水滸綺伝

一條茈

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第四回 趙員外、魯達を文珠院に出家させ 魯智深、五台山にておおいに暴れる

(八)

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 「店主、俺は……儂は、旅の僧だ。ひとつ、酒を出してくれんか」
 窓際の席にどかりと腰を下ろした智深は、道中考えに考えていた言い回しで店の者を呼び寄せる。
 「お坊様、あなた、いったいどこのお寺からお見えに?」
 奥からのそりと顔を出した男は、ふんぞりかえって椅子に座る智深の様子を訝し気に見つめ、ぼそりと尋ねた。
 「よもや、五台山のお坊様ではありますまいな?」
 「違う、旅の僧だと言っておろうが。諸国を行脚しとるが、たまたまここを通りがかったでな。喉がえろう渇いたから、酒を一杯もらいたいのだ」
 わざとに郷里の訛りを色濃くすれば、遠いところから来たのだと納得した店主は、「どのくらいお飲みになりますか」と盃を用意し始めた。
 「いくらでもええ。大きい椀になみなみと、どんどん注いでくれりゃあええ」
 言われたとおりに大きな盃に溢れんばかりに酒を注ぐ店主の手から、半ばもぎ取るようにそれを受け取り、一息に飲み干すこと十杯ほど、智深はふと、腹も減っていたのだったと思い出した。
 「喉は潤ってきたが、腹がなくなっちまいそうだ。なにか肉を一皿くれんか」
 「残念、今朝なら牛肉があったんですが、あいにく今は売り切れておりまして」
 「ふぅん……?」
 空になった甕を取り換えるのに背を向けた店主の肩の向こうを、なにげなく覗き見る。
 ごく小さな庭の隅で、土鍋が火にかけられている。いったい何を煮ているのかと鼻をひくつかせれば、間違いなく――己が食い物の匂いを間違うはずはない――犬の肉の匂いがする。
 (こいつ、俺を舐めやがって)
 すく、と立ち上がった智深は、店主を突き飛ばすように追い越して庭の土鍋の前に陣取り、大きな目玉をぎろりと剥いた。
 「おい、犬の肉があるじゃないか。なぜ隠す」
 「い、いえ、隠していたわけではございません! お坊様ですし、犬の肉などお召し上がりにならぬだろうと、声をかけなかったまでで……」
 智深の剣幕に、それまでのどこか他人行儀な態度もすっかりなりをひそめた店主は、ひきつった愛想笑いを浮かべた。
 「なんだと? 銀子は持っているんだ、この肉の半分を俺に出せ」
 「はい、はい、ただいま」
 席に戻った智深は、店主がいそいそと運んできた犬の肉に大蒜おろしを和えながら、また十杯近くの酒を飲み干した。久方ぶりの酒に、さらにうまい肴もあると来れば、まったくその酒量はとどまらず、店に並んでいた甕は次々と空になっていく。
 「あの、お坊様、もうずいぶん飲まれたのでは」
 「ふん、お前らは皆、人の心配をするふりをして、自分のことしか考えていないんだ。金は払っているんだから、余計な世話を焼いとらんで、もう一桶分、持ってこい」
 じとりとした智深の眼差しを避けるように、店主が新たな酒甕を開けて桶を満たす。それをたちまち飲み干した智深の皿には、すでに犬の脚が一本しか残っていない。
 げふりと息を吐きだした智深は、その犬の脚を懐に押し込んで、青い暖簾を豪快にくぐった。
 「釣りは取っておけ。明日また飲みに来るからな」
 己の酒量にか、それとも坊主のくせに生臭を存分たいらげたことにか、驚き果てて言葉もない店主は置き去りに、寺へ帰るため五台山の山道をふらふらと登る。
 その途上に、休むのにちょうどいい庵を見つけた智深は、しばし座り込んだ。
 酔いが回るにつれ、思い出さぬようにしていたもどかしさまでもがどっと舞い戻ってくる心地がした。
 「ふん……この拳も、しばらく使う相手がいないうちに、腐っちまうに違いない。久しぶりに使ってみるか」
 両袖をまくりあげ、足を開いて立ちあがる。
 深く吸った風の中に感じる、線香の匂いを消し去るように、手を、足を、何度も繰り出す。
 東京で出会い、少林寺で深めたその技を、誰も見る者もいない山の中で、ひたすらに。
 「ふ、はは」
 こみ上げる笑いが、何に対してのものだったのか、見当もつかなかった。
 腹の底から湧き上がった震えのままに、庵の柱に肩をあてて揺する。
 ひどくがさついた轟音をたてて柱が折れる。
 ゆっくりと倒れる柱に引きずられ瓦を撒き散らしながら屋根が落ちる。
 天高く土埃をあげながら崩れ去った庵を眺め、智深はまた、笑った。
 「こんな山奥で大きな顔をしていたって、こうして簡単に消えちまう」
 庵だったものを振り返ることもなく、ふらつく足取りで再び山を登り始めれば、恐ろしい音を聞きつけて駆け出してきた寺院の門番たちが、智深の姿に目を剥いた。
 「あの男、また酔っぱらって帰ってきたぞ!」
 「まずい、はやく門を閉めろ」
 そそくさと山門を閉め、閂までかけた門番たちを追ってきた智深は、そこに見えざる仇でもいるかのように、巨大な拳で門を叩く。
 「こら、くそ坊主ども、なぜ俺を締め出そうとする」
 門扉がひしゃげようとも頑なに開こうとしない門番どもに焦れてぐるりと目を回せば、これまで気が付かなかったが、門の両側に金剛の仁王像がそびえている。
 胸を張って立つその姿すら癪に障り、智深は手始めに左の像に向かって唾を飛ばした。
 「おい、そこに突っ立ってやがる木偶の棒め! 黙ってふんぞり返り、閉め出されて困っている俺のために門も叩かず、その上俺に拳を振り上げるとはどういうことだ。はは、貴様の拳なぞ、少しも怖くないわ!」
 仁王像の台座に飛び乗った智深は、像を囲った柵を軽々と引き抜き思い切り振りかぶる。
 「ああ、誰かはやく、長老様に知らせてまいれ」
 智深の振り回す柵にぶたれ悲鳴のような音をあげて泥や胡粉をまき散らしながらも、左の仁王はなんとかその威厳を保っていた。
 「ふん、もう一人いたか。貴様も俺を嘲笑っているな、許さん」
 だが、一息入れた智深がさらなる力をこめて振り下ろした柵の一撃に、右の仁王は耐えきれなかった。
 五台山一帯に響き渡るほどの轟音とともに、像が台座から転がり落ちる。
 それを見た智深は、腹の底からこみ上げる笑いを押さえることもなく天を仰ぐ。
 「ハハハッ、それ見たことか! 貴様なんぞ、ただ偉そうに民を見下ろすだけで芯も根っこもないもんだから、こうして無様に転げ落ちるんだ」
 なんとも愉快げに笑う智深とは反対に、その惨状を目の当たりにした門番たちは、首座や監守も引き連れ、今にも泣きだしそうな顔で長老のもとへと駆け込んだ。
 「長老様、智深めがまた、ひどく酔って暴れまわっております」
 「なんだ、またそのことか。お前たちは何も手を出さず、かまわずにおけばよい」
 「ですがあの野良猫、今日と言う日ばかりは度が過ぎます。庵を壊し、仁王さまを張り倒すなど」
 「天子さまとてもて余すという酔漢を、私ごときがどうこうできようか。出来ることと言えば、趙員外殿にお願いし、智深の打ち壊した庵や像を建て替えてもらうことくらいなものだ」
 さも諦め顔の長老に諭されるたび、僧侶たちの顔は青ざめる。
 「ですが長老、仁王さまは五台山の守り神です! それを建て替えるだなんて、許されるのでしょうか」
 「たとえ御本尊を破壊されようと、あの者を止めることはできぬ。くれぐれもそっとしておくように」
 だが当然、そんな言葉に僧侶たちが納得できるはずもない。門番たちは智深を中に入れまいと力ずくで門を閉ざす。
 一方智深は智深で、頑なに拒まれれば苛立ちはさらに募り、酒臭い息を荒げて声高に叫んだ。
 「やい、くそ坊主ども! どうしても俺を中に入れぬ気なら、俺ぁ火を持ってきて、寺ごと、いや、山ごと燃やしちまうでなぁ!」
 その語気のあまりの凄みに、これは冗談では終わらぬやもしれぬと焦った門番たちは、先程までのふんばりもどこへやら、さっと閂を外すと脱兎の如き速さで部屋に逃げ隠れる。
 それに気付いた智深は、肩を揺らして笑い、勢いよく両の門扉を押し開ける。勢い余ってつんのめり、ごろりと転がるのすらも愉快で、己の禿頭を撫でる。
 どこから沸いてくるのか分からぬ解放感に突き動かされるまま、智深は僧堂へとあがりこむ。
 坐禅を組み、瞑想していた僧侶たちが、簾をまくってのしのしと現れた智深の酒臭さに目を見張る。
 「こいつ、また酒を飲んできたのか」
 「だったら、なんだ」
 酒を飲まなければ、偉いのか。
 仏に祈れば、偉いのか。
 「お前たちには何も見えていないくせに、俺ばかりを邪魔者扱いしやがって」
 だが、坊主らしく説教のひとつもで垂れようとした智深の声は、そこで途切れた。
 「何ということを……!」
 禅床の前でつんのめった智深が、ものすごい音とともに臓腑の中身を吐き出したものだから、僧侶たちはそのあまりの仕打ちに耐え兼ね、袖で顔を覆いながら後ずさる。
 不平も一緒に吐き出されたか、やたらとすっきりした気分の智深は唐突に思い立ち、禅床に登ると己の僧衣を勢いよく引きちぎった。
 「は、ちょうどいいもんがあったぞ。出しちまったら、腹が減った」
 転がり出てきた犬の脚を歯茎まで剥きだして貪り喰らいながら、花の刺青も見事な裸身をさらけ出した智深は、じろりとまわりの坊主たちを見渡した。
 「おい、お前」
 右手で智深に背を向けようとしていた坊主の肩を鷲掴み、「食いな」と犬の脚を差し出すが、坊主は必死に顔を隠して身を捩る。
 そこで今度は左手で恐怖のあまり動けずにいた坊主を引っ掴み、「お前は食わんか」と強引に肉を口に押し込む。
 「どうだ、うまいか、それが民が食っている肉の味だ」
 「智深、やめないか、度が過ぎるぞ」
 無理やり肉を口に突っ込まれた僧侶を助けようと、四、五人の僧侶が勇気を振り絞って近寄るが、犬の脚を手放した智深は「邪魔をするな!」と一喝、笑いながら僧侶たちの禿げ頭を殴りつける。
 半裸の大男が好き勝手に暴れまわるその怪異な様に、ついに僧侶たちは仲間を助けることを諦め、我先にと袈裟を抱えて逃げ出した。その上を下への大騒ぎたるや、首座も収めることが出来ぬほどである。
 もはや一匹の獣のように巨躯を好き放題暴れさせ始めた智深を前に、長老に相談もあったものではないと、寺男や職人衆など多少は力に自信のある男たちが急きょ二百名ほど集められる。
 杈や棍棒を手に僧堂へと乗り込んできた男たちに向かい、智深は吼えた。
 「武器も持たぬ俺をこんな風に取り囲むとは、恥知らずめ!」
 あちらがそのつもりならばと堂の奥へ駆け込み、智深は仏前の卓を思い切りひっくりかえした。
 供え物の果物が散らばるのを気にも止めず、力任せに卓の脚を二本折った智深は、双刀使いのごとく木の脚を掲げて外へと躍り出る。
 丸い目をかっ開いて辺りを睥睨し、汗で濡れ光る太鼓腹の長身を誇示するように仁王立ちした智深は、虎とも狼ともつかぬがごとき素早さで僧侶や寺男たちの群れに飛び込んだ。
 仁王ですら止められぬほどのその圧倒的な気を前に、それでも僧侶たちは、なんとかせねばと踏みとどまる。
 両側から挟まれる形になった智深は、卓の脚を振り回し、自分に近づこうとする男たちを片っ端から打ちのめす。僧侶たちの悲痛な叫びが山々に木霊し、名も知らぬ鳥が一斉に飛び立っていく。
 「来い、まとめて相手をしてやるぞ!」
 久方ぶりに生身の人間を相手に腕を振るう興奮が、智深の肌を赤く染めていく。
 地獄の鬼のごとく赤く燃えた肌にぎらぎらと刺青の花を咲かせた一匹の獣は次々と群衆をはっ倒し野に解き放たれたかのように奔放に駆け、そして、
 「止めぬか、智深! お前たちも、手を引きなさい」
 ――この日もまた、智深の凶行を止めたのは、長老の深い声だった。
 智深に殴られ怪我を負った僧侶たちが次々に引き下がり、道を開ける。
 怒っているような、それよりも哀しんでいるような長老の瞳に見つめられ、智深の体から酔いが一気に引いていく。
 「……長老、俺は」
 「智深、お前には、ほとほと手を焼かされる」
 何を叫びたいのか自分でもわからぬまま、魚のように口だけを動かす智深の目の前に、長老は静かに立った。
 「先日酔って騒ぎを起こしたとき、お前をここによこした趙員外は、その一件を聞くや我々に詫びの手紙を送られた。員外のそんな苦心も知らず、お前は今日またひどく酔って暴れ回り、寺の規律を乱し、庵を破壊し、仁王様の像を打ち倒し、それはどうにでもなるとしてもだ、僧侶たちを堂から追い出したのは並みならぬ罪。文殊菩薩の霊験もあらたかな聖地たるこの五台山を、お前は穢したのだ」
 ひとつ、長老は細い息を吐いた。
 「智深、もはやお前をここに留め置くわけにはゆかぬ」
 「……長老、今、なんと」
 「来なさい」
 血の昇った頭では、長老の言葉の意味を理解できず、智深はぽかんと黙り込む。
 長老に手を引かれて方丈へと戻り、一晩泥のように眠ってもまだ、にわかに己の置かれた境遇を受け入れることはできなかった。
 「智深、昨夜のうちに、お前のことは趙員外殿にお知らせした」
 次の朝、痛む頭を抱えながら起き上がった智深に声をかける長老の手には、一通の書状が握られていた。
 「仁王像や庵については、員外殿が費用を出して立て替えてくださるそうだ。そして、お前の処遇は私に任せる、と」
 「処遇……」
 こんな山になど居たくないと鬱憤をためて暴れ回ったはずなのに、いざ長老の口からはっきりと告げられれば、何か突き放された心地がした――いや、あんな失態をおかしたのだから、自業自得ではあるのだが。
 「首座とも話し合ったが、やはり僧侶を傷つけたお前の罪は重い。だが、趙員外殿のお顔に免じて、お前を私の弟子のもとへと預けることにした。この書状を持って行けば、必ずやお前を受け入れることであろう」
 渡された書状に書かれた文字は、読めなかった。
 「昨夜一晩、私はお前のことを考えていた」
 どこか遠くを見るような長老の目が、天を仰ぐ。その視線を追っても、重苦しい石天井が広がるばかりである。
 「お前に、四句のを授けよう。これは一生涯、お前を導くものとなろう」
 「……長老様、師匠、どうか粗忽者の俺にも分かるよう、その四句をお聞かせください」
 もはや素直にこの寺を去るしかない今となって初めて、智深の身に、長老の深い想いが染みわたる。
 この先、手配書まで出された身を引き取ってくれるところがあると言うのなら、心を改め、大人しくその人のもとへと参じるしか、智深に残された道はなかった。

<第四回 了>
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