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第6話 鴉の行水
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烏丸と名付けた鴉を新たな家族として迎え入れ、いつもどおりの葦原神社の日常を過ごしていた、ある日のこと。
「ミコト様、お仕事をくださいませ」
コノハは深々と頭を下げ、夫に懇願した。
彼女は己の限界を迎えようとしている。
「なにか働いて葦原家に貢献しないと、申し訳なさで死にそうで……」
「ご令嬢にとっては、何もせず暮らすのが理想の結婚生活なのだろうと認識していたんですが、あなたは努力家ですねえ」
そんな立派なものではない、ただ自己否定から来る罪悪感に耐えられないだけである――と説明しようとしたが、あまりにも卑屈すぎたのでやめた。
「ふぅむ、しかし、眷属たちの中に入れて働かせると、彼らも萎縮するでしょうし、主人である私がお叱りを受けるかもしれませんね」
あごに手をやり、考え込む旦那様。
妻が結婚したばかりの頃、従者たちを手伝おうとしたら「奥様に雑用をさせるわけにはまいりません」とやんわりと拒否されたのを思い出した。
配下を恐縮させてまで仕事に混ざるのはよくない。
「ひとまず、烏丸のお世話をする、くらいで手を打ちませんか?」
夫の言葉につられて、烏丸のほうを見る。
令嬢にすっかり懐いた黒い鳥は、上機嫌なのかぴょんぴょんと跳ねるように部屋の中を歩いていた。
「鴉のお世話の仕方を一緒に調べてみましょう。私もできることは協力を……」
と言いかけて、狐面は口をつぐむ。
「――いえ、これはあなたの役割でしたね。烏丸のことは任せますよ」
「はい、頑張ります……!」
ミコトは自分の心を悟っている。彼が手伝えば「夫のやることを増やしてしまった」と落ち込むのが目に見えているから、コノハひとりに委ねることにしたのだろう。
その気遣いが嬉しくて、彼女はキュッと拳を握りしめた。
まずは、葦原神社の書庫に収められた文献を漁ってみる。
探り当てたそれによると、鴉は他の鳥よりも脳が大きく、知能が高いため懐きやすい。人間の言葉すら覚えてしまうという。
餌は基本的にはなんでも食べる。
毎日の水浴びや、定期的な日光浴が必要、などなど……。
「大変そうだけど、頑張らなくちゃ」
よし、と気合を入れた令嬢に、カア、と烏丸が鳴く。
彼女は笑って、指先で鴉の頭をなでた。
まずは水浴びを、と洗面器に水を張る。
烏丸はパチャパチャと音を立てて水を跳ねさせるが、身体が大きいため、どうにも狭苦しそうであった。
「これじゃ小さすぎるわよね。もっと大きなタライに入れないと」
だが、あまり大きな容器に水を張ると、その重さでは自分の細腕で運ぶことは難しいだろう。
どうしたものか、と悩んでいると、子どもの姿の眷属が通りかかった。洗濯をするらしく、タライに衣服が何着か入っている。
こんな小さな子どもは、どうやって水を――。
そこまで考えて、「あ、そうか」と気づいた。
「烏丸、少し待っていてちょうだい」
コノハは大きなタライを借りてくる。まだ水は入っていない。
それを庭に置くと、次は井戸から水を汲んできて、何回かに分けて流し入れた。
「――これでよし!」
あとは烏丸が水浴びを終えたら、中に入れた水をその場に流して終わりだ。水は庭の草木や土が吸ってくれるだろう。
「さすが、賢いですね」
突然かけられた声にギョッと硬直して恐る恐る振り向くと、廊下にミコトが立っている。
「い、いつからそこに……?」
「あなたが夢中で水を汲んでいたあたりから」
花嫁は井戸とタライを往復した運動によるものだけでなく、羞恥心で顔を真っ赤にした。
見られた。令嬢にあるまじき姿を。
「恥ずかしいことではありませんし、今更でしょう」
夫は庭に降りて、彼女の眼前に立つ。
「私はあなたが木登りをしている姿すら見ているというのに」
「そ、れは子どもの頃の話で……!」
アワアワと弁解する妻の手を包むように握り、彼の口は柔らかく弧を描いた。
「私は頑張り屋さんなコノハさんが好きですよ。烏丸の面倒を見て下さり、ありがとうございます。私ではお世話まで手が回りませんから、あなたがいてくださると、とても助かる」
コノハは、旦那様が自分に気をつかっているわけではなく、心底から感謝しているのだと気づく。
――私は、ここにいていいのだ。
そんな温かな感情が胸を満たした。
カア、と一声鳴いて、水浴びを終え、タライの縁に足をかけた烏丸が、ブルルッと身体の水気を飛ばす。
「おっと」と花嫁をかばうように抱き寄せた夫に、どくりと心臓が高鳴った。
「大丈夫ですか?」
「え、ええ、はい……」
ドクンドクンと鼓動が耳までこびりついて消えない。すでに婚姻関係だと言うのに、こんなことで動揺してしまうなんて。
――……そういえば、結局今日に至るまで、まだ初夜を済ませていないな、と気づいてしまった。
それに思い当たった途端、なんだか不安な気持ちになる。
夫婦の営み、しなくていいのだろうか。
しかし、女のほうから尋ねるのは、はしたない。
どうしたらいいかわからなくて、妻はキュッと唇を噛んだ。ミコトは気づいているのだろうか? 読心術が使えるなら、答えて欲しかったが、彼は何も言わなかった。
そんな複雑な心境になった花嫁の姿を、白い猫が見ていた。
「ミコト様、お仕事をくださいませ」
コノハは深々と頭を下げ、夫に懇願した。
彼女は己の限界を迎えようとしている。
「なにか働いて葦原家に貢献しないと、申し訳なさで死にそうで……」
「ご令嬢にとっては、何もせず暮らすのが理想の結婚生活なのだろうと認識していたんですが、あなたは努力家ですねえ」
そんな立派なものではない、ただ自己否定から来る罪悪感に耐えられないだけである――と説明しようとしたが、あまりにも卑屈すぎたのでやめた。
「ふぅむ、しかし、眷属たちの中に入れて働かせると、彼らも萎縮するでしょうし、主人である私がお叱りを受けるかもしれませんね」
あごに手をやり、考え込む旦那様。
妻が結婚したばかりの頃、従者たちを手伝おうとしたら「奥様に雑用をさせるわけにはまいりません」とやんわりと拒否されたのを思い出した。
配下を恐縮させてまで仕事に混ざるのはよくない。
「ひとまず、烏丸のお世話をする、くらいで手を打ちませんか?」
夫の言葉につられて、烏丸のほうを見る。
令嬢にすっかり懐いた黒い鳥は、上機嫌なのかぴょんぴょんと跳ねるように部屋の中を歩いていた。
「鴉のお世話の仕方を一緒に調べてみましょう。私もできることは協力を……」
と言いかけて、狐面は口をつぐむ。
「――いえ、これはあなたの役割でしたね。烏丸のことは任せますよ」
「はい、頑張ります……!」
ミコトは自分の心を悟っている。彼が手伝えば「夫のやることを増やしてしまった」と落ち込むのが目に見えているから、コノハひとりに委ねることにしたのだろう。
その気遣いが嬉しくて、彼女はキュッと拳を握りしめた。
まずは、葦原神社の書庫に収められた文献を漁ってみる。
探り当てたそれによると、鴉は他の鳥よりも脳が大きく、知能が高いため懐きやすい。人間の言葉すら覚えてしまうという。
餌は基本的にはなんでも食べる。
毎日の水浴びや、定期的な日光浴が必要、などなど……。
「大変そうだけど、頑張らなくちゃ」
よし、と気合を入れた令嬢に、カア、と烏丸が鳴く。
彼女は笑って、指先で鴉の頭をなでた。
まずは水浴びを、と洗面器に水を張る。
烏丸はパチャパチャと音を立てて水を跳ねさせるが、身体が大きいため、どうにも狭苦しそうであった。
「これじゃ小さすぎるわよね。もっと大きなタライに入れないと」
だが、あまり大きな容器に水を張ると、その重さでは自分の細腕で運ぶことは難しいだろう。
どうしたものか、と悩んでいると、子どもの姿の眷属が通りかかった。洗濯をするらしく、タライに衣服が何着か入っている。
こんな小さな子どもは、どうやって水を――。
そこまで考えて、「あ、そうか」と気づいた。
「烏丸、少し待っていてちょうだい」
コノハは大きなタライを借りてくる。まだ水は入っていない。
それを庭に置くと、次は井戸から水を汲んできて、何回かに分けて流し入れた。
「――これでよし!」
あとは烏丸が水浴びを終えたら、中に入れた水をその場に流して終わりだ。水は庭の草木や土が吸ってくれるだろう。
「さすが、賢いですね」
突然かけられた声にギョッと硬直して恐る恐る振り向くと、廊下にミコトが立っている。
「い、いつからそこに……?」
「あなたが夢中で水を汲んでいたあたりから」
花嫁は井戸とタライを往復した運動によるものだけでなく、羞恥心で顔を真っ赤にした。
見られた。令嬢にあるまじき姿を。
「恥ずかしいことではありませんし、今更でしょう」
夫は庭に降りて、彼女の眼前に立つ。
「私はあなたが木登りをしている姿すら見ているというのに」
「そ、れは子どもの頃の話で……!」
アワアワと弁解する妻の手を包むように握り、彼の口は柔らかく弧を描いた。
「私は頑張り屋さんなコノハさんが好きですよ。烏丸の面倒を見て下さり、ありがとうございます。私ではお世話まで手が回りませんから、あなたがいてくださると、とても助かる」
コノハは、旦那様が自分に気をつかっているわけではなく、心底から感謝しているのだと気づく。
――私は、ここにいていいのだ。
そんな温かな感情が胸を満たした。
カア、と一声鳴いて、水浴びを終え、タライの縁に足をかけた烏丸が、ブルルッと身体の水気を飛ばす。
「おっと」と花嫁をかばうように抱き寄せた夫に、どくりと心臓が高鳴った。
「大丈夫ですか?」
「え、ええ、はい……」
ドクンドクンと鼓動が耳までこびりついて消えない。すでに婚姻関係だと言うのに、こんなことで動揺してしまうなんて。
――……そういえば、結局今日に至るまで、まだ初夜を済ませていないな、と気づいてしまった。
それに思い当たった途端、なんだか不安な気持ちになる。
夫婦の営み、しなくていいのだろうか。
しかし、女のほうから尋ねるのは、はしたない。
どうしたらいいかわからなくて、妻はキュッと唇を噛んだ。ミコトは気づいているのだろうか? 読心術が使えるなら、答えて欲しかったが、彼は何も言わなかった。
そんな複雑な心境になった花嫁の姿を、白い猫が見ていた。
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