水滸綺伝

一條茈

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第五回 小覇王 酔って花嫁の床に入り 魯智深 おおいに桃花村を騒がす

(一)

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 この山に、寺に、僧たちに、不満なことは数え切れぬほどあった。
 そうして何度己が不満を爆発させようと、その怒りを受け止め、あるいは受け流してくれた長老はしかし、この度ばかりは智深をかばいきれぬと首を振る。
 「では、四句の偈、心して聞くよう……」
 それでも、己の背に、生涯頼るべき言葉を負わせてくれるのが、彼のせめてもの情けなのであろう。
 「林に遇いて起ち
 山に遇いて富み
 水に遇いて興り
 江に遇いて止まる」
 静かに響いたその四句を、智深は口の中で今一度、音をたてずに唱えた。
 「林、山、水、江……お前の生涯を変え、導き、そして終わらせるものだ。決して忘れるでないぞ」
 「長老、この言葉、そして今までの御恩、決して忘れません」
 跪き、地に禿頭を擦りつけながら、智深は九度、長老に拝礼を捧げた。
 白い眉の下で変わらぬ静寂を湛えた眼差しを、慌ただしく出立の身支度を整えて山を下り、注文していた禅杖と戒刀を携えて山麓の街の門をくぐるその時まで、智深は背に感じていた。
 (二度と会うことは、なかろうな)
 最後にもう一度、五台山の威容を振り返り、智深は東京を目指して歩き出す。
 二月も終わる頃とは言えまだ冷え込みの深い時節ではあったが、黒い法衣の袖を青い襷で荒々しく捲りあげる。
 三尺の立派な戒刀を腰にぶら下げ、肩にひっかけた六十二斤の禅杖を光らせ、顎にはびっしりと鉄線のような髭を生やし、はだけた襟元から花の刺青と胸毛を見せた己の様は、荒法師という言葉がまさに似合いであろう。
 すれ違う人々はみな、ぎょろりと大きな目を光らせ肩で風を切って歩く智深の姿に仰天し、目を合わせぬようさっと道をあける。店に入ればどこの山賊がやって来たかと小二たちが息を詰め、手配の賊と思い至ったところで智深の荒々しい姿に恐れをなして何も言えぬといった具合である。
 そうして話し相手もいない一人酒の夜を半月ほど過ごしたある夕暮れ、山間の村を取り巻く杏の木々に夕陽が落ちかかり、淡く燃えるその色が映った水面に一艘の釣船がすう、と帯をひいて岸辺に戻っていく様を何ともなしに見つめていた智深は、地平が紫に染まり始めてようやく、この日の宿を逃したことに気が付いた。
 「あいや、つい景色に見入って忘れていたが、もうこんなに日が暮れてしまった。まいったな」
 きょろきょろと辺りを見回しながら、もう二、三十里ほど田畑の間を縫って歩けば、薄闇に霞む雑木林の向こうに、山並みを背に負った大きな屋敷が現れた。
 (林に遇いて起ち……)
 ふと、長老の声が脳裏によみがえる。あの林の向こうで、何かが己を待ち受けているのだろうか。
 「仕方あるまい、今日はあの屋敷に宿を借りるとしよう」
 そうと決まればのしのしと足どりもはやくなり、あっという間に屋敷の門前へたどり着けば、何やら使用人たちがいそいそと物を運び、屋敷の前を駆けまわっている。
 どうにも慌ただしげではあったが、曲がりなりにも僧衣を纏った己を邪険にはするまいと、智深は門扉に禅杖を立てかけ、ちょうど通りがかった使用人に合掌礼拝した。
 「南無阿弥陀仏、少しよろしいだろうか」
 「うわ、なんだ坊さん、こんな日暮れに何の用だい」
 随分ぞんざいな口調に些かむっとしないでもなかったが、智深はできるだけ人好きのする笑みを浮かべようと試みた。
 「拙僧は旅の僧侶なのだが、先を急ぎすぎて宿を取り損ねてしまったので、どうにかお宅で一晩泊めていただけはせぬかと思い、参った次第。明日の朝はやくに出立するのだが、どうにか一晩、寝床を貸してはもらえんだろうか」
 だがそんな智深の努力もむなしく、使用人はさも迷惑そうに眉をひそめ、ため息をつく。
 「坊さん、見りゃわかるだろ。うちは今日は取り込み中なんだ、他をあたってくださいよ」
 「飲み食いはせん、ただ寝るだけだし金も払う。たった一晩でいいんだ」
 「だめだ、だめだ。さっさと行きなよ坊さん。ここにいたらあんたも殺されちまう」
 「おい、それはどういう意味だ? 泊めてほしいと言っただけなのに、何故そんな物騒な話になる」
 「あんたもしつこいな! 行かねえんだったら、ふん縛ってここに晒しておくぞ」
 だんだんと声を荒げる使用人につられ、あっという間に、智深のいつもの癇癪玉が爆発した。
 「なんだと、この田舎もんの石頭め。俺は何も悪さをしてないっていうのに、縛るとは何事だ!」
 その大音声に使用人たちがひるんだ隙をつき、門扉に立てかけていた禅杖を太い指でむんずとつかみ、振り上げようとしたその刹那、
 「お前たち、何を騒いでおる!」
 杖で地を叩く乾いた音とともに、屋敷の中から老人が一人、姿を見せた。
 痩せた小柄な体よりも手に持った杖のほうが大きいその姿こそ年齢を感じさせるが、威厳を湛えた声は未だ衰えを知らぬようで、そして、どこか智深の恩人を思わせるのだった。
 「一体、何事だ?」
 「こ、この坊主が、いきなり俺たちに殴りかかろうと……」
 ばつが悪そうにこちらに視線をよこす使用人を押しのけ、老人は、ゆっくりと智深の前に立つ。慌てて智深は老人に向かって合掌し、つるりと禿頭を撫でた。
 「いや何、拙僧、五台山から参った者ですが、用事で東京へ向かう道中、急ぎすぎて今宵の宿を逃してしまった故、お宅に一晩だけでも泊めてもらえぬかとお願いしたのです。そうしたら、そこの使用人どもが、無礼にもいきなり拙僧を縛りあげるなどと言ったもので、その、つい」
 どうにも、この手の老人の前では、滾らせた怒りもしぼんでしまう。遠慮がちに言い訳する智深の言葉に耳を傾けていた老人は、唐突に笑顔を浮かべると、合掌を返して深々と頭を下げた。
 「なんとまあ、五台山からいらしたお坊さんということでしたら、どうぞどうぞ、お入りくだされ。使用人どもの無礼は、ひらにご容赦を……あとで私から言い含めておきますゆえ」
 「はは、そうと決まればありがたい。やっかいになります」
 老人に促され、一気にしおらしくなった使用人たちの間をすり抜けると、智深は屋敷の奥の客間に通された。上座を勧められるのを丁重に断り下座に着けば、老人は再び合掌し、睫毛まで白い目を細めた。
 「和尚様、使用人どもの失礼、重ねてお詫びをいたします。あの者たちは、和尚様がかの生き仏住まいし五台山からおいでとは知らず、ただの旅の僧侶と思うたのでしょう。ですがご安心ください、私はかねてより、深く仏さまを信仰しております。今宵は少し取り込みごとがございますが、どうぞ一晩、ごゆるりとお休みください」
 「いやはや、ご丁寧にすみませんな。失礼ですが、ご老人のお名前は」
 「私の姓は劉と申します。ここは桃花村とうかそんという土地でして、辺りの者はみな私を桃花荘の劉太公と呼んでおります。和尚様は、なんとおっしゃいましたかな」
 「拙僧、法名は智深と申しまして、師である智真長老様に授けていただきました。姓が魯なので、魯智深と名乗っております」
 「ほほう、智真長老の……ところで、ぜひ夕餉をお出ししたいのですが、なまぐさものはやはり召し上がらないのでしょうね?」
 なまぐさもの、という言葉を聞き、ここまでの旅路でできるだけ路銀を使わぬようにと殊勝な心がけでいた智深もさすがに、ごくりと喉が鳴るのをこらえられなかった。
 「実は拙僧、なまぐさを召し上がらんどころか、酒でも肉でもなんでも食うのです。どんな肉でもかまいませんぞ」
 「それはようございました。では、すぐに支度をさせましょう」
 劉太公の合図で動き出した使用人たちが、ほどなくして、牛肉や菜を卓にあふれんばかりに運んでくる。
 そのうまそうな匂いにつられ、さっそく智深も胴巻きやら腹巻やら堅苦しい衣をはずし、太公と使用人たちに勧められるがままに酒やら肉やら次々とかっこんだ。
 酒を一壷、肉を大皿一皿、あっという間にたいらげる智深の姿を劉太公はしばらく呆けたように見つめていたが、髭に米粒をいっぱいつけながらうまそうにむしゃむしゃと口を動かす様がおかしくなったのだろう、まるで孫でも見つめるかのように目尻に皺を浮かべたのだった。
 「さて……それでは、そろそろ寝所にご案内いたしましょうか」
 卓にあふれていた夕餉をすっかり胃袋にしまい込んだ智深が、食後の茶をすすりながら一息ついたところを見計らい、劉太公が立ち上がる。
 「こちらに小部屋をご用意しております。夜分は表が騒がしくなりますが、どうかお気にとどめず、決して外へは出られぬよう……」
 「……太公」
 げふり、と生臭い息を吐き出し、智深は太鼓腹をひとつ叩いた。
 「さっきから気になっていたが、今夜、今夜とみな口を揃えて言っているのは、何かわけがあるのかい」
 「……出家の方をわずらわせるようなことでは」
 さきほどまでは一家の主の風格で智深を見守っていた太公だったが、一転、酒も入っていつもの調子に戻った智深のぎょろりとした目つきを恐れるように、顔を俯ける。
 「随分浮かない顔をしているじゃないか。まさか、俺がこんなに飲み食いして、おまけに部屋もひとつ使っちまうから、迷惑しているんじゃないでしょうね。宿代は明日きちんと払うから、安心してくれればいい」
 「いいえ、そのようなことは決してございません。我が劉家は代々、お坊さまに斎やお布施を欠かしたことはございませんので、あなたお一人飲み食い、お泊りになったところでなんの痛手になりましょう」
 「では、どうしてそう陰気な顔をするのだ」
 「実は……」
 しばし逡巡したあと、劉太公は、ぼそりと声を落とした。
 「今晩、私の娘が婿を迎えるので、それで悩んでおるのです」
 それを聞いて智深は思わず噴き出した。何を思い詰めているのかと思えば、娘の婚礼とは。
 「ハハッ、太公、あんた、娘がいなくなるんで寂しいんだな? だが、息子が嫁をもらい、娘が嫁に行くのは世の常。何をいまさら思い悩むことがある? 景気よく祝ってやるのが、親の務めというものだ」
 「いいえ、それがこの度の婚礼、ただの婚礼ではございませんで」
 愉快に肩を揺らす智深と逆に、劉太公は小さな体をますますしぼめ、枯れそうなため息を零す。
 「この縁組、我らの望んだものではないのです」
 「なんだと? あんたも不思議な人だ、何故気に入らん縁組を進めなさった」
 「私には一人娘がおりまして、今年十九になる、親の私が言うのもなんですが、花のように美しい娘です。この村が背負っているのは桃花山という山なのですが、近ごろこの桃花山に二人の山賊の頭領が根城を築き、五、六百人の手下を従えて山麓一帯を荒らしておるのです。ここ青州せいしゅうの軍人様たちですら手に負えないありさまで……それが、その桃花山の山賊が、先日この屋敷に冥加金を納めろとやってきたとき、たまたま我が娘が親分の目に留まりましてね。金二十両と紅の錦一疋を結納として、今夜こそ吉日と、屋敷へ婿入りに来るというのです。我々では到底山賊相手に逆らうこともできず、こうなってしまっては、娘をくれてやるほかありませんで……それで思い悩んでおるのです」
 「なんと!」
 智深の岩のような拳をまともにくらった卓に、微かなひびが入る。
 「ここにもまた、若い娘を食い物にする助平めがおったとは! 劉太公、そういうことならご安心を、妙案を思いつきましたぞ。俺がその思いあがった山賊野郎に説教して、娘さんとの縁組を思いとどまらせてくれよう」
 「で、ですが和尚様、あの山賊ども、人を殺してもびくともしないような連中です。いくら五台山の和尚様のお説教と言え、聞き入れて改心するとはとても……」
 卓のひびを恐々と横目に眺める太公の手を取り、智深は得意げに笑った。
 「なに、智真長老に学んだ説法ならば、たとえ相手が鉄のような人間でも心動かすことができましょう。そうとなったら、今夜はさっさと娘さんを別の場所に隠さねばな。代わりに俺が娘さんの部屋に入り、奴を改心させてみせよう」
 「なんとも頼もしいお言葉ですが、しかし、わざわざ虎の髭に触れるようなことをするのは……」
 「あんたもまた煮え切らんじいさんだ。あんたは娘のことだけ心配していればいい。俺のことは心配いらんから、全部任せておきなさい」
 「おお、なんという……! あなた様こそ、まさに生き仏。この屋敷に今宵いらしてくださったことこそ、まさに天命でございましょうなあ……ありがたや、ありがたや……」
 何度も合掌礼拝する劉太公を押しとどめ、どうにもどこかで見たことのあるような光景、聴いたことのあるような話になってきたと、智深はなんとも奇妙な気持ちになった。
 だが、すでに己は一度、義のための罪で追われた身。迷惑をかける上官も、失う職も、何もない。
 ならば思い切り、正義のために暴れるまでだ。
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