アドレナリンと感覚麻酔

元森

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第三章 第十二話

126 友達としての心配

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◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
 
「あっつ…」
 聖月は、大学に行く途中、ぽつりと言った。それも無理はない。11月だというのに24度を超えており、日差しが強い。蜃気楼が見えるような、むあっとした空気に汗が噴き出る。じっとりとした嫌な汗がYシャツに張り付いた。
 ケイが大学へ行く前に「蒼がご乱心だから聖月止めてよ!」と言われたが、時間がないので無視して出て行ってしまった。蒼がご乱心なのはいつもの事じゃないか―――。そう思ったが、ケイが聖月に助けを求めてくるということはかなり怒っているのだろう。こういう時は、近づかない方が吉だと言う事を今までの経験上分かっている聖月は知らぬ存ぜぬを貫こうと思う。
 とにかく今は疲れているのだ。余計な面倒事を背負いたくなかった。そうでなくても昨日の客のせいで、とても顎が痛い。
 聖月は…蒼が襲ってきた以来、幸福なことにセックスをしていない。客には会っているが、昨日の客は口で奉仕をしてほしいなんて言って身体を重ねない指名が多い。客の性器を奉仕するのは慣れたが、身体はやはり『直って』いない。行為をしている最中は顎が痛いし、喉がイガイガする。
 それが自分にとっていい変化かはもう聖月自身分かっていない。感覚が戻ってきている―――。つまりは、これから鞭などを振るわれたら…今までは感覚がないから耐えられたものがもう耐えられないことを意味していた。いや、それが普通の状態なはずだ。今までがおかしかっただけだ。ずっとこの状態を望んでいた。だが、いざ直ってみれば不安が付きまとう。
 こんな状態で客とセックスなんてしたくない。自分がどうなるか聖月が一番分からないからだ。演技をして、やっと自我を保ってきたのにそれがなくなったら自分は―――。
「聖月、」
 声と共に肩を叩かれて、飛び上るほど聖月は驚いた。思考をしていたから余計に、大げさだというほどビックリした。―――この低くて甘い声はもしかしなくても。
「十夜っ…」
 はー、ビックリした…。と、聖月は久しぶりに見る親友の顔を見つめる。
 十夜は、高そうなベージュのコートを着て、微笑んでいた。彼が笑うと色気が凄まじくバラが咲いたようになるのは、聖月の幻だろうか。切れ長の目で十夜は大きく瞬きをする。
「そんなにビックリしたか?」
 悪いねぇ、と軽く言う十夜に聖月は首を振る。聖月の強がりを十夜はクスクスと笑っている。何だか悪い気分にはならなかった。
「そのコート暑くないの?」
「あっちいよ。失敗した」
「だよなぁ。脱いだら?」
「こんなに暑いとそれすらめんどいもん」
「なんかすっげえ分かるわ~」
 あはは、と聖月が笑う声がコンクリートの道に響いた。
 ジリジリとした暑さが二人を包む。二人はたわいもない雑談しながら大学へ向かっていった。一緒に行こうと言わず、自然に、だ。ここまでぎこちなく会話ができることに聖月はほっとしていた。十夜はあくまで前と同じように友達で居てくれている。それが嬉しくて、久しぶりに見る十夜の姿に、先程までの憂鬱が吹き飛んで聖月は心が弾んでいた。
「聖月は就職どうするか決めたのか?」
 急に現実に戻される質問をされて聖月は上を仰ぐ。
「うーん、まずは筆記試験の勉強からだなぁ~」
 勉強しながらの会社選びは大学生にとって大切なものだ。もう学部によっては内定が決まったと聞くと、よけいに焦ってしまうのは何でだろう。3年生の11月は、インターシップが始まり皆が徐々に就職活動が始まる時期だ。聖月もインターシップの企業を選ばないといけない場面になってきた。
 十夜は弁護士になるという夢があるので、このまま法学部の勉強をこなして院に入り司法試験に向かっていくらしい。当たり前だが十夜には今時点で就職活動は必要ないってことだ。
 そんな十夜は自分よりも聖月の事が気になるようだ。心配そうに見つめられ、聖月は自分の思いを吐露する。
 面接も緊張するが、まずは1次試験目の筆記試験の方が聖月にとっては鬼門だった。
 そんな聖月に十夜は、頼りになる表情で言い切った。
「俺でよければいつでも勉強教えるけど」
「え? いいの?」
 頷く十夜に聖月は笑みを浮かべる。路頭に迷った状態からの救いの手だった。
「ああ。俺でよければ」
 ニコッと笑う十夜に胸が高鳴る。
 十夜の教え方は聖月に合わせてくれているからか、とても分かりやすいものだった。この提案に何度救われたか分からない。聖月は大きく頷いて「じゃあ、今度お願いする」と十夜の好意に甘えることにした。しばらくそれから黙って歩いていたが、ふいに十夜が口を開いた。
「なあ、聖月……最近なんかあった?」
 それは聖月の動きを鈍らせるには十分なものだった。おずおずと切り出され、聖月は目を丸くする。何て答えればいいのだろう、と「えっと」「あの」と口をまごまごとされていると十夜はばつの悪そうな顔をした。
「たちばな、じゃなかった。親父が…昨日突然家に帰ってきてさ」
「―――」
 たちばな、と名前を言ったのは、十夜がどう「お父さん」のことを考えているのか雄弁に語っていた。まさかここで橘の名前が出るとは思わず、頭がクラりとする。
 『ディメント』と現実の境が曖昧になって、急に聖月は怖くなる。十夜は聖月がディメントで働いていることを知っている。そして、彼の父は聖月のお得意様だ。それを知る前から、十夜の父親はろくでもない印象しか持っていなかった。家に帰ってこない、顔を見てない、国会議員だが今どこで何をしてるか分からない―――。
 そんな父が急に帰ってきたとなると、十夜の不審がるのも無理はない。
 そうして十夜は言葉を紡いだ。
「聖月に何かあったのか、ってことをしつこく聞くんだよ。…なんもねえよって言ってやったけどさ」
 十夜の長い脚で蹴った石ころがどこかへ飛んでいく。
「そ、そう、なんだ…」
 何かあったか、と言われれば様々なことがあった。だが、聖月は最近橘と会ってはいなかったから、そう聞かれる理由が見当たらない。
「アイツ…最近、店に来るのか?」
 聞くのも憚られる、そんな辛そうな顔で十夜は問う。
 そんな顔をさせているのは自分だ。聖月は、胸が苦しくなって胸を押さえる。俺のせいで―――。
 自己嫌悪になりそうな自分を叱咤し、聖月は首を振る。
「き、来てない…」
 会ったのはパーティーのときだ。あの時は、橘に絡まれて…宗祐に助けてもらった。そのことを思い出し、さらに胸が痛くなる。
「そっか…」
 十夜が聖月の答えにほっとしたような、悲しそうな、寂しそうな顔をする。そんな十夜に、聖月は罪悪感を抱く。
 十夜はディメントをやめろとは言わない。だが、ずっと心配してくれている。身体を心配し、心を癒そうとしてくれている。それがどれだけ有難くて、そしてそれは聖月に罪の意識を植え付けるものだった。
「ホントだな…?」
「…うん」
 目を細め、問いかけじっと十夜は見つめてくる。まるで裸まで見透かされたような気持になり聖月は俯いて頷いた。嘘じゃないはずなのに、妙に罪悪感を抱いてしまう。それから何を話していいかわからなくて、終始無言を貫いてしまった。そして、そうしているうちにいつの間にか大学の正門前にたどり着いた。
 ここからは十夜と聖月は別れ道に入ってサヨナラのあいさつをしなくちゃいけない。
「じゃあ、また…連絡する」
「うん。これから十夜の教えを請う哀れな羊になる」
「あははっ、なんだそりゃ」
 季節外れなじりじりとした暑さが二人の肌を汗で満たす。くだらない聖月の言葉で十夜の楽しそうな笑い声をずっと聞いていたかった。十夜の笑い声は、聖月の心を癒してくれた。まるで何も知らなかった高校生に戻った気がして。
 別れる際に大きく腕を振ると、十夜も腕を振ってくれた。―――久しぶりに会ったのに、全然話せなかったな。
 小さな後悔を持ちつつ、聖月は自分の学部へと一歩歩みだした。その背は、十夜に初めて会った時よりずいぶんと姿勢よくピンと伸びていた。
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