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第一章
第四話 46 ディメント
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聖月は、命令通り神山に着いていった。
なんだか、同じような経験をしているような気がした。
あっ――…と、聖月は思い出す。この状況は、施設に来て一日目のことを思い出す。神山に、施設を案内とされたときと同じ状況だと今更ながら気づいた。心の心境や、自分の取り巻く環境の見る目が変わったことは確かだが。
まだ、施設に来て一週間もたっていない。なのに、聖月は一生分の苦痛を味わったような感じだ。今でも倒れそうなほど、足がよろよろとよろけながら歩いている。
逃げよう、と考えて神山を見たらばちっと目があった。神山の目は、綺麗だ。顔も美しい。
が、その綺麗さは有無も言わせないオーラが漂っている。
そういえば、彼はこの施設の本当のことを知っているのだろうか。いや、知っているに違いない。ここで従業員として働いているのなら、知っているはずだ。だが、聞ける雰囲気でもなく、聖月はただ後ろについて歩いているだけだ。
目があった瞬間、神山に渋い顔をされた。相当、自分は酷い顔だったのかもしれない。いつも覇気がないのに、今日は酷いことになっているに違いない。
「…ッチッ」
しかも、神山の美しい口から舌打ちがもれた。なんなんだ、今日といい昨日は。本当に、厄日すぎる。綺麗な神山の舌打ちは、胸に痛い。
「……」
いや、誰だって舌打ちをされたら心が痛い。なんで、舌打ちをされたのだろう。自分は何もやっていないはずだ。
俺が何やったんだってんだ――…。
聖月は、奥歯をかみ締め背筋の伸びた神山に着いていった
「来たね」
小向は、聖月に小さく手を振る。
階段を下りて、ある部屋につれてこられた。ここがどこかは分からない。聖月は、小向の顔を見た瞬間心が蝕まれた。顔も、醜く歪む。小向は、大きな木製の机の前に大きな顔で椅子に座っている。やはり、権力者の貫禄がある。
赤い照明と、少し薄暗い部屋はどこかムードが漂っていた。西洋風の部屋で、あちこちにアンティークが飾ってある。雰囲気は、どこかのヨーロッパの部屋の一室みたいだ。たしかに、この施設の外は西洋風の建物なので、こんな部屋があっても不思議ではない。
壁にろうそくが飾ってあり、それがゆらりゆらりと揺れている。聖月は、しばらくその仄かな炎に酔いしれた。
「連れてきました。小向様」
むすっとした言い方で、神山は小向に畏まる。
どこか怒った口調で、神山は言う。どうして怒っているのかが聖月には、分からない。
「はい、ご苦労様。神山、そこの椅子とって机の前においてくれ」
「かしこまりました」
云われるまま神山は、机の前に椅子を置いた。どこか、薄暗い部屋に映し出している神山の顔は険しい。椅子は、小向と向かい合わせに置かれた。なんだか、嫌な予感がして聖月はろうそくを見続ける。
「聖月。そこに座って」
――――嫌です。
なんて、いえない。小向の笑顔を見てそう思った。温厚そうな顔の下には、化け物がいることをよく知っているからだ。自然に名前で言われていることに寒気がしてくる。聖月は、逆らえずに椅子に座った。
椅子の居心地はいいが、この部屋の居心地はよくない。前を見れば、小向がいるからだ。2者面談のときの、先生と一対一よりかなりきつい。そっちのほうが、何倍もましなような気がする。
目の前の小向の顔が見れずに、肩のほうを見詰める。目を合わせたら、自分の気持ちをそのままに罵声か何かをぶつけそうだ。無言のまま、聖月は机を見る。
机には、何かの書類があった。あまり暗くて見えないが、びっしりと何かが書いてある。
「聖月、昨日何があったか覚えてる?」
ぎょっとした。小向の笑顔には、何も感じられない。無、だ。気持ちもこめられていない笑顔だと、すぐ分かる。云われた言葉も驚いたが、そのことが一番怖かった。しかも、そんな笑顔で言われたのが聖月にとって最悪なものだった。手を、握り締めて、問い詰めたいのをどうにか耐える。
この答えははい、といいばいいのか、いいえといえばいいのか分からない。どっちを云ったとしても、結果が見えている。
「……」
迷った末に、口からてきたのは空気だった。云いたいことがありすぎて、結果的に何も伝えられなかった。
「そんな無表情で見られても、無言だったら覚えているのか、覚えていないのか分からないよ」
また、にっこりと微笑まれた。笑っている皺がくっきりと刻まれているのに、何も感じない笑顔だ。作っている笑顔より、怖かった。目が笑っていないからだ。この人の笑顔はなんでこんなにも、怖いのだろう。笑顔とは、そんなものではなかったはずなのに。
「…なんであんなことしたんですか」
声に怒気を含んで、聖月は睨みつける。あまり睨んだ経験がなかったので、こめかみが引くつく。今ですら、泣きたくて泣きたくてたまらない。理由は、たくさんあるが、一番のことは目の前に居る男の存在だ。
小向を見るだけで、昨晩のことが蘇る。一思いに自分の髪を掻き毟りたい衝動が襲われる。この人は、目の前で鞭を打たれている聖月を見て楽しんでいたのだ。狂っている。狂っている男だ。その男と一緒の部屋で息をしていることが、気持ち悪い。
またもや、男は笑う。
「なんだ。覚えているんだね、ショックで忘れられたら困るから、どうしようかと思ったよ」
あまりのムカつきで、涙が出てきそうだ。小向の言うとおり、ショックで記憶がなくなっていればよかった。そうすれば、今みたいに苦しい思いをしなくてもすむのに。
実際聖月は、あまりのショックで昨日の出来事を夢だと信じ込もうとしていた。それほどのことを、この男はした。いや、この施設に居る男たちはしたのだ。
「……クソ野郎」
ぼそっと、聖月は言う。
「おい、聖月。今、小向様になんていった?!」
聞こえていたのか、神山が鬼の形相で聖月の髪を思い切り引っ張る。
「――ヒイッ」
神山に似合わない力で思い切り引っ張られ、聖月は呻いた。神山の顔は、先ほどの美しい顔ではない。人ではない形相で、聖月を睨んでいる。あまりの痛さで、はらはらと涙が出てきた。聖月がばたばたと足をばたつかせると、小向が云う。
「こら、神山。そこまで怒らなくていいから」
「でもっ、コイツは小向様に暴言を言ったんですよ! 許せないっ…」
聖月は、手の力が抜けた瞬間に頭を抱え込んで逃げる。頭皮がズキズキと痛んで、今にも抜けそうだ。実際に、手を見てみると何本か抜けていた。それを見たとたん、寒気が走りぞっとした。はぁはぁと肩で息して、どうにかこの痛い胸を押さえ込もうとする。
突然の神山の行動に、聖月は驚きを隠せなかった。こんなことをする、人ではないと思っていたのだ。聖月のなかの、神山の人物像がぐらぐらと揺れていた。
「まったく、これからの大切な商品に傷をつけないでくれよ。神山、君もその一人なら分かるはずだよ」
「なっ…! あの話本当にするんですか?! 俺は、反対ですよ!」
「黙ってなさい、秋人」
「……ッ」
急に名前を呼ばれて、神山は言葉は発せていない。
商品――…。
指を指されながら、聖月は小向に「商品」といわれた。―――俺が、商品だって? 意味が分からない。
聖月は「商品」という言葉が引っかかっていた。聖月は「人」で、売り買いする「商品」ではないのだ。そんな風に云われたのが不愉快で、思わず口を押さえる。この男は、人間を「物」に思っているのか。それに、どうして自分が「商品」といわれたのかが聖月には理解できなかった。
それをいった小向に、神山が激昂する理由も分からない。
「俺は、商品じゃない。あんたらはおかしい」
言い切った聖月に小向は鼻で笑う。
「おかしくないさ。君はもうじき商品になる」
小向は、自信満々で頭がおかしいことを云っている。どうして、さも自信ありげにそんなことを言うのだろう。ばかばかしすぎる。人は絶対に「商品」にはならないし、聖月も「商品」になる気はないのだ。聖月は、自分が正しいと確信しながら早口で言う。
「意味が分からない。俺はもうあんたらに付き合ってられない、裁判所に訴えて金をごまんと請求してやる。それで、ここから出てやる。もうあんたらには一生会わない。永遠におさらばしてやる」
「それは無理な話だ」
「はあ?」
何が無理な話だというのか。
小向たちは、聖月が訴えて一生償ってくれてもいいぐらいのことをした。なのに、なんでそれが「無理な話」なのか。
疑問がいっぱいの聖月に、小向は机から何かのケースを取り出した。そして、聖月のいるほうへと机でスライドしてみせる。それは、ひとつのDVDケースだった。嫌な予感と悪寒がして、聖月は目を見張る。
「これ、なんだか分かる?」
小向は、心のこもっていない笑顔の仮面を披露しながら言う。
「え……?」
疑問を隠せない聖月は、そのDVDケースのマジックで書かれている文字を見て息を止めた。
――『聖月-ミツキ-』
「…は…」
頭が真っ白になった。―――まさか、そんなはずはない。いや、でも、これは。
聖月の頭痛でいっぱいの頭の中に、小向の声が響く。
「これね、昨日の聖月。よく撮れてたよ、ためしにモザイク編集して客に渡したらすごく喜んでたよ。指名できるかって」
「……は……」
気づいたら、DVDケースを拳で叩き割っていた。自分でも驚くぐらいの、力でDVDケースごと中身まで真っ二つにしていた。すごい音がして、自分が割ったのだと気づいた。無意識のうちに、割ってしまったらしく、小向がおどろいた形相でこちらを見ていた。
神山も同様に、隣でびっくりした顔で立っている。DVDを割った手がヒリヒリと痛む。
「何やってんの」
間抜けな声で小向が喋る。こんな声は初めて聞いた。
「……いえ、俺も知りません」
「聖月が割ったんでしょ」
「そうですけど、無意識で」
そういうと、隣の神山が早口で言う。
「いやいや、無意識はねえわ。これ、何円すると思ってんの? 一本無駄にして、ただで済むと思ってんの」
「こんなDVD壊せばいいんです。だから、割ったんだと思います」
聖月がそういうと、弾けたように低い笑い声がどこからか聞こえてくる。
「ふっ、ははっ」
びっくりして前を見てみると、小向が爆笑していた。こんな風に笑うのかというほど、声を出して笑っている。なんだか、不気味だ。神山も、そんな小向に驚いているのか、声を失っている。そんな小向は見たことがない、といいたげだった。
しばらく、笑っていたが落ち着いたのか、小向はいう。
「あー、笑ったよ。別に割ってもいいんだけどね、何本もあるし」
「な!」
神山が先ほどに言っていたように、このDVDは何本もあるらしい。恐ろしくて、悪寒がする。
「なんで、こんなDVDがあるんですか? こんなもの、あってはいけないのに」
聖月は、恐ろしさのあまり震えながらそんなことを聞いていた。こんなDVD誰が見るのだろう、という疑問もある。こんなもの見る人間なんて趣味が悪すぎる。
「需要があるから」
「需要? どこに、こんなもの」
「あるよ。聖月は売れると思うし、こういう子は珍しいから」
意味が分からなくて、聖月は叫ぶ。
「だから、誰に! これを売ったんですか!」
先ほど、このDVDを小向は売ったといった。こんな、悪趣味なビデオを。売った人物を問い詰めて、どうにかして回収しなくてはならない。こんなもの、この世に存在してはいけないものだ。見知らぬ人に見られていると思うと、背筋が凍る。知り合いにでも見られたら、たぶんショックのあまり聖月は自殺するだろう。
「Demento(ディメント)の客に」
ディメント――…?
何かの、場所の名前だろうか。それとも、店の名前か。聖月がもんもんと考えていると、小向が答えを教えてくれる。
「まあ、いっちゃえば男で身体を売るところ…で、それを〔買い〕にくる客に売ったんだ」
聖月は言葉を失った。大きな衝撃が襲う。
今、この男はなんといったのだろう。男で身体を、売るところ…――つまり小向はいわゆる『男娼館』で、それを買いにくる客に売ったといっているのだろうか。ありえない。意味が分からない。
聖月は、呆然と割れているDVDを見た。この中身は、見るに耐えない聖月の痴態が納められている。それを、この目の前にいる男はそんなところで売ったということか。衝撃で何もいえない屍のような聖月に、小向は囁く。
「君はそこで、働いてもらうよ。泣いても、拒否は出来ない」
「…なんで…」
耳に囁かれて、それだけしかいえなかった。声がかすれて、小さな声しか出てこない。もっと、大きな声で問いたいのに。
―――働くって、なんだ? 働くって、その男娼館にか? 自分に、もしやその男娼になれと小向は言っているのか?
小向は本当にどこか、頭がおかしいんじゃないだろうか。聖月は、唖然として椅子にもたれかかった。反論する気もならない。本当に、これは夢じゃないのだろうか。普通はありえないことが、今まさに起こっている。
「だって、このDVDたくさんの客に売ったし、指名したいって人もいるし」
「そんなことは、理由にならない…」
「なるよ。このDVD聖月のお兄さんとか、お友達に見られたくないでしょ?」
「…ぁあ…あ」
云われて、もだえることしか出来なかった。どんな人より清十郎や、十夜や、衛にだけは見られたくなかった。絶対に、見られたくなかった。こんなDVDを見たら、いつもの日常には戻れないだろう。
そして、聖月のことを軽蔑して、友人や、家族ではなくなってしまうだろう。軽蔑しなくても、絶対に普段の日常には戻れない。それだけは、嫌だった。あの人たちは聖月の光で、宝物だったから、それを奪われるのは嫌だった。絶対に。
「だから、そんな友達思いの聖月に特権があるんだ。大学卒業したら、お仕事はやめていいよ。DVDも、出来る限り集めるから。それだけでいいよ」
小向が、働く前提で話を進めている。意味が分からなくて、声が震えた。
「もし、いやだって云ったら…?」
うーんと、考える仕草をして小向は能面のような笑顔を送る。
「そうだな、このDVDをお友達に送るのはどうかな? お兄さんも、あ、ついでに先生に送るとか。お兄さん、びっくりすると思うなー」
そういわれたとたん、心のどこかがストンと落ちる感覚がする。自分に、拒否権がないことを思い知らされた。未来が、見えない。不透明で、そのころまで生きているかも分からない。
気がつけば自然と聖月の涙が目から零れ落ちていた。
なんだか、同じような経験をしているような気がした。
あっ――…と、聖月は思い出す。この状況は、施設に来て一日目のことを思い出す。神山に、施設を案内とされたときと同じ状況だと今更ながら気づいた。心の心境や、自分の取り巻く環境の見る目が変わったことは確かだが。
まだ、施設に来て一週間もたっていない。なのに、聖月は一生分の苦痛を味わったような感じだ。今でも倒れそうなほど、足がよろよろとよろけながら歩いている。
逃げよう、と考えて神山を見たらばちっと目があった。神山の目は、綺麗だ。顔も美しい。
が、その綺麗さは有無も言わせないオーラが漂っている。
そういえば、彼はこの施設の本当のことを知っているのだろうか。いや、知っているに違いない。ここで従業員として働いているのなら、知っているはずだ。だが、聞ける雰囲気でもなく、聖月はただ後ろについて歩いているだけだ。
目があった瞬間、神山に渋い顔をされた。相当、自分は酷い顔だったのかもしれない。いつも覇気がないのに、今日は酷いことになっているに違いない。
「…ッチッ」
しかも、神山の美しい口から舌打ちがもれた。なんなんだ、今日といい昨日は。本当に、厄日すぎる。綺麗な神山の舌打ちは、胸に痛い。
「……」
いや、誰だって舌打ちをされたら心が痛い。なんで、舌打ちをされたのだろう。自分は何もやっていないはずだ。
俺が何やったんだってんだ――…。
聖月は、奥歯をかみ締め背筋の伸びた神山に着いていった
「来たね」
小向は、聖月に小さく手を振る。
階段を下りて、ある部屋につれてこられた。ここがどこかは分からない。聖月は、小向の顔を見た瞬間心が蝕まれた。顔も、醜く歪む。小向は、大きな木製の机の前に大きな顔で椅子に座っている。やはり、権力者の貫禄がある。
赤い照明と、少し薄暗い部屋はどこかムードが漂っていた。西洋風の部屋で、あちこちにアンティークが飾ってある。雰囲気は、どこかのヨーロッパの部屋の一室みたいだ。たしかに、この施設の外は西洋風の建物なので、こんな部屋があっても不思議ではない。
壁にろうそくが飾ってあり、それがゆらりゆらりと揺れている。聖月は、しばらくその仄かな炎に酔いしれた。
「連れてきました。小向様」
むすっとした言い方で、神山は小向に畏まる。
どこか怒った口調で、神山は言う。どうして怒っているのかが聖月には、分からない。
「はい、ご苦労様。神山、そこの椅子とって机の前においてくれ」
「かしこまりました」
云われるまま神山は、机の前に椅子を置いた。どこか、薄暗い部屋に映し出している神山の顔は険しい。椅子は、小向と向かい合わせに置かれた。なんだか、嫌な予感がして聖月はろうそくを見続ける。
「聖月。そこに座って」
――――嫌です。
なんて、いえない。小向の笑顔を見てそう思った。温厚そうな顔の下には、化け物がいることをよく知っているからだ。自然に名前で言われていることに寒気がしてくる。聖月は、逆らえずに椅子に座った。
椅子の居心地はいいが、この部屋の居心地はよくない。前を見れば、小向がいるからだ。2者面談のときの、先生と一対一よりかなりきつい。そっちのほうが、何倍もましなような気がする。
目の前の小向の顔が見れずに、肩のほうを見詰める。目を合わせたら、自分の気持ちをそのままに罵声か何かをぶつけそうだ。無言のまま、聖月は机を見る。
机には、何かの書類があった。あまり暗くて見えないが、びっしりと何かが書いてある。
「聖月、昨日何があったか覚えてる?」
ぎょっとした。小向の笑顔には、何も感じられない。無、だ。気持ちもこめられていない笑顔だと、すぐ分かる。云われた言葉も驚いたが、そのことが一番怖かった。しかも、そんな笑顔で言われたのが聖月にとって最悪なものだった。手を、握り締めて、問い詰めたいのをどうにか耐える。
この答えははい、といいばいいのか、いいえといえばいいのか分からない。どっちを云ったとしても、結果が見えている。
「……」
迷った末に、口からてきたのは空気だった。云いたいことがありすぎて、結果的に何も伝えられなかった。
「そんな無表情で見られても、無言だったら覚えているのか、覚えていないのか分からないよ」
また、にっこりと微笑まれた。笑っている皺がくっきりと刻まれているのに、何も感じない笑顔だ。作っている笑顔より、怖かった。目が笑っていないからだ。この人の笑顔はなんでこんなにも、怖いのだろう。笑顔とは、そんなものではなかったはずなのに。
「…なんであんなことしたんですか」
声に怒気を含んで、聖月は睨みつける。あまり睨んだ経験がなかったので、こめかみが引くつく。今ですら、泣きたくて泣きたくてたまらない。理由は、たくさんあるが、一番のことは目の前に居る男の存在だ。
小向を見るだけで、昨晩のことが蘇る。一思いに自分の髪を掻き毟りたい衝動が襲われる。この人は、目の前で鞭を打たれている聖月を見て楽しんでいたのだ。狂っている。狂っている男だ。その男と一緒の部屋で息をしていることが、気持ち悪い。
またもや、男は笑う。
「なんだ。覚えているんだね、ショックで忘れられたら困るから、どうしようかと思ったよ」
あまりのムカつきで、涙が出てきそうだ。小向の言うとおり、ショックで記憶がなくなっていればよかった。そうすれば、今みたいに苦しい思いをしなくてもすむのに。
実際聖月は、あまりのショックで昨日の出来事を夢だと信じ込もうとしていた。それほどのことを、この男はした。いや、この施設に居る男たちはしたのだ。
「……クソ野郎」
ぼそっと、聖月は言う。
「おい、聖月。今、小向様になんていった?!」
聞こえていたのか、神山が鬼の形相で聖月の髪を思い切り引っ張る。
「――ヒイッ」
神山に似合わない力で思い切り引っ張られ、聖月は呻いた。神山の顔は、先ほどの美しい顔ではない。人ではない形相で、聖月を睨んでいる。あまりの痛さで、はらはらと涙が出てきた。聖月がばたばたと足をばたつかせると、小向が云う。
「こら、神山。そこまで怒らなくていいから」
「でもっ、コイツは小向様に暴言を言ったんですよ! 許せないっ…」
聖月は、手の力が抜けた瞬間に頭を抱え込んで逃げる。頭皮がズキズキと痛んで、今にも抜けそうだ。実際に、手を見てみると何本か抜けていた。それを見たとたん、寒気が走りぞっとした。はぁはぁと肩で息して、どうにかこの痛い胸を押さえ込もうとする。
突然の神山の行動に、聖月は驚きを隠せなかった。こんなことをする、人ではないと思っていたのだ。聖月のなかの、神山の人物像がぐらぐらと揺れていた。
「まったく、これからの大切な商品に傷をつけないでくれよ。神山、君もその一人なら分かるはずだよ」
「なっ…! あの話本当にするんですか?! 俺は、反対ですよ!」
「黙ってなさい、秋人」
「……ッ」
急に名前を呼ばれて、神山は言葉は発せていない。
商品――…。
指を指されながら、聖月は小向に「商品」といわれた。―――俺が、商品だって? 意味が分からない。
聖月は「商品」という言葉が引っかかっていた。聖月は「人」で、売り買いする「商品」ではないのだ。そんな風に云われたのが不愉快で、思わず口を押さえる。この男は、人間を「物」に思っているのか。それに、どうして自分が「商品」といわれたのかが聖月には理解できなかった。
それをいった小向に、神山が激昂する理由も分からない。
「俺は、商品じゃない。あんたらはおかしい」
言い切った聖月に小向は鼻で笑う。
「おかしくないさ。君はもうじき商品になる」
小向は、自信満々で頭がおかしいことを云っている。どうして、さも自信ありげにそんなことを言うのだろう。ばかばかしすぎる。人は絶対に「商品」にはならないし、聖月も「商品」になる気はないのだ。聖月は、自分が正しいと確信しながら早口で言う。
「意味が分からない。俺はもうあんたらに付き合ってられない、裁判所に訴えて金をごまんと請求してやる。それで、ここから出てやる。もうあんたらには一生会わない。永遠におさらばしてやる」
「それは無理な話だ」
「はあ?」
何が無理な話だというのか。
小向たちは、聖月が訴えて一生償ってくれてもいいぐらいのことをした。なのに、なんでそれが「無理な話」なのか。
疑問がいっぱいの聖月に、小向は机から何かのケースを取り出した。そして、聖月のいるほうへと机でスライドしてみせる。それは、ひとつのDVDケースだった。嫌な予感と悪寒がして、聖月は目を見張る。
「これ、なんだか分かる?」
小向は、心のこもっていない笑顔の仮面を披露しながら言う。
「え……?」
疑問を隠せない聖月は、そのDVDケースのマジックで書かれている文字を見て息を止めた。
――『聖月-ミツキ-』
「…は…」
頭が真っ白になった。―――まさか、そんなはずはない。いや、でも、これは。
聖月の頭痛でいっぱいの頭の中に、小向の声が響く。
「これね、昨日の聖月。よく撮れてたよ、ためしにモザイク編集して客に渡したらすごく喜んでたよ。指名できるかって」
「……は……」
気づいたら、DVDケースを拳で叩き割っていた。自分でも驚くぐらいの、力でDVDケースごと中身まで真っ二つにしていた。すごい音がして、自分が割ったのだと気づいた。無意識のうちに、割ってしまったらしく、小向がおどろいた形相でこちらを見ていた。
神山も同様に、隣でびっくりした顔で立っている。DVDを割った手がヒリヒリと痛む。
「何やってんの」
間抜けな声で小向が喋る。こんな声は初めて聞いた。
「……いえ、俺も知りません」
「聖月が割ったんでしょ」
「そうですけど、無意識で」
そういうと、隣の神山が早口で言う。
「いやいや、無意識はねえわ。これ、何円すると思ってんの? 一本無駄にして、ただで済むと思ってんの」
「こんなDVD壊せばいいんです。だから、割ったんだと思います」
聖月がそういうと、弾けたように低い笑い声がどこからか聞こえてくる。
「ふっ、ははっ」
びっくりして前を見てみると、小向が爆笑していた。こんな風に笑うのかというほど、声を出して笑っている。なんだか、不気味だ。神山も、そんな小向に驚いているのか、声を失っている。そんな小向は見たことがない、といいたげだった。
しばらく、笑っていたが落ち着いたのか、小向はいう。
「あー、笑ったよ。別に割ってもいいんだけどね、何本もあるし」
「な!」
神山が先ほどに言っていたように、このDVDは何本もあるらしい。恐ろしくて、悪寒がする。
「なんで、こんなDVDがあるんですか? こんなもの、あってはいけないのに」
聖月は、恐ろしさのあまり震えながらそんなことを聞いていた。こんなDVD誰が見るのだろう、という疑問もある。こんなもの見る人間なんて趣味が悪すぎる。
「需要があるから」
「需要? どこに、こんなもの」
「あるよ。聖月は売れると思うし、こういう子は珍しいから」
意味が分からなくて、聖月は叫ぶ。
「だから、誰に! これを売ったんですか!」
先ほど、このDVDを小向は売ったといった。こんな、悪趣味なビデオを。売った人物を問い詰めて、どうにかして回収しなくてはならない。こんなもの、この世に存在してはいけないものだ。見知らぬ人に見られていると思うと、背筋が凍る。知り合いにでも見られたら、たぶんショックのあまり聖月は自殺するだろう。
「Demento(ディメント)の客に」
ディメント――…?
何かの、場所の名前だろうか。それとも、店の名前か。聖月がもんもんと考えていると、小向が答えを教えてくれる。
「まあ、いっちゃえば男で身体を売るところ…で、それを〔買い〕にくる客に売ったんだ」
聖月は言葉を失った。大きな衝撃が襲う。
今、この男はなんといったのだろう。男で身体を、売るところ…――つまり小向はいわゆる『男娼館』で、それを買いにくる客に売ったといっているのだろうか。ありえない。意味が分からない。
聖月は、呆然と割れているDVDを見た。この中身は、見るに耐えない聖月の痴態が納められている。それを、この目の前にいる男はそんなところで売ったということか。衝撃で何もいえない屍のような聖月に、小向は囁く。
「君はそこで、働いてもらうよ。泣いても、拒否は出来ない」
「…なんで…」
耳に囁かれて、それだけしかいえなかった。声がかすれて、小さな声しか出てこない。もっと、大きな声で問いたいのに。
―――働くって、なんだ? 働くって、その男娼館にか? 自分に、もしやその男娼になれと小向は言っているのか?
小向は本当にどこか、頭がおかしいんじゃないだろうか。聖月は、唖然として椅子にもたれかかった。反論する気もならない。本当に、これは夢じゃないのだろうか。普通はありえないことが、今まさに起こっている。
「だって、このDVDたくさんの客に売ったし、指名したいって人もいるし」
「そんなことは、理由にならない…」
「なるよ。このDVD聖月のお兄さんとか、お友達に見られたくないでしょ?」
「…ぁあ…あ」
云われて、もだえることしか出来なかった。どんな人より清十郎や、十夜や、衛にだけは見られたくなかった。絶対に、見られたくなかった。こんなDVDを見たら、いつもの日常には戻れないだろう。
そして、聖月のことを軽蔑して、友人や、家族ではなくなってしまうだろう。軽蔑しなくても、絶対に普段の日常には戻れない。それだけは、嫌だった。あの人たちは聖月の光で、宝物だったから、それを奪われるのは嫌だった。絶対に。
「だから、そんな友達思いの聖月に特権があるんだ。大学卒業したら、お仕事はやめていいよ。DVDも、出来る限り集めるから。それだけでいいよ」
小向が、働く前提で話を進めている。意味が分からなくて、声が震えた。
「もし、いやだって云ったら…?」
うーんと、考える仕草をして小向は能面のような笑顔を送る。
「そうだな、このDVDをお友達に送るのはどうかな? お兄さんも、あ、ついでに先生に送るとか。お兄さん、びっくりすると思うなー」
そういわれたとたん、心のどこかがストンと落ちる感覚がする。自分に、拒否権がないことを思い知らされた。未来が、見えない。不透明で、そのころまで生きているかも分からない。
気がつけば自然と聖月の涙が目から零れ落ちていた。
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