レオンはかすかに眉を寄せ、目を伏せた。

「小さいころは……抱きしめてくれたのに」

その影が、足元で淡く揺らぐ。
まるで彼の感情が床ににじむように。

私は布をそっと台に置き、息をひとつ整えた。

――この子は、何歳になっても。
私にとっては、放っておけない“坊ちゃま”なのだ。

「……仕方がありませんね。少しだけですよ」

そう言って歩み寄ると、レオンの肩がわずかに震えた。
まだ未熟な青年の身体だというのに、抱き寄せると、昔と同じ匂いがした。

レオンは驚いたように息をのみ、次いで深い安堵を落とすように私に腕を回した。

「エマ……」

「はいはい。坊ちゃまは、いつまでもかわいらしいんですから」

「僕は……もう子どもじゃないんだけど」

「ええ、そうですね。でも――」

私はそっと彼の髪を撫でた。
幼いころ熱を出して泣いていた時と、同じ手つきで。

「どれだけ大きくなっても、坊ちゃまは坊ちゃまです。
それは変わりませんよ」

抱きしめられたレオンの影は、ようやく静かに落ち着いた。
彼は胸元に顔を寄せ、かすかに笑う。

「……エマだけが、そう言ってくれる」

その声は、背丈に似合わないほど素直で、甘かった。

しばらくのあいだ、レオンは黙って私の腕の中にいた。
十四歳をすぎた青年には少し不釣り合いな仕草なのに、抱きしめると胸元につたわる体温は昔と変わらない。

けれど、それは長く続けられるものではなかった。

廊下の奥から、ワゴンを押す使用人の足音がかすかに響いてきたのだ。
この客間は裏階段に近く、午後の準備をする下働きが頻繁に行き来する場所でもある。

私はそっとレオンの体をはなし、距離を取らせた。

「坊ちゃま。もう離れませんと、誰かに見られてしまいます」

レオンは名残惜しそうに手をほどきながらも、小さな声で言った。

「……見られたら、いけないのか?」

「ええ。いけません。
男性は十四を越えれば“少年”ではなく“若君かぎみ”としてあつかわれます。
どんな理由があっても、メイドが抱きしめているところを見られたら……私が叱責しっせきを受けてしまいます」

それは19世紀のイングランドでの、厳格な階級秩序そのものだった。
 
主人の息子に触れる行為は、乳母の役目でないかぎりタブーに当たる。
使用人がその線を越えることは、決して軽い問題ではない。

レオンは黙り込み、視線を床へ落とした。
揺れる影が、ひどく寂しげに見える。

私はそれに気づき、自然と膝を折った。
目の高さを合わせると、レオンの肩がわずかに震える。

「坊ちゃま。誤解しないでくださいね。私は、坊ちゃまを抱きしめたくないわけではありません」

「……じゃあ、エマは本当は」

「はい。坊ちゃまがどれだけ大きくなられても、“優しくしてあげたい”という気持ちは消えません」

レオンの影が、ホッとしたようにゆるんだ。
その変化は、私にとって誰よりも分かりやすい。

「ただし――」

と、私は指を一本立てる。

「これからは、場所と人目を考えてくださいね。
屋敷では、身分に見合った振る舞いを求められます。
私は使用人ですし、坊ちゃまはもう社交界に出られるご年齢ですから」

レオンはしばらく黙ったあと、小さく息をついた。

「……分かったよ。でも、エマの前だけは……いつもの自分でいたい」

「ええ。私の前なら、そのままの坊ちゃまでいていいんですよ」

その瞬間、レオンはほんの少し頬を赤らめる。
けれど目だけは、十四歳とは思えないほどまっすぐに私を見ていた。

「……じゃあ、今度は、人のいない場所で抱きしめてもいいか?」

その言葉に、私は思わず息をのんだ。
このままでは、本当に境界が揺らいでしまう。

けれど、優しく拒むこともまた彼を傷つけてしまう。

私は静かに首を振り、やわらかく笑った。

「“今度”は、もっと落ち着いた気持ちのときにしてくださいね。
今日は……感情に流されすぎです」

「……エマは、やっぱり僕のことが分かってる」

それだけ言うと、彼は背筋を伸ばし、まだあどけなさの残る足取りで廊下へ戻っていった。
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