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44 迫り来る未来
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ふと、アランは視線をわずかに上げた。
王妃の部屋から続く小庭の奥――整形されたツゲの生垣の向こうで、砂利を踏む乾いた靴音が近づいてくる。
「……客が来る」
冬の弱い陽光を背負って姿を現したのは、淡い茶色の髪に、インク染みの残る指先。
宮廷財務局付属書記官、ジュリアン・ディルナードだった。
彼は、官僚らしい地味な外套を着ていたけれど、その下には18世紀後半らしい薄い鼠色のジャストコール(胴衣)がのぞき、胸元には黒いリボンタイ。
手に抱えているのは、王妃宛の捺印済み書類と、蝋封のほどけかけたメモ束だった。
宮廷の華やかさから最も遠い、数字と署名の世界に生きる人間の匂いがした。
ヴェルサイユの令嬢たちがウワサするほどの、端正な顔立ち。
そこには、宮廷にふさわしい理知的な微笑を浮かべていた。
「お邪魔でしたか?
ロシュフォール中尉。……そして、ヴァロワ嬢」
「いいえ」
私は庭園の礼法どおりに、軽く会釈を返す。
「財務局の方が、こんな庭園の端まで来られるなんて」
「王妃陛下宛の文書をあずかったものでして。それに――」
ジュリアンは周りを見渡し、ほっとした表情になった。
「室内のインクとロウソクの匂いにくらべれば、ここは天国です。部屋は、どこも火の気が強い。書類が乾きすぎてしまう」
彼は微笑んだあと、こちらへ真っ直ぐ視線を向けた。
「ウワサは、本当だったようですね」
「どのウワサかしら?」
「“ヴァロワ侯爵家の令嬢が、王妃陛下の衣を守り、その功で新しい役目をあたえられた”。
宮廷のウワサは、財務局にもちゃんと届きますよ。数字より早い」
「お仕事が早いのね、ウワサは」
「ウワサは税金に似ていますよ」
ジュリアンは淡々と言った。
「取り立てをおこたると、ゆがんだ形で溜まって広がっていく」
その比喩に、アランがめずらしく、喉の奥で笑った。
「相変わらずきつい言い方だな、ディルナード書記官」
「事実を述べているだけです、中尉。
宮廷の贅沢も、数字で見れば綺麗な物語とは言いがたい」
書類束を抱え直しながら、ジュリアンは続けた。
「ヴァロワ嬢。
今後、王妃陛下のお側で“ウワサ”を整理なさるのでしたら、財務の数字も少しはご覧になるといい」
「数字?」
「ええ。ウワサも数字も同じです。
“見たいものだけ見る者”には、あつかえない」
その言葉は、妙に胸の奥に重く沈んだ。
……数字で見る、破綻寸前の王国。
史実で読んだ“フランス革命前夜”の空気。
あの乙女ゲームにもあった出来事。
「機会があれば、ぜひ教えていただきたいわ」
「こちらこそ。
あなたという存在には、個人的にも興味がありますので」
ジュリアンは優雅に礼をして、王妃の部屋のほうへ歩き去った。
アランは彼の背中を眺めながら、ぼそりと呟く。
「……味方がひとり増えたようだな」
「まだわからないわ」
私は首を左右に振る。
「あの人は“数字”の味方であって、人の味方ではないかもしれないもの」
「だが――数字を見続けた者は、“どこが限界か”を知る」
アランは静かに空を仰いだ。
冬の太陽は低く、ヴェルサイユ全体に薄金の光を落としている。
「王太子殿下も、王妃陛下も、俺たちも。
いずれ限界に向き合わされる」
「その前に、物語の流れを変えておかないとね……」
私は庭園の先――整形庭園の境界に設置された、グリル(※装飾的な鉄の格子門・柵)越しに広がる王立狩猟林を見た。
枝を短く剪定された並木道の向こうには、ゲームでは一度も描かれなかった濃い森がある。
宮殿の西側にある、あの森のさらに向こう。
約20kmさきに存在するパリの町、史実では血に染まっていく“革命”の現場。
……その未来の輪郭は、霧のように、じわりと迫っていた。
王妃の部屋から続く小庭の奥――整形されたツゲの生垣の向こうで、砂利を踏む乾いた靴音が近づいてくる。
「……客が来る」
冬の弱い陽光を背負って姿を現したのは、淡い茶色の髪に、インク染みの残る指先。
宮廷財務局付属書記官、ジュリアン・ディルナードだった。
彼は、官僚らしい地味な外套を着ていたけれど、その下には18世紀後半らしい薄い鼠色のジャストコール(胴衣)がのぞき、胸元には黒いリボンタイ。
手に抱えているのは、王妃宛の捺印済み書類と、蝋封のほどけかけたメモ束だった。
宮廷の華やかさから最も遠い、数字と署名の世界に生きる人間の匂いがした。
ヴェルサイユの令嬢たちがウワサするほどの、端正な顔立ち。
そこには、宮廷にふさわしい理知的な微笑を浮かべていた。
「お邪魔でしたか?
ロシュフォール中尉。……そして、ヴァロワ嬢」
「いいえ」
私は庭園の礼法どおりに、軽く会釈を返す。
「財務局の方が、こんな庭園の端まで来られるなんて」
「王妃陛下宛の文書をあずかったものでして。それに――」
ジュリアンは周りを見渡し、ほっとした表情になった。
「室内のインクとロウソクの匂いにくらべれば、ここは天国です。部屋は、どこも火の気が強い。書類が乾きすぎてしまう」
彼は微笑んだあと、こちらへ真っ直ぐ視線を向けた。
「ウワサは、本当だったようですね」
「どのウワサかしら?」
「“ヴァロワ侯爵家の令嬢が、王妃陛下の衣を守り、その功で新しい役目をあたえられた”。
宮廷のウワサは、財務局にもちゃんと届きますよ。数字より早い」
「お仕事が早いのね、ウワサは」
「ウワサは税金に似ていますよ」
ジュリアンは淡々と言った。
「取り立てをおこたると、ゆがんだ形で溜まって広がっていく」
その比喩に、アランがめずらしく、喉の奥で笑った。
「相変わらずきつい言い方だな、ディルナード書記官」
「事実を述べているだけです、中尉。
宮廷の贅沢も、数字で見れば綺麗な物語とは言いがたい」
書類束を抱え直しながら、ジュリアンは続けた。
「ヴァロワ嬢。
今後、王妃陛下のお側で“ウワサ”を整理なさるのでしたら、財務の数字も少しはご覧になるといい」
「数字?」
「ええ。ウワサも数字も同じです。
“見たいものだけ見る者”には、あつかえない」
その言葉は、妙に胸の奥に重く沈んだ。
……数字で見る、破綻寸前の王国。
史実で読んだ“フランス革命前夜”の空気。
あの乙女ゲームにもあった出来事。
「機会があれば、ぜひ教えていただきたいわ」
「こちらこそ。
あなたという存在には、個人的にも興味がありますので」
ジュリアンは優雅に礼をして、王妃の部屋のほうへ歩き去った。
アランは彼の背中を眺めながら、ぼそりと呟く。
「……味方がひとり増えたようだな」
「まだわからないわ」
私は首を左右に振る。
「あの人は“数字”の味方であって、人の味方ではないかもしれないもの」
「だが――数字を見続けた者は、“どこが限界か”を知る」
アランは静かに空を仰いだ。
冬の太陽は低く、ヴェルサイユ全体に薄金の光を落としている。
「王太子殿下も、王妃陛下も、俺たちも。
いずれ限界に向き合わされる」
「その前に、物語の流れを変えておかないとね……」
私は庭園の先――整形庭園の境界に設置された、グリル(※装飾的な鉄の格子門・柵)越しに広がる王立狩猟林を見た。
枝を短く剪定された並木道の向こうには、ゲームでは一度も描かれなかった濃い森がある。
宮殿の西側にある、あの森のさらに向こう。
約20kmさきに存在するパリの町、史実では血に染まっていく“革命”の現場。
……その未来の輪郭は、霧のように、じわりと迫っていた。
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